☆ 元文年間(1736~1740)
◯『増訂武江年表』1p143(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(元文年間)
〝舞子の花かんざしはやり出す〟
☆ 宝暦元年(1751)
◯『増訂武江年表』1p259(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(宝暦元年)
〝吉原に女芸者といふもの今年より始まる(扇屋の歌仙といへるもの、始めなり。夫より追々に出来た
りしよし、「後は昔物語」に出たり)〟
〈斎藤月岑は『後は昔物語』を引いて、吉原における女芸者の出現を宝暦元年の事としているが、「燕石十種」本の
『後はむかし物語』の方は宝暦十二年の頃としている〉
☆ 宝暦十一年(1862)
◯「江戸の女芸者」(『此花』第十号 大正二年七月刊)
〝(前略)宝暦十一年、始めて女芸者と称する者四人、同(吉原)遊郭から現れた、即ち『吉原細見』に
芸者 扇屋歌扇 芸者 玉屋らんとき 芸者 伊勢屋主水
とあるのがそれである。なほ同書に「芸子 大黒屋豊竹八十吉(やそきち)」と記したものがある、こ
の芸子の名称は、既に宝暦四年の細見に見えてゐるから、今年現はれた芸者の名義は、全く之に対し
下したもので、其起因(もと)は京坂の芸子から来たものである、芸子と芸者との区別は、前者は多く
男で、一中豊後義太夫節の如き、所謂大物を看板にしたが、後者は全然女のみで、当時の流行小唄を
専らとして、酒宴の興をたすけたのである、
一体宝暦年代以前に於ける遊郭の歌舞は、技芸の秀でた遊女が勤めたもので、太鼓女郎の名目さへあ
つた程であるが、今突然此以外に芸子及び芸者の現るゝに至つた動機に就いては、一は遊女の色を売
に汲々として、技芸を蔑視した結果でもあるが、亦時勢の進歩につれて、色芸の分業を促した為であ
らう、かゝる機運に乗じて現れたる女芸者であるから、踊子の失敗(注)に反し大流行を来たしたので、
年々其数も増加する計り、安永八年には百名以上に達するの盛況を見るに至つたのである。かく大数
となつたので、大黒屋庄六といふ楼主が発起して、芸者の品行監督所たる見番を設けたのは安永八年
のことである、其維持費として芸者から徴税する事となつてからは、其基礎も亦鞏固となつて、今日
に及んだのである、
吉原遊廓に於ける女芸者の成功は、直に岡場所の模倣る所となつて、何れの遊里でも女芸者の影のさ
ゝない所がなき程の繁昌を極めたが、流行にはいつも弊害が伴ふもので、多くの中には技芸よりも売
色を専らとする者が現れてからは、いつしか其に感染して、次第次第に斯界の風紀が乱れ勝となつた
ので、屡々怪動(けいどう)風に襲はれた事は、諸書に明記してある是等数多き岡場所中でも、殊に女
芸者の全盛を極めたのは深川で、これを世に羽織と呼ばれてゐたのである、この羽織の称呼は、堀の
舟宿の女房が常に羽織を着てゐた風姿の、何時しか芸者に移つたものともいひ、或は某大尽が当時有
名な芸者等に、黒羽織を与へたのが、其始めであるともいふが、要するに同所の芸者が、宴席に侍す
る時にも、黒無紋の羽織を着てゐたから起こつた名目で、後には羽織が廃れて着なくなつてからも、
依然旧名称を呼ばれたのは、吉原の芸者や町の芸者と区別せんが為であらう、是等羽織芸者の風俗が
当時他所の芸者の夫に比して、嶄然頭角を現してゐた事は、洒落本及び人情本に詳しく描かれてゐる。
(注) 宝暦4年、20余人だった吉原の踊子が、同11年には3人になってしまったことを指す
☆ 宝暦十二年(1862)頃
◯『後はむかし物語』〔燕石〕①332(手柄岡持著・享和三年(1803)序)
〝よし原女芸者といふもの、扇やかせんに始まれり、歌扇たゞ一人なりし、宝暦十二年頃なり、其後おひ
