Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ きょくが(きょくひつ たいが) 曲画(曲筆 大画)浮世絵事典
 ☆ 安永五年(1776)    ◯『宴遊日記』(柳沢信鴻記・安永五年(1776)日記)   〝十月十四日 夜三絃【木俣に米粒へ秀鶴〈中村仲蔵〉似面を画たるを貰ふ】    〈米粒に似顔絵とは一種の曲画きか〉    ☆ 安永六年(1777)    ◯『宴遊日記』(柳沢信鴻記・安永六年(1777)日記)   〝五月十六日 お永よりお万鰒、秀鶴〈中村仲蔵〉・杜若〈岩井半四郎〉を米粒に書たるを貰ふ〟    ☆ 文化元年(享和四年・1804)    ◯『一話一言 巻四十一』〔南畝〕⑭595(文化一年四月十三日明記)  (文化元年四月十三日、護国寺境内において、北斎は巨大な達磨の半身像を画いた。その様子を中村文蔵    という人が書き留めていた。南畝はそれを書写したのである。中村文蔵(子寅)は文晁の項参照)
 〝北斎画大達磨紀事  文化甲子三月、護国寺観音大士、啓龕縦人瞻拝、士女雲集、率無虚日、四月十三日、画人北斎、就其堂    側之地、画半身達磨、接紙為巨幅、下鋪烏麦稭、以襯紙底、紙大百二十筵、画者攘臂褰裳、縦横斡旋、    意之所向筆亦随之、蓋胸中已有成局、不持擬議而為也、画成、観者環立、嘖々賞歎、然唯見一班、未能    尽其情状、登座堂俯瞰、所見始全、口大如弓、眼中可坐一人、其所用、四斗酒榼一、胴盆、皆以貯墨、    水桶一、以貯水、為筆者凡六、而藁箒居三、大者如罍、小者如瓶、棕箒二、地膚箒一、皆以代筆    右中村文蔵所記〟    (書き下し文)    〝文化甲子三月、護国寺の観音大士、龕(ガン=厨子)を啓(ヒラ)きて人の瞻拝を縦(ユル)す、士女雲集して、率(オホム)ね虚日無し、     四月十三日、画人北斎、其の堂の側に就きて、半身の達磨を画く、紙を接ぎて巨幅と為し、下に烏麦の稭(ワラ)を鋪(シ)き、     以て紙底に襯(ホドコ)す、紙大百二十筵、画者臂を攘(ハラ)ひ裳を褰(カラ)げて、縦横に斡旋し、意の向ふ所筆亦之に随ふ、蓋     し胸中已に成局(完成形?)有り、擬議を待たずして為すや、画成る、観る者還た立ち、嘖々と賞歎す、然るに唯一斑を見     て、未だ能く其の情状を尽くさず、堂に登り俯瞰して、見る所始めて全たし、口大にして弓の如し、眼中可坐一人、其の     用ゆる所、四斗酒榼(樽)一、銅盆二、皆以て墨を貯(タクハ)ふ、水桶一、以て水を貯ふ、筆と為すは凡そ六、而して藁帚は     居(おくこと?)三、大なるは罍(ライ=酒樽)の如く、小なるは瓶(ヘイ)の如し、棕帚二、地膚帚一、皆以て筆に代ふ〟  ◯『東洋絵画叢誌』第三集・明治十七年十二月刊(復刻「近代美術雑誌叢書」3・ゆまに書房・1991刊)   〝北斎半身達摩    葛飾北斎翁は名は戴斗。人物鳥獣類を写すに妙を得、此種の画を作るもの、当時翁を推して巨擘となす。    文化元年四月、江戸音羽護国寺観音の開帳ありし時、老幼遠近より群集せり。其十三日、翁は堂の庭に    麦擘稈を舗き、上に白紙の接ぎ合せたる大さ百二十席程のものを展べ、側らに四斗樽を置き、墨水を其    (の)中に充て、準備既に整ひ、襟を正ふし袂を褰げ、藁帚を以て筆に代へ之に墨を濡し、臂を伸べ身を    転じ、山に似、洞に似、大木又は巉巖に似たるものを画き、毫も遅疑する所なく、恰も帚もて落葉を掃    ふが如く、須臾にして成る。聚り見るもの其(の)何たるを弁ぜず。堂に上り俯し瞰れば、即(ち)半身の    大達摩なり。茲に於て人々皆驚く、其(の)口の大さ馬を通すべく、眼晴の中には一人を座せしめて余り    あり。故に其(の)全図の広大なるを知るべしと、当日親しく彼寺に詣でし人の筆記に見えたり〟    ◯『増訂武江年表』2p30(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「文化元年」)   〝三月より護国寺観世音開帳あり。