Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ げさくしゃ と がこう 戯作者と画工浮世絵事典
 ◯『盛衰記摺鉢無間』合巻 墨川亭雪麿作 一鳳斎国安画 文政十二年(1829)   (国書データベース)   〝(墨川亭序)画工は偶人を遣ひ、作者はチョボを語るに似たり。絵のみで書入無ときは壬生狂言を観る    に斉しく、書入ばかりで絵なければ、影芝居を聴くに同じ。厺(サレ)ば偶人と戯曲と作者と画工の心と心    がしつくりと落合ば看官の御意にも適う協(カナ)ひ、ヤンヤと当をとりが鳴く(後略)〟    〈戯作者と画工との関係を浄瑠璃における大夫と人形遣いになぞらえるのは、後年鏑木清方が小説家と挿絵画家との関     係を太夫と三味線弾きに喩えているのと同様の発想である。下掲『こしかたの記』参照〉  ◯『馬琴日記』第三巻「天保四年癸巳日記」③493 十月十四日   〝芝泉市より使札。過日申遣し候金瓶梅三集外題の画の事、国貞存寄にて、荒物ニ付、おれん・啓十郎二    人並ニいたし候てハいかゞ可有之候哉、予に問候様、被申候よし也。然ども右男女は悪人也。悪人のミ    外題へあらハし候事、勧懲の為、不宜とて、悪ませて画せ候様、返翰ニ申遣ス〟    〈国貞が『金瓶梅』三集の外題画を「おれん・啓十郎」の二人並びにしてはどうかと提案した。それに対して、悪人を     外題にするのは勧善懲悪の趣旨に悖るとして宜しからずと、馬琴は国貞の提案を却下した〉  ◯『馬琴書翰集成』第五巻 天保十一年(1840)八月二十一日 殿村篠斎宛(書翰番号-56)   〝小生稿本之通りニ少しも違ず画がき候者ハ、古人北尾并ニ豊国、今之国貞のミに御ざ候。筆の自由成故    ニ御座候。北さいも筆自由ニ候へ共、己が画ニして作者ニ随ハじと存候ゆへニふり替候ひキ。依之、北    さいニ画がゝせ候さし画之稿本に、右ニあらせんと思ふ人物ハ、左り絵がき(ママ)遣し候へバ、必右ニ致    候〟    〈天保十一年、馬琴が伊勢の殿村篠斎宛に出した書翰の一節。ここでいう「稿本」とは戯作者が画工に与える絵と朱書     からなる下絵のことを云う。馬琴はこれに拠って画工に指示を出す。「稿本之通りニ少しも違ず画がき候者ハ」とい     うところを見ると、画工は作者の指示に忠実であるべきだと、馬琴は考えていたようだ。お気に入りの画工は三人、     北尾重政・初代歌川豊国・歌川国貞、彼らこそプロ中のプロ、作者の意向を忠実に汲んで、作者が望むような図様に     昇華できる名人だと高く評価している。それに対して、葛飾北斎、云うまでもなく彼ら以上に「筆の自由成」画工で     はあるのだが、「作者ニ随ハじ」が玉に疵で、作者の指示を無視して我意を通すというのである。下絵は作者が作成     すべきものという、馬琴の意識は強烈である。この挿話は北斎の偏屈な性格や独創性に拘る意志の強さを示すものと     して引かれるのだが、別の観点からすると、版本の世界では、戯作者の指示は画工にとって欠くべからざるものであ     ったことを示している〉  ◯『偐紫田舎源氏』三十八編(柳亭種彦序 天保十三年(1842)刊)(国書データベース)   〝(前略)此草紙に光氏が大将髷を海老の尾のやうに割しは 亀戸(かめど)の案じ 初ねの程は異な髪と    おのれまで思ひしが 絵馬羽子板押絵の類 開帳庭の納め物 又吉原の軒灯籠(のきどうろ) 団扇はも    とより煎餅形 悉(みな)此姿を写すに目馴れ 怪しき髪の風ともいはぬは 前にあげたる二箇の器の論    の止みしに是同じ(注) 画(ゑ)の流行せし功なるべし(後略)〟    〈注:前略の部分に、現れたとき奇異な印象を与えたものの流行するや次第に違和感なく受け入れられた例として、丸     形から四角形が出てきた五徳、そして四角から丸形のものが現れて定着した座敷行灯、その二例が出ている。