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☆ きんろく 金六浮世絵事典
   ◯『燕石雑志』〔大成Ⅱ〕⑲393(曲亭馬琴著・文化八年(1811)正月刊)   〝錦絵は明和二年の頃、唐山の彩色摺にならひて、板木師金六といふもの、版摺(ハンスリ)某甲(ナニガシ)を相    語(カタラヒ)、版木へ見当を付る事を工夫して、はじめて四五遍の彩色摺を製し出せしが、程なく所々にて    摺出す事になりぬと、金六みづからいへり。明和以前はみな筆にて彩色したり。これを丹絵(タンヱ)とい    ひ、又紅絵(ベニヱ)といへり。今に至りては、江戸の錦絵その工(タクミ)を尽せる事、絶て非すべきものな    し。さばれ近属(チカゴロ)は、紅毛(オランダ)の銅版さへこゝに出来(イデキ)、陸奥(ミチノク)なる会津人すら彼    (カ)の錦絵を摸してすなれば、世の人既に眼熟(ナレ)て奇とせず。彼の金六は文化元年七月身まかりぬ。    当初(ソノカミ)彩色摺といふものはじめて行はれし時、その美なること錦に似たりとて、世挙って錦絵の名    をば負(オハ)しけん〟    〈馬琴はどうして金六のホラ話を真に受けたのであろうか〉    ◯『一話一言 巻三十六』〔南畝〕⑭402(大田南畝・文化八年(1811)四月記)   〝錦絵の始め 燕石雑志    錦絵は明和二年の頃、唐山の彩色摺にならひて、板木師金六といふもの板摺何がしをかたらひ、板木に    見当をつくる事を工夫して、はじめて四五へんの彩色摺を製し出せしと、金六みづからいへり。かの金    六、文化元年七月身まかりぬ【燕石雑志にみゆ】〔【欄外。此説非ナリ、見当ハ延享元年江見屋上村吉    右衛門工夫也。故に今に見当ノコトヲ上村ト云】〕〟    〈『燕石雑志』は滝沢觧(曲亭馬琴)の雑録で文化八年正月の出版。この記事は「わがをる町」の項目にある。二行割     り書きの欄外注がいつのものか分からないが、金六の証言をそのまま載せた馬琴説を否定したのである。馬琴でさえ     検証もせず、これを信じたのである。これを逆に云えば、江戸の人々は、錦絵を我が誇りとする一方で、それを技術     的に支える見当、その由来には極めて無頓着であったともいえようか〉