◯『蛛の糸巻』〔燕石〕②276(山東京山著・安政三年(1856)跋)
(天野翁の記事を写す)
〝天明の比、我家(天野翁)の長臣渡辺杢衛門、石町の豪富林治左衛門が許に至り【今は此者家おとろへ
賤しきくらしとなる】初鰹の振舞に逢ひし時、林が手代に価を尋ければ、今日は安し、一本二両二分也、
と云しとて、立帰りて我が父へ語りたるを、我れかたはらにありて聞し事ありき、我父鰹をこもまれし
ゆゑ、出入の魚屋常に持来りしが、初鰹は高価也しが、秋の古背にいたりては、肥太なるも価二百孔に
過ず、今は初鰹も二両三両をきかず、古背も二百孔の物なし、いかなるゆゑやらん〟
☆ 寛政元年(1789)
◯『よしの冊子』上〔百花苑〕⑧357(水野為永著・寛政元年(1789)四月下旬記)
〝初鰹廿本出候て、十本は御納屋へ納め、残り十本を一両三分ヅヽの直段立候処、一本も売れ申さず候に
付、あくる日ぐつと引下二貫五百文に仕候て、漸く一二本売候よし。其のあくる日一貫文に仕候て五六
本もうれ候由。よいきびじや。以前は一両三分でも買手が沢山有たろふが、此節は人々こわいから、先
づそんな奢をばせぬと申さた〟
〈御納屋は幕府の肴を調達する役所。天明期には一両三分でも買い手があったものが、執政が松平定信に代わって改革
がはじまった途端、その言い値が通らず、翌日に二貫五百文に下げてやっと買い手がついたというのである。今一両
を約六貫文とし、これで一両三分を銭に換算すると約十貫五百文。八貫文(金換算で一両一分強)もの大暴落である〉
☆ 寛政二年(1790)
◯『よしの冊子』下〔百花苑〕⑨132(水野為永著・寛二年(1790)四月記)
〝初鰹三月廿八日とヤラ小田原町ヘ廿本参り、一本ニて一貫五百文と申所、一本もうれ不申ニ付、一貫文
ニ相下ゲ候へバばた/\をうれ仕廻候よし。一貫文ニても例年より下直のよし〟
☆ 寛政三年(1791)
◯『よしの冊子』下〔百花苑〕⑨285(水野為永著・寛政三年四月記)
〝初鰹出候砌、ぼていふり四五本日本橋よりかつぎ参り、所々商ひあるき候へ共、壱貫弐百文位いたし候
故、武家抔ニても呼込値段を聞、夫でハ中々先ヅおらが口にハは入らぬと、値段も付不申候位ニ付、右
肴売暮頃迄一本売不申、漸肴屋へ参り売付候由。鰹五本ニて三貫文損いたし候由〟
☆ 文化九年(1812)
◯『壬申掌記』〔南畝〕⑨541(大田南畝記・文化九年四月二日聞書)
〝三月廿五日、日本橋の河岸へ初鰹十七本来る。六本は御買上になり【本途二貫五百文づゝ。二割増にて、
三貫文づゝの御買上也】日本は御頼みと申名目也。残り九本之内、山谷(サンヤ)の料亭茶や八百膳方にて
一本買、下谷にて二本買候もの有之。【これはよろしき権門へ遣ふなるべし】代金弐両壱分ヅヽ也。新
場の肴屋に一本ありしを、戯子中村芝翫【歌右衛門】一本を代金三両に求めて、三階に振舞しと也。日
本橋小田原町より市川三升へは例年一本ヅヽ贈る也。今年は沢村訥子【宗十郎】へも贈りしが、中村芝
翫の方、早くして評判ありしかば、同日にしておくれし事をなげき、三升は一生鰹を食ふまじなどいひ
し由。是又、東都の奇談也。【四月二日朝慶徳氏に聞】〟
〈幕府の肴調達機関・御納屋が買い上げた鰹は三貫文とある。当時の正確な銭相場ははっきりしないが、仮に一両を六
貫文(六千文)とすると、二分の一両ということになる。それを八百膳は二両二分、中村歌右衛門は江戸の役者の向