光氏の     髪型に関して、種彦の稿本には特に指定がなかったのか、それとも国貞の創意に任せようとしたのだろうか、そのあ     たりはよく分からないが、国貞からまわってきた板下絵を見て、種彦はかなり当惑したようである。それでも種彦は     それを受け入れる度量をもっていた。それほど国貞に寄せる信頼は厚かったのだろう。このあたり当時の戯作者の双     璧、種彦と馬琴とを較べてみると、柔軟と頑固というか、画工に対する指示の出し方に大きな違いがあったようだ。     上掲『馬琴日記』第三巻「天保四年癸巳日記」参照〉  ◯「稗史原稿に就いて〔附戯作写尺牘〕」(林若樹著『集古』所収 明治四十二年九月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション『集古』己酉(3) 8/14コマ)より収録)   ◇戯作者と画工の関係   〝昔時の稗史即(ち) 黄表紙、合巻、読本其他は現今の小説とは異り 其挿絵に重(き)を置きたるもの    殊に黄表紙の如きは画に趣向を凝らせしもの故 作者は画工に一指を染むるを許さず、且事実画工は又    夫れに改竄を加ふる如き頭脳を有せしものはあらざるが如(ごと)ければ、今原稿と版本と対照するに    殆(んど)皆注文通りにものして 画工は唯々(いゝ)として只原稿を清書したるに過ぎず 画工の名真に    空しからず(ママ)といふべし。然れども 後年豊国北斎等に至りては 絵組のことに就て作者との間に屢    (しばしば)争端を惹き起せしことも少なからず。    〈ここにいう「原稿」とは、作者が挿絵の絵組や絵柄を指定するために作成するいわゆる「下絵」と呼ばれるもので、     画工はこれをもとに「板下絵」を画くことになる〉   ◇歌川国貞・国直宛、式亭三馬の依頼     三馬の『二枚続吾妻錦絵』(文化八年稿)には「口上 当年は事多く候て 著述大延引 それ故下絵ざ    つといたし置候 よく/\かみわけて新図に図どり御たのみ申候 国貞君 三馬 わくのあんじも こ    としはおそくなり候ゆゑ 工夫いたし兼候 よく御救ひ可被下候」 又同作「清姫草紙」(文化九年稿)    「段々諸方よりおしかけられ 昼夜くるしくて/\なり不申候まゝ 下絵はいつものやうにつけ不申候    よく/\御工夫御相談可被下候 国直さま 三馬 どうでもよいからにぎやかになるやうに御たのみ     甚(だ)せつない音を出し申候」同六冊目ミカエシ「筆者さま 六冊ものにはチトむりなるすぢに候間     文句とかくこみ合申候 よろしく御うめ合せ可被下候」とあり。    〈『二枚続吾妻錦絵』(合巻 式亭三馬作・歌川国貞画 仙鶴堂板 文化十年刊)多忙のため下絵がざっとしたものに     なってしまったが、後は宜しく頼むという三馬から国貞への懇願。     『【ひたか川】清姫物語』(合巻 式亭三馬作・歌川国直画 鶴喜板 文化十年刊)こちらは国直宛てのもので、原     稿の督促に追われているので下絵なしで作画してほしいという内容。この例は、戯作者側に下絵を画くところまでが     仕事の領分だとする意識があったことを示している。なおこの解説文〝同六冊目ミカエシ「筆者さま(云々)〟の意     味がよく分からない〉   ◇歌川国貞宛、山東京伝のお礼と督促    又京伝尺牘「(前略)岩戸や写本追々御したゝめ被下(くだされ) 大慶(に)奉存候 且又残り種本二冊    外々のをさし置(き) 相したゝめ全部出来仕候 さだめていろ/\御取込と奉存へ共 さしくり御し    たゝめ可被下候 売出しあまりおそくなりては ひやうばんもいかゞと案じ申候 何分御頼申上候(下    略)九月十九日 国貞様 京伝」とあり。