◯『塵塚談』〔燕石〕①276(小川顕道著・文化十一年成立)
〝我等十四五歳の頃(宝暦初年)は、御家人弐三拾俵高の妻女をかみ様と、皆人称せり、まして商人は、
富家にてもかみ様とよび、子共が親兄へは、とゝ様、かゝ様、あに様、あね様といひけり、然るに、二
三十年苛、同心、渡り用人の類の妻、町人も相応にくらす者の妻は、御新造様と称し、又は一日くらし
の者の子共も、御とゝ様、御かゝ様、御あに様、御あね様といふ事になりたり。いはんや富家の浅草札
差は心至り、礼儀武家をまねて、娘をおじやう様、妻を御新造様と称す、大名の嫡子をの室を御新造様
と称する事を知らずして、僭上無礼なる事、悪むべし、世の中奢れるより、言語までおごりて、実儀は
薄く、軽薄になれ、諸商人は、卑賤の者へも売物を売付んとてあがめうやまふより、移り来りし事成べ
し〟