四月十三日画人北斎本堂の側に於いて、百二十畳敷の継紙へ半身の達    磨を画く〟    ☆ 文化十四年(1817)    ◯『葛飾北斎伝』p118(飯島半十郞(虚心)著・蓬枢閣・明治二十六年(1893)刊)   (十月五日当日の様子を記録した猿猴庵・高力種信の『北斎大画即書細図』の抄出)   ◇月光亭墨僊の序   〝【上略】此頃、余が師東都の北斎戴斗、尾陽に来りて遊べる折から、書林例の板下てふ物を催し、くさ    ぐさの冊子をこふて、昼夜筆をおくいとまなし。其板てふ物は、寸紙の内に数百里の密景をあらはし、    微細なることいふばかりなし。ある人かゝる板下物は、細工の類にして、画をなせるとは、別の物なれ    ば、一葉の唐紙には、筆の立所もおぼつかなしといへるまゝ、さいはひ数日板下に筆を縮めぬれば、腕    延しに、大画てふ物をなして、一時の興にせばやといへるを、我輩そはめづらしき事なり。いざ紙つが    ばやとあつまりて、既にかゝる一興とはなれり。そを画友猿猴庵の主人、例の筆まめにして、其場所の    用意をなせるより、事終るまでは、こと/\く図に写して、一冊となし、携へ来りて、予に序せよと。    【下略】〟       ◇高力種信の本文   〝文化十四年丁丑の春より、東都の画工、北斎戴斗、我が名陽に来りて、何某のもとに逗留す。【中略】    同年十月五日、西掛所の東庭にて、大画の達摩を即書する由にて、其の趣を板行になし、諸所の書林の    店々に配りたれば、此(コノ)沙汰府下にかくれなく、既に其日は見物の群集夥(オビタダ)しかりし。    いと珍らしき事なる故、其儘なる図画にあらはして、千歳の不朽に伝ふ。    十月五日早朝より、かの大画を見物せんとて、貴賤老幼足を空(ソラ)になし、門前町の人通り、櫛の歯    を引くが如し。【中略】さて西掛所本堂の東北の方なる集会所の前の庭上に、席を設(モウ)け、杉丸太    をもて、ませ垣を結ひ、其中に料紙をひろげ、此紙の下には、籾売(モミガラ、注1)をしきたり。其の    紙の大(オオキ)さ畳につもりて、百二十畳敷なれぱ、竪巾(タテハバ)十間、横巾六間あり。これは合羽    (カツパ)をつくる者、元重町(モトシゲチヨウ)の理相(リソウ)寺にてつぎたる由なり。さて巣会所の軒に添    ひて、杉丸太をたて、足代(アシシロ)の如くにして両方の端の丸太の頭に、小車を仕かけ、料紙の上の方    に軸をつけたるに、細引の綱をつけて、大画出来すれば、引きあぐるためとす。其画く所の筆は、藁一    把ばかりなるを面書(メンガキ)とし、蕎麦売(ママ)(ソバガラ)一とからげにしたるを、毛書(ケガキ)とす。    月代(サカヤキ)、髭などにこれを用ゐ、(注2)衣紋をかくには、俵をくずしたる薦(コモ)、五ツばかり    もよせたる程の藁筆を用ゐ、墨は、摺鉢にてすり、大(オオイ)なる桶に入れ置きたり。又紙の三方には、    杉丸太をおきて、文鎮(注3)とし、紙の縁(ヘリ)には敷物をして見物の席を設(モウ)く。昼過ぎより    画きはじめたるが、北斎は、門弟一両輩と共に、いづれも襷(タスキ)をかけ、袴(ハカマ)の裾(スソ)を    高くとりあげ、さて紙をひろげたるに、西の方に墨を入れたる桶をおきて、青銅の薄盤に少しづゝ墨を    うつし、門人にこれを持(モタ)せおき、一筆かきて又墨をうつせり。先づ藁一把程たばねたる筆にて、    鼻をかき、其欠に右の眼、左の眼、夫(ソ)れより口、耳、あたまを画き、胸のあたりまて出来(シユツタイ)    せしかば、それより蕎麦売を一とからげにしたるを持ちて、毛書とし、月代(サカヤキ)、髭なんどをかき、    さて墨ぐまをとるには、薄墨を手桶に入れて、椶櫚箒(シユロボウキ)に此墨をつけて、くまどりをなし、門    人等これをけして、薄墨をちらし、ぼかすには、手桶に水を入れて、椶櫚箒を用ゐたり。又彩色をなす    に、赭石(タイシヤ)を薄くときて、手桶に入れ、これも椶櫚箒にてぬり、門人等あとより手桶のちらし、    彩色をなしたり。しかして、衣紋を画(エガク)には料紙を半分ほど、かの仕かけの小車にて、上へ引き    あげ、衣紋の所ばかり庭にのこしたり。これを画く筆は、俵を五ツばかりくづしたる藁をからげ合(アワ)    せて用ゐたり。これは重きゆへに、墨入の桶より持ち運ぶには、墨入の盤に筆をのせて、これを門人共    につりはこばせたり。此頃世上の噂に、俵を五俵からげ合せ、画くよし沙汰せしは、此藁筆のことなり。    