文人画伯の懶性古今一徹といふべし。    〈作者が作成する「下絵」を「種本」と称し、画工が画く「板下絵」を「写本」と称していたようである。京伝は国貞     に、自分の稿本(下絵)を優先して板下を画いてほしいと頼んでいる〉   ◇歌川国貞宛、柳亭種彦の注文    国貞宛種彦尺牘に「然者(しからば)源氏二編目御とりかゝり被下候やう願上候 もし其前に御めにかゝ    り不申候て 口絵光氏と藤の方を色事の処 十五歳と朱がきに致し置(き)申候 それ故なでびんに致置    申候が 十六才とかきかへ候間なでびんでなくてもよろしく 其外は下書に直し候処無之候 ◯(ママ)料    理通絵の事 当年のは精進物のよし しかればげいしやよりはかげまか寺小姓か男色の方うつりよかる    べく奉存候 画のもやうもなんぞあんじつき候はゞ 又々可申上候 以上」とあり〟    〈これは『偐紫田舎源氏』二編の口絵に関する指示で、足利光氏の髪型を変更してほしいとのこと。「下書」とは種彦が     作成した下絵のこと。     『精進料理通』歌川国貞画 八百善著 泉市板 文政五年刊。種彦がこの料理本とどう関係しているのが分からない     が、精進料理に関するものだから、宴席には陰間や寺小姓など男色の方が相応しいのではないかと、図案を国貞に示     したのである。もっとも却下されたと見えて、刊本には芸者が侍っている〉  ◯「明治初期の新聞小説」野崎左文著(『早稲田文学』大正14年3月号。本稿は岩波文庫『明治文学回想集』(上))   〝馬琴種彦等の草双紙の稿本を見ても、皆作者が自筆で下絵を付けて居るが、これも単に作者の物好きと    いうではなく、実際にその必要があったのだ。それは当時の画家は絵をかく事は上手にしても、何分に    も時代の研究という事が足らず、甚(はなはだ)しいのには草双紙の挿画や俳優の舞台上の着附などを唯    一の粉本として筆を把る画工もあったので、時代の風俗にとんでもない誤りが起こる事がある。そこで    作者はその下絵に先ず時代(天保年間とか慶応年間とか)、時節(夏の夜とか冬の朝とか)、場所、人    物の身分年齢、時によると人物の服装や背景の注文まで委しく朱書して送らねばならむ事があった。こ    の必要上から魯文、藍泉-藍泉氏は玄人の画家-その他の人々でも大概素人画はかけたのであった〟    〈これは明治の十年代の様子。画工は絵を上手に画くが、作品の時代や場所の風俗などには無頓着だから、放っておく     と過去の草双紙を焼き直したり、役者の舞台上の着付けをそっくりそのまま使ったりする。とても油断がならないの     で朱書で注意する必要があるという。当然、仮名垣魯文も高畠藍泉も自ら下絵を画きました。藍泉の場合は、そもそ     も藍泉という号が、彼が松前の藩士高橋波藍に就いて絵を学んだときの画号ですから、作画はお手の物、下絵はそれ     ほど負担ではなかったはずです〉   〝(小林永濯に関する記事)僕の敬服したのは他の画家中には小説記者の下絵に対し、人物の甲乙の位置    を転倒したり、あるいは全くその姿勢を変えたりして、下絵とは殆ど別物の図様にかき上げる人が多か    ったのに、独り永濯氏のみはいつも僕の下絵通りに筆を着けて少しもその趣を変えなかった一事で、こ    れは同氏の筆力が自在であった証拠だと思われる〟    〈永濯は作者の下絵に忠実に応えるという。