/\に、外の娼家にも茶店にも出来て、細見のやりての前の所に、げいしや誰、外へも出し申候と書た
り、夫よりはるか後に、大黒やの秀民、けんばんを立たり、芸者をどり子と肩書して、見世へ傾城同様
に並べて、客を取たる娼家もありき、新町の桐びしやなどにありきと覚き、尤かれらはうしろ帯にて、
鄽に並び居たり〟
〈細見とは吉原細見〉
☆ 明和六年(1769)
◯「川柳・雑俳上の浮世絵」(出典は本HP Top特集の「川柳・雑俳上の浮世絵」参照)
〝こま下駄が通るとあれもころぶやつ〟「川柳評明和6仁4」【続雑】注「芸者の比喩」
〈駒下駄は芸者が好んだ。「ころぶやつ」はいわゆる「転び芸者」〉
☆ 天明四年(1804)
◯『通詩選』〔南畝〕①435
〝「藝子行(ゲイシコウ) 半亭子(ハンテイシ)
薬研堀の下(シタ)陽春の水 立花町の辺繁華の子 三絃(サミセン)会合(クハイガウ)す稽古の外
参詣繁盛す不動の裏(ウチ) 銀棟(ギンムネ)瑇瑁(タイマイ)玉を者と為す 風俗吾妻錦を雅とす
憐れむべし柳橋舟を繋ぐ涯(キシ) 憐れむべし草履糸を纏(マト)ふ花 此日中洲(ナカズ)生簀(イケス)に遊び
此時洲崎升家(マスヤ)に入る 升家の美酒鶴歩(ツルノアユミ)香ばし 飲み去り飲み来たる銚子の傍(カタハラ)
歴々たる武左(ブザ)寄り合ひ集まり 婆々たる年増も紅粉粧(ヨソホ)ふ 葛西徘徊す武蔵屋
羅漢顧歩(コホ)す栄螺堂(サザヰドウ) 首を傾(カタブ)け心を傾く平相国 春と為り秋と為る仏妓王
古来酒宴皆用ゆる所 況や復(マタ)明日芝居を見るをや 願はくは鵝絨(ビラウド)と作(ナ)つて細腰を結ばん
願はくは猫の皮と為(ナ)つて撥面に中(アタ)らん 君と相(アイ)拳(ケン)転(ウタ)た相親しみ
君と双(ナラ)び棲んで両親を養はん 願はくは櫓牡(ロマラ)と作つて年々転ばん
誰か論ぜん楫枕一度の新たなることを 百人同じく憶ふ色男の気 一徳一損紙屑の塵」
〈芸者を詠じたもの。『唐詩選』所収、劉廷子の「公子行」のパロディ〉
☆ 天明年間(1781~1788)
◯『蛛の糸巻』〔燕石〕②304(山東京山著・安政三年(1856)序)
(天野翁の記事を写す)
〝天明の比は、世の中賑はしく、武家にても少し酒盛めくをりは、町芸者とて酌取女を召事、いづれの家
もある事也、されど、此酌取女も質素の風ありて、髷結に紅絹の切をよしの紙に包て用る事はやる、地
女らも是を学べり、今は田舎娘も、まげゆひにちりめんを用ふる也、天明年間、町方の女ども、櫛巻と
いふ髪はやり、髪をつかねて櫛につらぬき、根本を文通の反故にて巻し物也、今は見る事なし〟
◯『一目土堤』(内新好著・天明八年(1788)刊・『洒落本大成』⑭)
〝こゝィらの芸者しゅが鼈甲のくし笄(こうがい)をさすのはひつとりもござへせん ノウおかみさん、
みんな柘植(つげ)のくしに花玉簪(はなかんざし)ぐらへさ〟
〈本所一つ目回向院前や弁天の岡場所風俗。遊女と芸者の違いをこうして表していたのである〉
◯『奴師労之(ヤッコダコ)』〔燕石〕②18(大田南畝著)
〝天明の頃まで、橘町薬研堀の芸者、座敷へ出るに、振袖着て来り、留袖に着替へ、又帰る時は、必ず振
袖を着しが、今振袖を着るものなし、夫より、柳橋、同胞町、本町、日本橋とうつり来て、眉を落し、
歯を染たる芸者多くなりぬ〝
〝女芸者の事を、昔はをどり子といふ、明和、安永の頃より、芸者とよび者(シヤ)などゝしやれたり、弁天
おとよ、新冨などゝいひし、橘町に名高し、妓者呼子鳥といふ小本【田にし金魚作、後に虎の巻と改む】
此二人の事を記せり、橘町大坂屋平六といへる薬種屋の辺に、芸者多し、俳諧の点者祇徳、其辺に住し
ゆゑに、祇王、祇女がほとりに、祇一、祇徳などいひし白拍子の名にたぐへて、祇徳とはつきたり、弁
天おとよ追善の句に