夫れより衣の彩色をするに、赤き画具(エノグ)を手桶に入れ、柄杓(ヒシヤク)にくみて所々へちらし、椶    櫚箒に水をつけて、これをちちらし、又ぼかしなどせしなり。衣の彩色は、門人等これをなし,其あま    り水にぬれて紙のしめりたる所は、傍(カタワラ)の周旋人(シユウセンニン)等、雑巾をもて、これをおさへ、し    めりを取りたり。漸(ヨウヤク)夕方におよび出来しけるを、かねて供へし杉丸太の上に仕掛たる小車にて、    七間ばかり上に引あげたれど、まだ半分は庭をはなれず、其儘にて諸人に見せしむ。貴賎群集してこれ    を見る。さながら蟻(あり)などのたかりたるが如くなり。【下略】    翌六日の朝、杉丸太を仕直し、大画をかけて終日諸入に見せしむ。画中に、文化十四丁丑十月五日、東    都画狂人北斎戴斗席上としるせり〟       (注1)原文は「鞘糠(サヤヌカ)」     (注2)原文はここに「墨ぐまをとるには椶櫚箒(シュロボウキ)を用ゐ」の文がある     (注3)原文は「重(オモシ)にをきて文鎮とす。実(マコト)に仰山なる事どもなり。         此の紙の縁には敷物をして見物場となせり」となっている    北斎画大達磨 猿猴庵画(『北斎大画即書細図』)    尾張名所図会 附録 巻之一 小田切春江画  ☆ 天保四年(1833) ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③314(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   〝蹄斎北馬【文化、文政ノ頃ノ人】    北斎に画法の業を受て、狂歌摺物を多くかけり、読本の密画に妙を得て数十部の板刻世に行れて、人の    知る処也、左筆の曲画をよくす〟  ☆ 年月不詳    ◯『わすれのこり』〔続燕石〕②125(四壁菴茂蔦著・安政元年?)   〝北斎大馬    本所合羽干場にて、せんくわ千枚つぎに墨画の大馬を画きたり、桟敷をかけて見せたり〟  ☆ 嘉永六年(1853)  ◯『増訂武江年表』2p135(斎藤月岑著・明治十一年稿成る)   (「嘉永六年」記事)   〝六月二十四日、柳橋の西なる拍戸(リヨウリヤのルビ)河内半次郎が楼上にて、狂歌師梅の屋秣翁が催しける書    画会の席にて、浮世絵師歌川国芳酒興に乗じ、三十畳程の渋紙へ、「水滸伝」の豪傑九紋龍史進憤怒の    像を画く。衣類を脱ぎ、絵の具にひたして着色を施せり。其の闊達磊落を思ふべし〟    〈下掲『内外古今逸話文庫』記事参照〉  ◯『内外古今逸話文庫』6-10編 岸上操編 博文館 明治二十六年十月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション) ※原文は漢字に振り仮名付き   (「文芸」の項)   〝歌川国芳浴衣を以て岩石を画く(9/410コマ)    嘉永六年、両国柳橋の河内屋にて、狂歌師梅の家鶴子狂歌画会の催しあり、其席にて一勇斎国芳、畳五    十畳敷に、水滸伝百八人の内、九紋龍史進を画けり、当日国芳大勢の門弟を取持かた/\連来り、おの    れを始め一同、真岡木綿白地に大絞りの浴衣の揃(そろひ)にて、扨(さて)画(ゑ)にかゝり、人物を認め    おはりて、九の龍を画き、雲のところは手拭の両端に藍と薄墨を浸し、これにて隅どり、それより浴衣    を脱ぎて、磨(す)り置きたる墨の中へ入れ、よく/\墨を含ませ、史進が足を踏みかけたる岩石を画き    けるに、筆力勁健にして、おのづから凡ならず、一座どつと感嘆して、感嘆して、流石は当時江戸に名    高き画工なりと評判せしよし〟   〈水滸伝の九紋龍史進を畳50畳大に画いたという国芳の曲画。それにしてもどのように展示したのであろうか〉  ◯『日本絵画名家詳伝』下 竹内楓橋著 春潮書院 大正六年二月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)   (歌川国芳の項)   〝嘉永六年六月 両国柳橋の割烹店河内屋に於て 狂歌師梅ノ屋鶴寿の催せし書画会に 国芳出でゝ畳五    十畳の大紙に水滸伝中の一人 九紋龍史進の像を画きたり 史進が九龍の刺青は 手拭の両端に藍又は    薄墨を浸して之を点ず 夫より浴衣を脱ぎて 磨り溜めありし墨の中へ入れ 能く墨を含ませ 史進が    踏みかける巌石を画きたるに 筆力勁健意匠奇絶 観る者感嘆せざるはなし〟    ☆ 慶応二年(1866)     ◯『増訂武江年表』2p203(斎藤月岑著・明治十一年成稿)   (慶応二年・1866)   〝八月の頃より、浅草御蔵前に場を張りて、天神小僧となづけたる男児出て、文字の曲書(キヨクガキ)をなす。    