Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ きりくみとうろうえ 切り組み燈籠絵浮世絵事典
(立版古(たてばんご)・組上絵・切組絵・起こし絵)
 ☆ 安永六年(1777)    ◯『宴遊日記』(柳沢信鴻記・安永六年日記)   〝七月十一日 昨日新助に貰ひし錦絵灯籠を伝藏組立る【石山紫式部】〟    〈組み立てた「錦絵灯籠」は、源氏物語の構想を練る石山寺の紫式部を画いたもののようだ〉  ☆ 寛政年間(1789~1800)    ◯『増訂武江年表』2p19(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (寛政年間・1789~1800)   〝児輩の玩ぶ切組燈籠絵は上方下りの物なり。夫故始めは京の生洲(イケス)、大坂の天満祭の図様を重板せ    り。寛政享和の頃、蕙斎政美多く画き、又北斎も続いて画けり。文化にいたりて哥川国長、豊久、此の    伎に工風をこらし数多く画き出せり。其の梓今にありて年々摺出せり(筠庭云ふ、浮世絵なども北斎は    蕙斎の二の舞なり)〟    〈同じく斎藤月岑の明治時代の記事を引用しておく〉    ◯『百戯述略』〔新燕石〕④227(斎藤月岑著・明治十一年以降成書)   〝切組燈籠画、西京より下り候が元にて、活洲其外上方の図にて、寛政の末より享和の頃、江戸にて再板    いたし、夫より、蕙斎政美、葛飾北斎の両人、工夫いたし画出し、夫より後は、文化以来、豊国が弟子、    国長、豊久の両人、格別に工夫いたし、伊予奉書一枚切の錦絵に、五枚続、六枚続など申、燈籠絵出版    いたし申候〟〈国長の作例、下掲参照〉    ☆ 明治四年(1871)  ◯「月岑日記」斎藤月岑記・明治四年   (『近世文芸叢書』第12所収 国会図書館デジタルコレクションより)   〝九月 近頃のはやり物 タヽンデ仕舞ふ切組絵〟  ☆ 明治二十年代(1887~1896)  ◯『読売新聞』(明治29年6月29日)   〝昨今の錦絵    旬ものは政摺(まさずり)(伊予より産出する奉書に類して稍劣れるもの)の切組灯籠にして 小一枚五    厘 大は三枚六銭に至り 官吏商工何れを問はず 消暑の材料として切り組み取り合はして 一個の灯    籠を作り 黄昏火を点じて打水冷(すゞ)しき処などの置くは至極妙なり 其図は多く新狂言にして 昨    年十一月より現今に至るもの多し 即ち助六、左馬之助、地震加藤、五右衛門、狐忠信、道成寺、猿廻    し、文覚、暫、等なり〟   △『旧聞日本橋』p249(長谷川時雨著・昭和四~七年(1929~1852)刊)   〝(明治二十年代の日本橋界隈、夏の下町光景)    浴衣と行水が終日(イチニチ)の労(ツカ)れを洗濯して、ぶらぶら歩きの目的は活動もなくカフェもない、舞台    装置のひながたと、絵でいった芝居見たままの、切組み燈籠(ドウロウ)が人を寄せた。     (中略)    燈籠の中味は、背景も人物も何もかもが切りぬいた錦絵なのである。三枚つづき五枚つづき、似顔絵の    うまい絵師のが絵草紙屋の店前にさがると、何町のどこでは、自来也(ジライヤ)が出来たとか、どこでは    和唐内の紅流しだとか、気の早い涼台のはなしの種になった。そしてよく覚えていないが、脚光(フットラ    イト)などの工合もうまく出来ていた。遠見へは一々上手に光りがあててあった。曽我の討入りの狩屋の    ところなどの雨は、後に白滝という名で売出した。銀紙のジリジリした細い根がけ(白滝として売出し    たのは、今の左団次のお父さんが白滝とかいう織姫になった狂言の時だったと思う)を上から下へ抜い    て、画心に雨を面白く現わしたりしていた。白い菅糸(スガイト)(これもバラバラした根がけ)でこしら    えたのもあった。    何処の家で、今年は素晴らしい切り組みが出来たと噂されるほどなので、なかなか手を尽して、横長角    (ヨコナガカク)な遠見を、深くせまくした、丁度舞台の額縁通りなのが、三面ある家も、四角にして四面あ    るうちもある。一幕目二幕目と続いたのや、または廻り舞台のつづきや、一番目の呼物と中幕と、二番    目のを選んだり、更にまたその家の贔屓役者の当たり役ばかりを選んで幾場もつくったりした。前に言    ったような、動かして見せるのではなく、三尺からのものを四ッも五ッも飾って見せるのもあった。職    人衆のうちのは景気よく明っぱなしで、店さきへ並べて、奥の人たちも自慢そうに簾のかげで団扇づか    いをしながら語りあっているのもあった。その上にも景気をつけて新内をやらせたり、声色つかいを呼    込んでいるのもあった。    絵双紙屋の店には新版ものがぶらさがる。そぞろあるきの見物はプロマイド屋の店さきに立つ心と劇好    (シバイズ)きと、合せて絵画の鑑賞者でもあるのだ〟    〈記事は歌舞伎の切り組み燈籠である。声色つかいを呼ぶというのであるから、組み立てて、往来に飾って見せるだけ     でなく、台詞や音曲をつけで再現することもあったのである。これは明治二十年代の日本橋小伝馬町、通油町界隈の     光景であるが、このあたりは銀座と違って、江戸の古風を色濃く残しているというから、江戸下町のお盆の頃の宵闇     もこのような雰囲気だったのだろう。切り組み燈籠は立版古(タテバンコ)(タテハンコ)とも呼ばれ、歌川芳藤が第一人者とさ     れている〉  ◯『残されたる江戸』柴田流星 洛陽堂 明治四十四年(1911)五月   (国立国会図書館デジタルコレクション)(61/130コマ)   ◇灯籠    〝江戸ッ子は好んで歌舞伎灯籠をもつくる。    夏の絵草紙屋に曽我の討入、忠臣蔵、狐忠信、十種香などの切抜絵を購ひ来て、予め用意した遠見仕立    の灯籠に書割といはず、大道具小道具凡べてをお誂え向きにしつらえ、雪には綿、雨には糸と夫々に工    夫して切抜絵をよき所に按排し、夜はこれに灯を入れて吾れ人の慰みとする。渠等(かれら)の趣味は自    然にも人事にも適する如く、詩を解すると共に、劇をも解し、自ら其好む所に従って一場の演伎を形づ    くる〟  ◯『川柳江戸名物』(西原柳雨著 春陽堂 大正十五年(1926)刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝伏見屋絵双紙 151/162     夜舟の絵灯籠伏見屋へ買いに行き(天保)    伏見屋は下谷池端仲町の絵双紙屋である〟  ◯「立版古考」肥田晧三著(『浮世絵芸術』12 日本浮世絵協会 1966年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(7/36コマ)    立版古考 肥田晧三著(『浮世絵芸術』12 日本浮世絵協会 1966年刊)