☆ 寛政二年(1790)
◯『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥60(喜多村信節記・寛政二年(1790)記事)
〝当年、狩野栄川院、命を受て南殿之賢聖之御障子を画く、然る処不成就して八月死去に付、住吉内記代
りて画く、翌年正月献之〟
◯『よしの冊子』〔百花苑〕⑨226(水野為長著・寛政二年(1790)十月記)
〝賢聖御障子画、洞春住吉へ被仰付候由。極彩色ニ懸り候てハ十分住吉よろしかるべき由。併養川ハ力を
落したであろふとさた仕候由。養川名人ニ候へ共、只利口の絵にて中々父にハ及申間敷由。洞春同家ニ
ハ候へ共、一体仲あしく御座候由。此度右之絵被仰付候当日、わざ/\養川奥より出候て住吉ニ逢、何
卒貴様ニ被仰付様にしたい。洞春ハ一体賢聖の旨ニ合ぬ男也と申候由。さすれバ少々姦物にも可有之哉、
とさた仕候由。住吉方へ栄川院の下絵も下り、且又先年御絵形も相下り候由。住吉先年の御絵形此度栄
川院の下絵を致拝見、中々此位の御下絵ニハ負ハすまいと候居候よし。賢聖の間の御絵、先年ハ土佐ニ
て相認候処、探幽、養卜など名画出候て、二百四五十年も土佐家相やミ、狩野家の物ニ相成居候所、此
度被仰付候ハ、誠ニ難有共何共恐入、たとへ此上不被仰付候共、御撰ニ相成候が難有事と申居候由のさ
た〟
〈洞春は駿河台狩野家四代美信、住吉は住吉内記、養川は当初画くよう命を受けていたが八月に死去した狩野栄川院の
長男で、木挽町狩野七代養川院惟信。御用を父から継げなかった養川の落胆は如何ばかりか。もう一方では二百四五
十年ぶりに賢聖障子画を狩野家から奪回した土佐家の名誉回復である。住吉内記の起用は、彼に技倆に対する高い評
価の結果にはちがいないだろうが、木挽町と駿河台の不仲や中傷も影響したのかもしれない〉
☆ 寛政三年(1791)
◯『よしの冊子』〔百花苑〕⑨253(水野為長著・寛政三年(1791)二月記)
〝賢聖御障子いまだ下絵のよし。彦助随分念を入、当今様も御一代、白川公も御一代、住吉も一代じやが、
絵ハ後代に残るものじやから、二タ月や三月清書が遅なはつてもそこは構い(ママ)ない。少しも恐るゝ事
ハないから、後世の鑑ニ成よふニ書がよいと申候ニ付、住吉も成程彦助ハ御見出しになられた人ほどあ
る。至て深切ナものじやと感心いたし居候よしのさた〟
〈彦助とは松平定信によって登用された儒官・柴野栗山。彦助(輔)は字〉
◯『よしの冊子』〔百花苑〕⑨305(水野為長著・寛政三年(1791)五月記)
〝住吉内記、獅子狛犬の画出来候由。栄川抔認候下絵とハ殊の外違ひニて誠ニ宜き由。中々栄川院抔及候
所ニ無之よしのさた〟
〈狩野栄川院、歿後の評判について、『塵塚談』(小川顕道著・文化十一年(1814)成立)に以下のような記事がある。
歿後の絵の値段が生前より下がったことをとりあげて、その事情を〝栄川院、千賀道隆両人は、田沼侯の側さらず、
昼夜出入せしにより、青雲の志有人には、此両人を珍重せし事也、画上手にての価にあらず、田沼の光りにての価也〟
と解説している。生前の栄川の絵を高い値段で買い求めたのは、出世を目論む青雲の志士たちが田沼意次に近づくた
めであった。ついでに云うと、平賀源内は千賀道隆を介して田沼意次と繋がっていた〉