☆ 文化九年(1812)
◯『街談文々集要』p277(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)
(文化九年(1812)「酒席之戯言」)
〝此頃の流行にて、酒席ニて三人打寄りて、
猫と雉子と狐の鳴くらべ
アレきかさんせ/\/\
アレ化しやんせ/\/\
〽ニヤン/\/\フウ/\/\ケン/\/\
ケン/\コン/\コンケンニヤン
のケン/\/\コンニヤンフウケン
コンクワイ/\/\ヲニヤニヤン
ヲケンスココン/\ト
是酒興にて、一座打寄り同音にやはし、戯れ笑ひしもの、酒をとふべる事、拳ト同断なり〟
☆ 文化十年(1813)
◯『豊芥子日記』〔続大成・別巻〕⑩306(石塚豊芥子・文化十年(1813)正月記)
〝此頃の流行にて、潮川にて三人打寄りて、
猫と雉子と狐の鳴くらべ
アレきかさんせ/\/\
アレ化しやんせ/\/\
ニヤン/\/\フウ/\ケン/\/\
ケン/\コン/\コンケンニヤンの
ケン/\/\コンニヤンフウケンコン
クワイ/\/\ヲニヤニヤンヲケン
スココン/\ト
是酒興にて一座打寄り、同音にはやし戯れ笑ひしもの、酒をとふべる事、拳と同断なり〟
☆ 弘化四年(1847)
◯『増訂武江年表』2p111(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(弘化四年・1847)
〝河原崎芝居春の狂言に、虫拳、狐拳、虎拳の所作を催しけるが、世に行はれて諸人酒席の戯れにこれを
真似たり〟
◯『藤岡屋日記 第三巻』(藤岡屋由蔵・嘉永元年(1848)記)
◇とてつる拳 p129
〝(二月)此節猿若町河原崎座にて、とてつる拳の狂言大当りにて、花見に出る程の人は姥婆かゝに至る
迄、此拳を知らぬものは大なる恥と思ひ、十六文出し、とてつる拳の稽古本を買て、皆々往来をけんを
しながらかゑるなり
けんとふも違へず当る成駒や
江戸市川で客はまつ本〟
〈この狂言は正月十五日より上演された「飾駒曽我(ノリカケソガ)道中双六」。その狂言中「笑門俄七福」と題された浄瑠
璃の場で、中村歌右衛門・市川九蔵・松本錦昇(幸四郎)の三人によって「とてつる拳」が演じられた。所謂「三す
くみ拳」と呼ばれるもので、この「とてつる拳」では、虫拳(がま蛙・蛇・ナメクジ)、虎拳(虎・和藤内・婆さま)
狐拳(狐・庄野・漁師)を一つにして、がま蛙・虎・狐の組み合わせにしている。これを一勇斎国芳が「道化拳合」
と題して、がま蛙は成駒屋・中村歌右衛門、虎は市川九蔵、狐は松本錦昇、それぞれ役者の似顔で描いている〉
「道化拳合」 一勇斎国芳画
(ウィーン大学東アジア研究所FWFプロジェクト「錦絵の諷刺画1842-1905」データーベース)
☆ 嘉永二年(1849)
◯『藤岡屋日記 第三巻』(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849)記)
◇三国拳 p456
〝正月十一日市村座芝居新狂言初日也、一番目曽我、二番め青砥草紙、中村歌右衛門、青砥左衞門大当り
也、座本羽左衞門・中村歌右衛門・関三十郎、三人にて三国拳を致す也。
おまへは女の名でおいせさま、かぐらがおすきでとつぴきぴいのぴひ、しゝはもろこしこうしさま、
てん/\てんぢくおしやかさま、丸くおさまる三国拳、そんな事アじやぶ/\、おひげをなで/\
くるりとまわつていつけんしよ
此拳は日本が天照太神、天竺が釈迦、唐土が孔子、右三人の拳也。
又拳かさてけんやくにあきはてた
さひけんならずよし原にしな
(以下略)〟
「三国拳」一勇斎戯画(東京都立中央図書館・貴重資料画像データベース)
◯『藤岡屋日記 第三巻』p475(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849)記)
「嘉永二己酉年 珍説集【正月より六月迄】」
〝嘉永二己酉年
翁稲荷、新宿の老婆、於竹、三人拳の画出るなり。
板元麹町湯島亀有町代地治兵衛店、酒井屋平助ニ而、芳虎が画也、但し右拳の絵は前ニ出せる処の図の
如くにして、名主村田左兵衛・米良太一郎の改割印出候へ共、はんじものにて、翁いなり、三途川の姥
婆さまハ別ニ替りし事も無之候へ共、馬込が下女のお竹女が根結の下ゲ髪にてうちかけ姿なり、是は当
時のきゝものにてはぶりの宜敷、御本丸御年寄姉小路殿なりと言い出せしより大評判ニ相成候故、上よ
り御手入れの無之内、掛り名主より右板をけづらせけり、尤是迄ニ出候処之絵、新宿の姥婆さま廿四番
出、外ニ本が二通り出ルなり、お竹の画凡十四五番出るなり、然ル処今度お竹のかいどりの画ニて六ヶ