蛇は穴弁天おとよ土の下 祇徳
といひしもをかし〟
〝むかしの芸者は娘ゆゑ、まはし方にお袋の付来る事多し、今は眉なく、歯を染めたる芸者多くなりし故、
お袋の来るを見ず、お袋の役を兼帯するなるべし、これもまた流行の変を見るべし〟
◯『賤のをだ巻』〔燕石〕①250(森山孝盛著・享和二年(1802)序)
〝女芸者流行て、江戸端々、遊所は申に不及、並の所にても、芸者の二人三人なき町はなし、余りつのり
て、吉原、品川の売女の妨になるにより、売女屋より訴へて、高縄辺の女芸者十二三人被召捕たる事有
けり、皆芸者に極て遊所に行者なかりしなり、寛政の御改正より、羽織も、芸者も、三味線も、皆止て
正風体になりたり〟
◯『増訂武江年表』1p223(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(天明年間・1781~1788)
〝女芸者、振袖を着す〟
☆ 寛政十年(1798)
◯『天明紀聞寛政紀聞』〔未刊随筆〕②278(著者未詳・寛政十年記)
〝(二月)此頃夜分町奉行所より神田下町辺ノ女芸者十人被召捕、御吟味之所、何れも遊女ヶ間敷所行有
之ニ付、皆々吉原ぇ被下ニ相成候、当月三十日豊三郎殿御誕生被遊候〟
☆ 文化十二年(1815)
◯『大田南畝全集』「書簡」⑲279(蜀山人詠・文化十二(1815)年三月二十六日付書簡)
〝詩は五山役者は杜若傾はかの芸者はおかつ料理八百善
五山 菊地左太夫、名桐孫、字無絃、号五山、有五山堂詩話八編、住霊岸島坂本町
杜若 おやま若女形、岩井半四郎
かの 私衣(ナレギヌ)事【秘伝故名ヲアラハサズ】
遊女私衣、新吉原江戸町二丁目、若菜屋、初百川楼娘、名そよ
歌妓(ゲイシヤ)おかつ 駿河町、越後屋隣住、妹に梅、ふさ、其外多し。一年纏頭凡五百金
八百善 八百や善四郎、千寿に住、諸侯之仕出しをもいたし日々来客不絶、一年勘定三千六百七金、料
理屋多しといへども此上に出るものなし〟
〈蜀山人の狂歌は当時全盛を誇った詩家・役者・遊女・芸者・料亭を詠み込んだもの。駿河町の売れっ子芸者お勝の年
間祝儀が五百両とは驚きである。蜀山人も酒席にしばしば呼んで贔屓にしていた芸者である〉
☆ 文政十年(1827)
◯『椎の実筆』〔百花苑〕⑪201(蜂屋椎園著・文政十年記)
〝(文政十年六月)此頃、屋代輪池翁の芸妓背制の記事一編を観つ。左ニ録す。
ふるき世の白拍子てふものハ、いかなるすぐはひにやありけむ。わが大江戸さかりなる世となりて、町
々のうちすぎはひ薄きものゝ、かほよきむすめもたるハ、それをして人々の酒宴の席に出し、酌とる事
をわざとす。これをどり子ととなふ。はじめハ、舞おどることをせしよりの名なるべし。
明和、安永のころにいたりてハ、舞踊るものハまた党を別にし、酌とることなどふつにせざる事をむね
とす。たゞ三味線に浄留里ハ、豊後にまれ、義太夫ぶしにまれ、また長うたなどにまれ、その得たるわ
ざをうたひて興をとる。天明の頃よりいつとなく、これを芸者とよび。また其のあたりには、やとひこ
しもとなどよびなす事もあなりとぞ。ことし文政十のとし五月なかば、堀江六軒町、はた両国橋のあた
りにすむかの町芸者なるもの、二十余人(頭注「其中にもいと名高きは、紫若、しら瀧の二人り也」)
町奉行の庁にめしとらはれ、それ/\に糾問ありて、おなじき六月はじめつかた、それ/\罪さだまり
て、はなたれけるとなむ。これハ必しもいろをうるうかれ女のたぐひニはあらで、たゞ席上のもてあそ
びものなれるものから、まろうどのこゝろにかなふに事よせ、身におはぬきぬ、かみさしに至るまで、
めづらしきをこのめるあまり、あたひたふときから国のしな/\をも、はゞかる事なくものせしよしを、
いましめ給へる御掟とぞ聞えし。その衣類、帯、はたかみさしなど、こと/\しくとゞめられたる。そ
