〈狂歌の唐衣橘洲の「橘洲」の読みについて。従来「きっしゅう」と読むことが多いが、
以下の用例から本HPでは「きつじゅう」と読むことにした〉
◯『江戸花海老』〔南畝〕①94(四方山人の狂文・天明二年(1782)刊)
〝四ッ谷に橘洲(きつじう)〟
◯『古今狂歌袋』宿屋飯盛撰・天明七年(1787)刊
〝唐衣(からころも)橘洲(きつじう)」
◯『南畝莠言』〔南畝〕⑩385(大田南畝著・文化十四年(1817)刊)
〝余かつて明和八年辛卯九月十三夜に小島橘洲(コジマキツジウ)【名恭徒、字温之】のもとに
会せしに(云々)〟
◯『万紫千紅』〔南畝〕①272(蜀山人の狂歌集・文化十五年(1818)刊)
〝文月十八日唐衣橘洲(からころもきつしう)大人十三回忌に
むかしみし人はもぬけのからころもきつ十三のとしやたちけん」
〈「きつ十三」は「きつじゅうさん」だろう。橘洲の十三回忌は文化十一年(1814)〉
〈以上は大田南畝(四方赤良・蜀山人)の用例〉
◯『田家童蒙教訓百首』文会堂千寿 玩岳書〔玄阿〕序 文会堂(山田屋佐助)板
(跡見学園女子大学図書館「百人一首コレクション」1325 所収)
上巻〝忍之一字衆妙之門 忍事敵災星 小嶋橘洲(ルビこじまきつじう)
錦にも綾にもあらで堪忍の袋は見ても見事也けり〟
(下巻の扉絵に「村松」という名主の改め印あり)
〈名主の改(あらため)単印は天保14年から弘化4年まで。幕末まで「キツジュウ」と呼んでいたことが分かる〉