敷相成、名主共相談致し、是より神仏の画ハ一向ニ改メ出スまじと相談致し、毎月廿五日大寄合之上ニ
て割印出すべしと相談相極メ候(以下、一猛斎芳虎の「【道外武者】御代の若餅」に関する記事は省略。
本HP「浮世絵事典」「御代の若餅」参照)
一 翁いなりと新宿の姥姿の相撲取組、翁ヶ嶽ニ三途川、行事粂の平内、年寄仁王・雷神・風神・四
本柱の左右ニ並居ル、相撲ハ皆々当時流行の神仏なり、是ハ当年伊勢太神宮御遷宮ニ付、江戸の
神仏集りて、金龍山境内ニて伊勢奉納の勧進相撲を相始メ候もの趣向ニて、当時流行の神仏ニハ、
成田山・金比羅・柳島妙見・甲子大黒・愛宕羅漢・閻魔・大島水天宮・笠森・堀ノ内・春日・天
王・神明・其外共、釈迦ヶ嶽、是ハ生月也。
成田山 大勇 象頭山 遠近山 築地川 割竹 関ヶ原 筆の海 有馬山 三ッ柏 堀之内
猪王山 柏手 初馬 綿の山 注連縄 翁ヶ嶽 剱ノ山 経ヶ嶽 於竹山 錦画 御神木 三途
川 死出山、行事長守平内、年寄仁王山雷門太夫・大手風北郎・おひねりの紙、お清メ水有、行
事・呼出し奴居ル、見物大勢居ル也。
此画、伊予政一枚摺ニて、袋ニ手遊びの狐・馬・かいどりの姉さまを画、軍配ニ神仏力くらべ
と表題し、外に格別の趣向も無之様子ニ候へ共、取組の内ニ遠近山ニ三ッ柏と画たり、是は両町
奉行の苗字なるべし、割竹ニ猪王山と云しハ御鹿狩なるべし、外ニうたがわしき思入も有之間敷
候得共、右之はんじものニて人の心をまよわせ、色々と判断致し候より此画大評判ニてうれ候処
ニ、是も間もなく絵をつるす事ならず、評判故ニ引込せ仕舞也。
お竹のうちかけ姿を見て 遅道
かいどりを着たで姉御とうやまわれ
三途川の老婆御手入ニ付、
新宿は手がはいれども両国の
かたいお竹はゆびもはいらず
老ひの身の手を入られて恥かしや
閻魔のまへゝなんとせふづか
両国の開帳
お竹さんいもじがきれて御開帳
六十日は丸でふりつび〟
「流行御利生けん」(翁稲荷、新宿の老婆、於竹、三人拳の画) 道外一猛斎芳虎画
(ウィーン大学東アジア研究所・浮世絵木版画の風刺画データベース)
〈三人拳は酒席の座興として以前から行われていたが、嘉永元年正月、河原崎座において、中村歌右衛門・市川九蔵・
松本錦昇(幸四郎)の三人が「とてつる拳」を演じたのが大当たりとなって、大流行した。この一猛斎芳虎画の「流
行御利生けん」もそれに便乗した制作である。ただこのころの錦絵は、様々な禁制や制約を楯にとって「うたがわし
き思入」の有るものや「人の心をまよわせ、色々と判断」できるような「はんじもの」がとかく評判をとるというの
で、翁稲荷・新宿の老婆・下女のお竹という組み合わせのほかに、更に一層の趣向を凝らし、お竹を「下げ髪にてう
ちかけ姿」にした。(これはそもそも下女の出で立ちではない。またお竹には大日如来の化身というイメージもある
が、それでもこの身なりはありえない)それがさまざま憶測を呼んだ。なかでも出色なのは、お竹は大奥の上臈御年
寄・姉小路(あねがこうじ)を擬えたのではないかという浮説。ほかならぬ幕府の中枢に拘わる風評である。早速、
この錦絵の改(アラタメ)を通した名主たちが動いた。彼等にとってこれは想定外のことだったには違いないが、このまま
放置してはますます難しい事態になることは必定。そこで名主たちは、町奉行が摘発する前に、急遽版元に命じて板
木を削せ、沈静化を図ったのである〉
☆ 嘉永五年(1852)
◯『藤岡屋日記 第五巻』p98(藤岡屋由蔵・嘉永五年(1852)記)
◇三獣拳
〝【新宿狼、高輪狸、浅草猫】三獣拳
おまへ高輪でおたのさん、おそばがお好でする/\すゝ、ぬしは新宿おかめさん、てん/\手のある白
糸さん、丸く納る丸〆猫、にやんのこつたにやう/\、御客招き/\風団の上で一服せふ〟
☆ 慶応五年(1865)
◯『藤岡屋日記 第十三巻』(藤岡屋由蔵・慶応元年(1865)記)
◇狐拳・虫拳 ⑬315
〝(十月)狐拳
庄屋をバうまく化かせし狐めを鉄砲持てねらふ狩人
庄屋 大樹公
狐 一橋
狩人 会津
虫拳
大いさ(ママ)なる口で蟇を呑気でもぬらりと側へ寄るなめくじり
蟇 大樹公
蛇 関白閣下
なめくじり 唐津嫡〟
〈大樹公は徳川十四代将軍家茂、一橋は水戸の徳川慶喜、狩人は京都守護職・会津藩主松平容保。関白閣下は史上最後の
関白とされる二条斉敬。唐津嫡は老中・唐津藩主小笠原長行〉
◯「集古会」第百三十八回 大正十一年(1922)九月(『集古』壬戌第五号 大正11年10月刊)
〝矢島隆教(出品者)
国芳画
道外見ぶり拳 二枚/三途川老婆後竹大日如来翁稲荷狐拳 二枚
爺さん婆さん毛唐人拳 一枚/かわり拳 一枚/三国拳 一枚/つく/\拳
歌川国輝画 拳の稽古 一枚〟