が中に尤異やうなるしな三つ四つ見及ぶことありしまゝに、こゝにかいつく。
(以下、羅紗・天鵞絨・緞子・更紗・繻子の帯、鼈甲製の櫛笄に関する記事あり)〟
〈屋代弘賢(1758-1841)の記事がいつのものか不明。文政十年六月三日、芸者に下された押込(外出禁止)等の処
罰内容の記録もあり〉
◯『江戸名物百題狂歌集』文々舎蟹子丸撰 岳亭画(江戸後期刊)
(ARC古典籍ポータルデータベース画像)〈選者葛飾蟹子丸は天保八年(1837)没〉
〝江戸芸者
三味線の棹を休めて生酔の楫をもとれる舟のうたひ女(画賛)(注1)
秋の夜の月ともめづる江戸芸者半は雲のかくしつまなる
うたひめはおとらぬこゑのくらへ獅子ひらく牡丹の花のくちひる
芸のみかこゝろもみがくうたひ女のさひしところは声斗りなり
あふぎ立はやりげいしやは二親も左りうちわでくらすなるならん
しらま弓ひく手あまたのやげん堀はやる芸者は人をそらさず
かんざしの紋も日向にさし込てさかりひさしき花の芸者等(注2)
三味せんの皮の乳にもうたひ女の調子合するいてうはの撥(注3)
さみせんの撥の象牙もつなかれん並ぶ少女がうたふくろ髪(注4)
つの組しよし町きほふ江戸芸者草にそめたる箱の風呂敷
はつ物の松魚と花の江戸げいしや口めづらしきはやりうたかな〟
〈三味線 箱 薬研堀・芳町など吉原以外の町芸者〉
(注1 屋根船の芸者)(注2 「日向(ひなた)」紋=白抜きの定紋)
(注3 「皮の乳」は高級な猫皮の三味線)(注4 大象をも繋ぐ少女の黒髪)
☆ 天保十二年(1841)
◯『三養雑記』(山崎美成著・天保十二年刊)
(国文学研究資料館・電子資料館・酒田市立光丘文庫所収)
〝女芸者
吉原の女芸者をいふものは、宝暦のころ、扇屋の歌扇といふものにはじまれり、その初は歌扇ひとりな
りしが、後おひ/\に外の娼家にも茶屋にもいで来て、細見のやりての前のところに「芸者誰、外へも
出し申候」などゝかきたり、これよりはるか後に、大黒屋秀民といふものけんばんを立たり、芸者をを
どり子と肩書して、見せへも遊女と同じくならび居て、客をとりたる娼家もありき、そのまへは芸者と
いふものはさらになく、遊女の中(ウチ)にて三線をひき、唄もうたひしことにて、多くは新造なり、三線
のできる新造をあげよなどゝいひて、呼て弾せたることなり、見せになみゐるときも、みな唄をうたひ、
三線をひきたるなり、これむかしよりのさまにて、中ごろよりこのならはしいつとなくやみたり、今も
見せをはる時にすがゝきをひくは、三糸番とて新造の役なりといへり〟
☆ 弘化四年(1847)
◯『貴賤上下考』〔未刊随筆〕⑩159(三升屋二三治著・弘化四年(1847)序)
〝女町芸者
名に高き町芸者は駿河町の於かつ、瀬戸物町のおのぶ、両国に山口、大村の於うたと二人あり、義太夫
芸者には粂治【是に木のぼりと云仇名あり】筆島、於とく、おふでなど、その外町中に数多く有しが、
名に聞へたるハなし、その昔は町芸者箱提灯を持たせしといふ、此時代には箱てうちん持たせたれど、
ちいさきてうちんなり〟
◯『此花』第十号(朝倉亀三著 此花社 大正二年(1913)七月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇「江戸の女芸者」朝倉無声著
〝江戸の女芸者は、踊子の一転したもので、踊子は京都の舞子を模倣たものである事は、既に本誌第一号
『舞子と踊子』の條に述べて置いたが、この女芸者の濫觴(はじま)りは、吉原遊廓から起つた事は『後
は昔物語』(写本)に
吉原の女芸者といふ者、扇屋花扇に始れり、歌扇たゞ一人なりし、宝暦十二年頃なり
とあるので明らかであるが、是より先き同遊廓の小楼(こみせ)で。踊子の名義を以て、酒宴の興をもた