野崎左文はそれを永濯の「筆力が自在であった証拠」と見る。要するに作     者のどんな要求でも受け止められる力量があるというのだ。それに対して下絵を勝手に変える画工の場合は、その変     更が文の趣旨に相応しいからではなく、単に筆が意のままにならないからに過ぎないと見る。注目すべきは、左文     (作者)と永濯(画工)の双方に、下絵を考案する責任は作者にあるという共通認識が見られることである〉  ◯『浮世絵』第八号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「稗史原稿より見たる戯作者 浮世絵師との関係」林若樹著(8/48コマ)   (稗史小説(草双紙・読本)の改(あらため=検閲)について)   〝江戸名物の一たる稗史小説も 大方此二日又は吉日を卜して 初春中売出すこと嘉礼なり(中略)    作者は三四月頃より筆を執り初め 八九月頃迄には大方脱稿して其稿本を出板書肆に与ふ かくして後    其草稿は行事の手許に呈出せられ 幸ひに忌諱に触るゝ点なく 無事下げ渡さるれば 夫れより画工は    其草稿の下図によりて揮毫し 後筆耕其余白に文章を正書して 板木師に廻送し彫刻成れば 著者の校    合を経て 摺師の手を煩はし 後製本発売の順序となるなり〟   (『人間万事吹矢的』草稿 京伝作 重政画 黄表紙 享和二年稿)   〝此草紙絵は吹矢の人形気取りにて御書(おかき)可被下(くだされべく)候(そろ) 上の段は人形の気取り    下の段は常の絵なり、此序文北尾先生へ御願ひ筆工とも御書可被下候 文字アラク律儀ニヨメ安き様に〟    〈ここにいう草稿とは、作者自身が作成するもので、本文と下絵(挿絵・口絵等の構図および図様に関する注文)からな     るものを云う。これは作者山東京伝が画工北尾重政に求めた図様及び書体に関する注文。享和3年刊〉   (『復讐煮茶之濫觴』草稿 京伝作 重政画 黄表紙 享和三年稿 見返しに朱書き)   〝一、下絵(したゑ)にかゝはらず絵がらおもしろく御書(ママ) 一、ひつかふなりたけあらくよめ安き様に    一、落字無之様 にごりめい/\御付可被下候」    〈作者の下絵にあまりこだわる必要はないこと、書体は読みやすいものを、落字のないように、濁点を付けて欲しいと     いう注文。重政は作画だけでなく筆耕も担当していたのであろう〉   (同書中の京女郎道中の図に対する註釈)   〝京女郎此やうにむすぶ、からかさのもん よくワかるやうに 中居まへだれ〟    〈挿絵に関する注文で、京都の遊女の髪か帯かの結び様・傘の紋・仲居の前垂れなど、指示は細部に及びしかも具体的     である。〔国書DB〕の書名は『復讐煎茶濫觴』で文化2年刊〉   (『加古川本蔵綱目』草稿 馬琴作 重政画 黄表紙 寛政九年稿 見返し)   〝人物の居所すべてのとり合せは この下書(したがき)に拘はらずかつこうよろしくねがひ上候 筆耕落    字にごり数編御校合下さるべし」    〈挿絵の人物配置に関しては下絵(馬琴は下書)にこだわる必要はなく格好よくしてほしい、落字・濁点については、本     文とよく照合するようにとの注文〉   (『武者修行木斎伝』前編草稿 馬琴作 豊広画 黄表紙 文化三年稿)   〝画は下画(したゑ)に拘はらず思ひ付も御座候はゞ 可然(しかるべく)御書つけ可被下候 とり合せ等と    かく可然御工夫ねがひ上候」    〈納得がいくような下絵が出来なかった時は、画工にまる投げというか、画工の才覚に頼るほかなかったのだろう。文     化3年刊。