(天明八年(1788)十一月一日~ 明治十一年(1878)六月十六日、九十一歳)
◯「【新聞挿画鼻祖】落合芳幾氏経歴談(下)」
(『早稲田文学』26号「雑俎」明治30年1月刊 記者はS.S.とあるのみ)
〝彩色も彫刻も昔とさほど変れりと思はねど、只驚かるゝまで変りしは画風なり。今では北斎風、豊国風
は殆ど姿を止めず、只一本槍の容斎風と化けしこそ可笑しけれ。そは浮世絵ばかりには非で、土佐画、
四條派などの此の傾き多し〟
◯『こしかたの記』「年方先生に入門」p94
〝 丁度、日清戦争が境になって、挿絵の傾向と分野は、それまでにないあらたな展開がはじまって来た。
文学関係の出版が急にめざましい活動期にはいって挿絵の需要が盛んになり、有力な新人の擡頭が続い
た。
それに就いては明治の初期に、芳崖、雅邦よりも一般人には高名な菊池容斎をさし措いては、明治の
挿絵は語れないということを知らなければならない。私の経て来た体験について云えば、その時期での
挿絵の新風は、容斎とその門人、松本楓湖、渡辺省亭(セイテイ)の三人を、基点と云うか、源流と云うか、
とにかくそこから出ているのである。なお焦点を集注させると、そこには容斎の著、「前賢故実」があ
る。この挿絵は「晩笑堂画伝」に負うところが尠くないけれども、それより気の利いた挿絵的要約が次
代につづく人達に新風を生む示唆を与えた。楓湖の「幼学綱要」や「婦女鑑」は更に桂舟や永洗に大き
な影響を及ぼし、やはり容斎門の省亭は、年方へ直結して、間接的には私にまで及んでいる。華邨の師
の中島亨斎は容斎の門人であり、半古はまた華邨に多少の関係があったと思われる。またその頃には、
塾での教科用として「前賢故実」を用いたところがあった。半古社中、年方社中が使ったのは知ってい
るが、楓湖社中はなおさらそうであったろう。その本のなかで容斎は、塩谷高貞の妻を主題に、裸婦を
かいている。門人の省亭はまたそれを粉本に、山田美妙の小説「胡蝶」に裸婦をかいて、やかましい問
題になったのは、その後の文献にもたびたび載って、珍しいことでもないが、裸婦の美しさは省亭の方
にある〟