すけ、且色をも売つた者があつた、これは当時江戸市中に散在した踊子の流れ込んだので、宝暦四年に
は其数廿余人の多きに上つてゐたが、遊客の嗜好に適せなかつたものと見えて、同十一年には其数も減
じて、僅に三人を止むるの衰微を来したのである、これと同時に、始めて女芸者と称する者四人、同遊
廓から現れた、即ち『吉原細見』に
芸者 扇屋花扇 芸者 玉屋らん とき 芸者 伊勢屋主水(もんど)
とあるのがそれである。(中略)
一体宝暦年代以前に於ける遊廓の歌舞は、技芸の秀でた遊女が勤めたもので、太鼓女郎の名目さへあつ
た程であるが、今突然此以外に芸子及び芸者の現はるゝに至つた動機に就いては、一は遊女の色を売る
に汲々として、技芸を蔑視した結果でもあるが、亦時勢の進歩につれて、色芸の分業を促した為であら
う、かゝる機運に乗じて現れたる女芸者であるから、踊子の失敗に反し大流行を来したので、年々其数
も増加する計(ばか)り、安永八年には百名以上に達するの盛況を見るに至つたのである。かく大数とな
つたので、大黒屋庄六といふ楼主が発起して、芸者の品行監督所なる見番を設けたのは、安永八年の事
である。其維持費として芸者から徴税する事となつてからは、其基礎も亦鞏固となつて、今日に及んだ
のである。
吉原遊廓に於ける女芸者の成功は、直に岡場所の模倣る所となつて、何れの遊里でも女芸者の影のさゝ
ない所がなき程の繁昌を極めたが、流行にはいつも弊害が伴ふもので、多くの中には技芸よりも売色を
専らとする者が現れからは、いつしか其に感染して、次第次第に斯界の風紀が乱れ勝になつたので、屡
々怪動(けいどう)風に襲はれた事は、諸書に明記してある、
是等数多き岡場所中でも、殊に女芸者の全盛を極めたのは深川で、これを世に羽織と呼ばれゐたのであ
る、この羽織の称呼は、堀の舟宿の女房が常に羽織を着てゐた風姿の、何時しか芸者に移つたものとも
いひ、或は某大尽が当時有名な芸者等に、黒羽織を与へたのが、其始であるともいふが、要するに同所
の芸者が、宴席に侍する時にも、黒無紋の羽織を着てゐたから起つた名目で、後には羽織が廃れ着なく
なつてからも、以前旧名称を呼ばれたのは、吉原の芸者や町の芸者と区別せんが為であらう、是等羽織
芸者の風俗が、当時他所の芸者の夫に比して、嶄然頭角を現してゐた事は、洒落本及び人情本に詳しく
描かれでゐる、
宝暦以前に両国薬研堀及び日本橋橘町を始めとして、各町に散在してゐた踊子等も、女芸者の名目が生
じてからは、何時しか町芸者と改称せらるゝやうになつたのである、これは岡場所以外の町に巣窟を構
へたからで、其風俗も他場所の女芸者と異なつてゐた、安永以前には何れも娘風の振袖を着て往来し、
箱屋の代りとあつて、お袋が三味線箱を携へて付き従つたもので、当時の狂歌にも、
ころんだら くはふ/\と付いて行く 芸者のはゝのおくり狼
と詠まれた程であるが、寛政改革からは、眉を落し歯を染る事になつて、自然と振袖が廃れて、お袋の
警固も無用となつたのである、かく町芸者は江戸各町に散在してゐたから、其数も亦頗る多く、『天寛
聞記』には、江戸市中に二三人づつ町芸者の居らざる町なしとあるのを以て考へると、当時千名以上に
達したであらうと思はれるのである、就中日本橋橘町に巣窟を構へてゐたものは尤物揃ひで、大名の留
守居や大商人等の愛顧(ひいき)を受けて、其全盛は目さむるばかり、中にも弁天おとよの如きは、当時
の洒落本及び青本に脚色(しくま)れた程である、かく町芸者の流行は、遊廓衰微の起因とあつて、新吉
原名主から請願したので、寛政十年二月御手入が開始せられ、町芸者四十五人召捕へられた結果は、一
時地を払ふに至つたのであるが、松平定信退隠後は、禁令も弛んだものが、何時しか旧態に復して、天
保の改革には只注意触あるにとゞまり、其流終に絶ずして今日に至つたのである〟