以下、林若樹の解説〉   〝昔時(むかし)の稗史、即ち読本・合巻・黄表紙等は現今の小説と異なり 挿絵に重きを置き 就中(な    かんづく)黄表紙の如きは絵主にして本文客たるやの感あれば 作者は皆趣向を尽して絵組の下図をつ    け画工は唯々(いゝ)として其図によりて清書したる迄なり 多くの草稿を取りて板本と比較対照するに    その図様大方同じく 偶々異同あれば 図面の配置上 人物の向きを替へたる位に止まれり 馬琴は上    文のごとく「凡ての取合はせはこの下書に拘はらず格好よろしく」とか「思ひ付も御座候はゞ可然」な    どゝ記し置けど 若し画工の図様によらずして己が意に任せて執筆したりとせば 著作上に就いては細    心にして神経過敏なる馬琴の 如何(いか)で其まゝになし置かん 必ず画工との衝突は免かれざるべし    後来北斎と『三七全伝南柯夢』並びに『絵本水滸伝』の挿絵に就いて相争ひしこと以て證とすべし。     以上の如く作者は画工として一段低く浮世絵師を見下し居り 浮世絵師も其位置に甘んじ唯々として    其命を報ずる中こそ無事なれ 北斎豊国の時代に至り 彼等の名声江湖に喧伝し 画工も敢て作者に首    を屈せず 社会も其位置を是認するに至りては 往々其間に衝突を見るに至れるなり〟   (『二枚続吾妻錦絵』草稿 三馬作 国貞画 読本 文化八年稿)〈文化10年刊〉   〝口上、当年は事多く候て著述大延引 それ故下画(したゑ)ざつといたし候 よく/\かみわけて新図に    図とり御たのみ申候 国貞君 三馬わくのあんじもことしはおそくなり候ゆゑ 工夫いたし兼(かね)候    よく御救ひ可被下候〟    〈「三馬わく」とは、三馬が作者としてなすべき仕事の範囲、具体的には本文を書くことと画工に対する注文(下絵)を     出すことをいうのであろう。そのうちの下絵については、今年は仕事が多くて、とても手がまわらないから、よろし     く頼むという、画工担当国貞への懇願である〉   (『清姫草紙』草稿 三馬作 国直画 合巻 文化九年稿)〈〔国書DB〕の書名『日高川清姫物語』文化10年刊〉   〝段々諸方よりおしかけられ昼夜くるしくて/\なり不申(まをさず)候まゝ下絵はいつもやうにつけ不申    候よく/\御工夫御相談可被下候 国直さま    三馬 どうでもよいからにぎやかになる様に 御たのみ甚だせつない音を出し申候」    〈これも上掲同様、版元から草稿を催促されて切羽詰まった三馬が、「下絵」なしだがなんとか工夫してほしいと、国     直にひたすら頼むのである〉      (『戯作六家撰』「式亭三馬」岩本活東子 安政三年成稿)   〝文化のはじめ合巻読本俱に流行し頃に 三馬豊国等は諸方の書肆に種本写本を乞需めらるゝに 其約束    の期に遅れ譴(しか)らるゝに苦しみて 五日或は七日ばかりづゝ書肆の許に至り、一間を借りて草稿を    成し、又は絵を画きぬとなり〟    〈原稿締め切り前の売れっ子作者と出版者とのきわどいやり取りは、三馬・豊国の時代からあったようだ。林若樹はこ     の引用文の「種本写本」を次のように註釈している〉   〝種本とは作者の草稿、写本とは画工の板下を云ふ〟     〈「種本」は、作者の本文と下絵(画工への指示絵)からなるものを指し、草稿とも稿本とも云う。「写本」は作者の下     絵に基づいて画いた板下絵(板木を作成するためのもの)を指す〉  ◯『林若樹集』(林若樹著『日本書誌学大系』28 青裳堂書店 昭和五八年刊)   ※全角カッコ(~)は原文のもの。