生年七歳、桶川宿の生まれといへり、容貌も醜くからず、姓名は聞かざりし。逆筆、左文字或ひは手巾    をもて頭へ筆を結へつけ、又は臂へはさみて書す。見物の好により真草、逆筆(ギャクヒツ)等自在に書す。    奇といふべし〟  ☆ 明治六年(1873)  ◯『増訂武江年表』(斎藤月岑著・明治十一年成稿)   〝五月一日、画人狂斎、柳橋河内屋半次郎が楼上に於いて千枚画をなす。草筆の達者なり〟  ☆ 明治二十六年(1893)  ◯『葛飾北斎』太華山人著(高橋省三編『少年雅賞』所収・明治二十六年五月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(45/74コマ)   〈原文は漢字に読み仮名付きだが、本HPは一分を除き省略した。【 】は二行割書きの部分〉   〝文化元年の四月、音羽の護国寺に於て観世音の開帳ありし時、北斎堂前の広庭に百二十畳継(つぎ)の大    紙(だいし)を延(の)べ、四斗樽数個に墨汁を湛へ、藁箒の大なるを筆に代へて、落葉を掃くが如く之を    擁し、紙上を何方(かなた)此方(こなた)と飛びめぐりて、忽ち山水の如き図を造れり。されども四面を    囲みて傍観せしもの其何たるかを認め得ざりけるに、北斎、衆をさしまねぎて、堂上に登れと曰ひけれ    ば、人々高欄に倚(よ)りて瞰下(みおろ)せば、是なん半身の達磨なりけり、其大(おほい)なること口に    馬を通すべく、目に数人を座せしめて余りあり、筆勢は雅健にして、姿勢は厳正に、観る人をして嘆賞    已(や)む能はざらしめしとぞ。後年名古屋に旅行せし時も、大須に於て三百余畳の大紙に同じく達磨を    描きて、関西(くわんせい)の人を驚かせしことありしが、其折は俵数俵を束(つか)ねて筆に代へ、門人    を指揮して鬚髯(ひげ)及び彩色(いろどり)をなさしめけるとぞ。     音羽に達磨を描きし後、本所合羽干場に於て紙筆かたの如く敷き設けて、奔馬の大画を作り、さて又    回向院に於て同じく大紙に布袋を描き、其席にて直ちに米粒に雀二羽を描きて観る人の魂を奪ひけり。    此他北斎は曲筆(きよくひつ)に巧(たくみ)にして、或(あるひ)は逆に描き、或は横に描き、或は種々の    器物を筆に代へて描く等(とう)、実に人の意想の外に出でたり。且つ最も見取り図に妙にして、其目分    量は決して毫釐も誤りしことなし、されば北斎筆を持て広き床の間に向ひ、敢(あへ)て考ふる風もなく    て、卒然一点を下すに、即ち是れ真正の中央にして、尺度を当つれども毫末の差あるを見ざりしとなり〟  ☆ 明治三十一年(1898)  ◯『高名聞人/東京古跡志』(一名『古墓廼露』微笑小史大橋義著・明治三十一年六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション) ※(原文は漢字に振り仮名付だが、本HPは取捨選択。◎は不明文字)   〝或時両国万八楼の書画会に、国芳大酔興に乗じ、いで衆人を驚ろかしくれんと坐中の墨汁(すみ)を皆摺    鉢に集め、一(いつ)の大なる帚に浸し、満坐の客を廊下に退かしめ、数十畳の敷紙(しきかみ)へ水滸伝    中有名の事跡たる、花(くわ)和尚魯智深と九紋龍史進が、雪中奮闘の一大画を為せしかば、満場の喝采    暫しは已ざりしとぞ〟(20/119コマ)    〈国芳の席画記事としてよく知られているのは、嘉永六年六月二十四日に行われた梅の家秣翁(鶴子)の書画会におけるパフ     ォーマンス。斎藤月岑の『武江年表』によれば、国芳は畳三十畳ほどの渋紙に九紋龍史進の憤怒の像を画いたとある。然     るに、この微笑小史の伝える挿話は、同じ両国柳橋でも河内屋ならぬ万八楼であるし、題材も同じく水滸伝とはいえ九紋     龍史進単独ではなく花和尚魯智深との「雪中奮闘」とあるから、別のものなのであろう〉