こうを張ったのであろうが三両で買い上げている。初物を食べると七十五日寿命が延びるとされているが、寿命とい
うより見栄と意気地を競うことが、一層初鰹の相場をつり上げていたのであろう〉
◯『江戸名物百題狂歌集』文々舎蟹子丸撰 岳亭画(江戸後期刊)
(日本古典藉総合データベース画像)〈選者葛飾蟹子丸は天保八年(1837)没〉
〝初鰹
酒の池肉のはやしのよし原に松てふ魚もめでずやはある
卯の花の雪より先へはつ松魚小笹をねせてうへにつみけり
背は青葉腹は霞のくまとりて春のかすみを見るはつ松魚
はつ物の七十五日おろかなり松の魚には千代やのぶらん
はつ松魚めづるさしみのつけ合(は)江戸紫のしそのふたつ葉
山吹のいろにかへぬる初かつをみになるほどはくばれさりけり
きのふまでことばの花のさくら鯛けふめづらしき松の魚かな
つれ/\に書◯たるはつ松魚法師の口の毒にやあるらん〈◯は「違」の異体字「辶」+「麦」〉
いかばかりぞと直をとはん作り身の筏にのせて出すはつ松魚
大名のあたま数にもたらざるは江戸の走りのゑほし魚なり
鯛を名に呼びしさくらも若葉してみどりの色そふ松の魚かな
南京のさしみ皿何藍色のおよばん江戸のはつかつをには
わた出して作るかつをのはには客の腹までさぐる料理屋
一ふしはかふて賜はれけさ夏の頭にきたる立ゑぼし魚
〈ゑぼし魚は鰹の異名。初もの延命七十五日とはいえ、価に山吹(小判)とは、とにかく高い。兼好法師『徒然草』百十
九段、鎌倉の鰹について、今でこそもてはやすものの昔は下賤の食べ物だったと、老人の話を記す〉
☆ 江戸後期
◯『近世風俗史』(『守貞謾稿』)後集 巻之一「食類」⑤100
(喜田川守貞著・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)
〝江戸は鰹の刺身を用ふ。四月の初鰹を賞味すること、最もはなはだし。中昔までは四月初鰹、一尾価金
二、三両に至る。近年はなはだ劣れりといへども金二、三分〟
◯『残されたる江戸』柴田流星 洛陽堂 明治四十四年(1911)五月
(国立国会図書館デジタルコレクション)(38/130コマ)
◇初松魚
鎌倉を活きて出でけん初松魚の魚河岸についたとあれば、棒手ふり(ぼてふり)迄が気勢ひ(ママ気負い)に
きほつて、勇み肌の胸もはだけたまゝ、向鉢巻の景気よく、宙を飛んで市中を呼(ママ)じ歩く。
声にそゝられて昨日うけたばかりの袷を又転じ来て夕餉の膳を賑はす程の者、今日も江戸ッ児は昔に変
らぬのが、さても情けないは仙台鮪が河岸にのぼる日もあつて、それ以来初松魚の有難味、頓んと下り
果てた為体(ていたらく)、龍も雲を得ざれば天に及ばず、時なればこれとても是非ないことかな。
しかはあれども、松魚は元より男の魚、ピンと跳ねた姿にすッきりした縞目の着もの、美しきは上べば
かりでなく、おろした身のさらりと綺麗で、盃の口に決してしつこからず、箸にする一片の肉にも、死
して死せざる筋の動き、身は寸断に切り刻まれても、魂は遂ひに滅びざる江戸ッ児の性根を其の侭なる、
こゝに財物を抛つてもの値打ちはあるのだ〟
〈棒手振とは笊籠商品を入れ天秤棒を担いで売り歩く行商。初もの好きの江戸ッ児、売り声を聞くや否や、請け出したば
かりの袷をまた質に入れても手に入れようというのである。だが明治になると鮪好きも増えてきて、必ずしも松魚の天
下とは言えなくなっていたようである〉