半角カッコ(~)は本HPの補注   ◇「小説の本になるまで」(『版画礼賛』所収 大正十四年三月)   (全体の流れ)p1   〝(黄表紙・合巻等)軟派に属するものは、其(作者が作成する)稿本を地本問屋の行事の手で一応検閲し、    之を月番名主に差出し、忌憚に触るゝことなく出板差支なしとなると、許可の証たる行事の割印をして    其出板書肆に戻す、出板書肆は其稿本(之を種本といふ)を画工に廻す。画工は其種本に示す通りの下    図に拠つて板下をつくり、之を筆工に廻はす。筆工は又其種本に随つて画工の板下の余白に本文を清書    する。出来上りたる板下(之を写本と云)は愈々板木師に廻はされ、板木師は彫刻の上、著者再三の校    正を経て校了となると、刷師によつて刷り上つてから製本屋の手にかゝつて(黄表紙の如き少部数且つ    製本の簡単なるものは本屋の手で製本される)初めて一部の冊子となる。出板書肆は黄道吉日を撰んで    発売する。其発売の前日若しくは当日に其製本一部を地本問屋行事の手を経て其掛りの町年寄奈良屋    (館氏)市右衛門方、所謂館役所に納める。爰に於て数多の手数を経て出来上りたる冊子は初めて顧客    の手に渡るといふ順序になるのである〟    〈「画工は其種本に示す通りの下図に拠つて板下をつくり」とある。作者の作成する稿本(種本)には、本文原稿の他に、     絵組や絵柄を指定する下図(下絵)も含まれる〉   (「作者と画工との関係」)p3   〝黄表紙、合巻の如き絵を主としたるものは、絵主にして文客たるやの感あるもの故、作者は趣向を尽し    て絵組の下図をつけ、画工は只唯々として其図を清書したる迄である。故に多くの草稿を取りて板本と    比較対照すると、其図様殆ど相同じく、偶々異同があれば、図面の配置上、人物の向きを取替へたる位    に止まつて居る。(馬琴の稿本に)     「人物の居所すべて取合せはこの下書に拘はらずかつこうよろしくめがひ上候」     「画は下画に拘らず思ひ付も御座候はゞ 可然御書つけ可被下候 とり合せ等とかく可然御工夫      ねがひ上候」    などゝ書して居るが、画工の重政や豊広が其朱書に随つて、充分自分の腕に任かせて筆を揮つたなら、    著作に就いて細心にして且つ神経過敏なる馬琴が決して其まゝに看過しようとも思はれない。必ずや後    年北斎と『三七全伝南柯夢』や『絵本水滸伝』の挿絵に就いて衝突したと同様な事件を惹起したことで    あらう。(注)    当時に於て作者と画工との関係は以上の如く対等の地位を為すものではなくして、作者は常に画工をに(ママ)    一段下(に)見下し、画工は作者に対して一目を置いて居たのである。然し豊国や北斎等が名声の江湖に    喧伝せられて社会上相当の地位を占むるに居つては、徒らに作者に首を屈せずして屡々衝突を見るに至    つたのである。然し一般に言へば、維新迄も草双紙の挿絵に就いては画工は作者に対して常に一目を置    いたもので、画工の腕を揮ふのは只錦絵にのみ限られて居たと言ふべきである。それに、画工は多く学    問の素養がなく、どうしても智識に於て作者に頭は上らず、又頭を上げやうともせず、只一介の職工を    以て甘んじて居たのである。彼のベランメエの国芳が一部浮世絵師の代表者として最適当の人物と考へ    る〟    (注)北斎が馬琴の下絵の通り画かなかったというトラブルについては、その真偽はさておき本HP北斎の項、明治三十       二年の『浮世画人伝』参照のこと  ◯『こしかたの記』「横寺町の先生」p169(鏑木清方著・中央公論美術出版・昭和三十六年(1961)刊)   〝 小説家と挿絵画家の関係を、私は嘗て太夫と三味線弾きに譬えて見た。連載する場合によくそう思っ    たものである。私の知るところでは、紅葉と桂舟ほど息の合う例は、ちょっと類がなかったと云っても    よい〟