◯『日本帝国美術略史稿』帝国博物館編 農商務省 明治三十四年七月刊
(国立国会図書館デジタルコレクション)(166/225コマ)
(浮世絵派)※半角(かな)は本HPの読みかな
〝岩佐又兵衛 名は勝以、荒木摂津守村重の末子なり。村重信長に仕へて屡々軍功あり、摂津の太守と為
り、伊丹白に居る。後ち信長の命に叛く畔(そむ)く。信長父子城を攻むること数年、村重委して(ママ「捨
てて」か)之れを去り、尼崎に奔(はし)りて自殺すと云ふ。此の時又兵衛年纔(わずか)二歳、乳母之を
懐きて京都の本願寺に潜居し、外戚に因りて姓を岩佐と改む。性丹青に耽り、研究多年、遂に妙手と為
り、土佐狩野宋元彩色画の特長を湊合して、世態風俗を写し、別に一家を成す。世之れを称して浮世又
兵衛と云ふ。信雄亡ぶるの後ち漂泊して越前福井に寓す。此の時に有りて名声籍甚、又兵衛を知らざる
もの無きに至る。三代将軍家光其の能工なるを聞き、召して武城に到らしむ。慶安三年六月二十二日武
城に卒すといへり。彼の武蔵国入間郡仙波村喜多院中、東照宮の拝殿に掲ぐる所の三十六歌仙の扁額は、
実に疑ふべくもあらざる又兵衛の真筆にして、裏面には朱漆をもて、寛永拾七庚辰年六月十七日、絵師
土佐光信末流岩佐又兵衛尉勝以図すとあり〟