☆ 宝暦十二年(1762)頃
◯『後はむかし物語』〔燕石〕①332(手柄岡持著・享和三年(1803)序)
〝よし原女芸者といふもの、扇やかせんに始まれり、歌扇たゞ一人なりし、宝暦十二年頃なり、其後おひ
/\に、外の娼家にも茶店にも出来て、細見のやりての前の所に、げいしや誰、外へも出し申候と書た
り、夫よりはるか後に、大黒やの秀民、けんばんを立たり、芸者をどり子と肩書して、見世へ傾城同様
に並べて、客を取たる娼家もありき、新町の桐びしやなどにありきと覚き、尤かれらはうしろ帯にて、
鄽に並び居たり〟
☆ 天明五年(1785)
◯『青楼年暦考』〔未刊随筆〕②246(著者未詳・天明五年記)
〝(天明五年)
八月江戸町扇屋花扇、客に殺されんとす【咽をよけて今無恙、客は即死也】〟
◯『天明紀聞寛政紀聞』〔未刊随筆〕②265(著者未詳・天明五年記)
〝(天明五年八月頃)
永田馬場安倍式部殿【七百石】是も吉原扇屋内花扇と情死之約束被致、同人を刺殺し、自分も自害せし
に、両人共に仕損じ存命ニ付、家来働き者にて双方内済之熟談に致し候由にて、大出来せしとの取沙汰
なり〟
☆ 天明年間(1781~1788)
◯『蛛の糸巻』〔燕石〕②281(山東京山著)
〝(天明年間回想記事)初代花扇東江の門人なり、遺墨世にちりのこる中に、三囲稲荷の額に、自筆のよ
み歌のこれり、同じ時、同家の滝川は千蔭の門人なり、千蔭も東江も、天明中の名家なれば、これが門
人となしたるは墨河が一ツのはかり事なるべし、しかおもふよしは、墨河がはからひにて、一ヶ月に一
度づゝおいらんと称せらるゝ者へ、客の多少により、品に位を付て褒美をとらす、しかるに、滝川が客
の数花扇におとりたる事おほかりければ、そのゝちの時、位よき品をわざと滝川方へもたせやり【花扇
は表ざしき、滝川は裏ざしき、三間づゝなり】ふたゝび軽き品なるをもたせやり、つかひにいわするや
う、今のはおもてざしきへ参るのなりしをまちがへしとて、よき品は花扇へもちさりければ、滝川心に
不足して憤発し、つとめに精を出しければ、両妓一双の珠光をなしゝとぞ〟
〈花扇も滝川も吉原の妓楼扇屋抱えの遊女。墨河はその江戸町一丁目扇屋主人宇右衛門の号。花扇を橘千蔭に、滝川を沢
田東江に入門させて書を習わせた。当時、千蔭、東江、いずれの書も持てはやされていた。扇屋は集客のために花扇と
滝川を競わせたというのである〉
〝水野【出羽守沼津】の家老土方縫殿之介、扇屋になじみて、猩々緋にてへりをとりたる七ツ蒲団をこし
らへてやりたる事、世上に口伝する程也けり、土方扇屋に遊と聞ば、諸家の留主居又はかの権門方など、
同じく扇屋に遊び、土方へ馳走の為、おり/\談合して、みせにをる遊女を残らず買ひ上げて、土方が
席を賑す、依て土方来る時は、おほかたみせは惣仕舞也。是扇屋の盛んなりし一端にて、又、天明年間
の今と異る国体を知るべし〟
☆ 天保十五年(1844)
◯『近世名家書画談』二編巻之三(雲烟子著・天保十五年(1844)刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇花扇(10/32コマ)
〝崎陽客(ながさきのかく)江戸の花扇(はなあふぎ)に詩を寄(よす)る事
滝沢瑣吉子が記に 二十年前【寛政二年を云】北里(よしはら)五明楼(あふぎや)なる花扇とかいひし
遊女 老母に孝行なりとて 其事を板して巷に売るものありし 予このころは弱冠なりしかば その
事としも聞くものから 耳の底にはとめざりしに 友人南野ぬし嘆賞のあまり 彼孝女伝と題せる小
紙二頁(けつ)を蔵したり しかるにこの比の商舶費晴湖 崎陽にあり この孝娼の事を伝へ聞きて
感称し漫(まん)に是を賛したる詩草を ある人蔵弆(ぞうきよ)せしかば 南野ぬし又是を乞ふて表装
し 彼花扇が艶簡(てがみ)さへに帖の末にものしつゝ 煙花三絶と題して今に秘蔵せられし (中略)
又云 彼遊女は心さま風流にして書をよくせしとぞ これをば世人よくしらめど その孝行にいたり
ては いまだ知らざるものもあるべし 予はその風流と能書を取らず孝の一字を愛づるのみ (中略)
身におはぬたぐひとや見ん山がつの名にはづかしき花の扇は 花あふぎ (扇面)
媚を献じ欲を鬻ぐもの 孝をもて賞せられ 其名異国にさへ聞へたりけん こは未曾有の美談ならず
や 云々 (下略) 費氏が詩 左に記す
綽約氷姿似紫雲 清歌妙舞更能文 修行孝道無雙侶 声誉京華得上聞
名擅青楼第一人 天生百芸妙通神 憐余長作天涯客 碧海蒼茫欲問津
江戸に名妓花扇なる者有り 美なる姿容有り 文芸を渉猟す 家に老親有り 更に能く孝道を曲
尽す 余崎陽に来りて十四年 嬌麗静美 風流跌宕の輩 人乏しからずと雖も 独難其孝而能文
也(判読できず) 余之を聞き 神往に勝へず 因つて二絶を賦して郵寄す
苕渓 費晴湖
按ずるに 此花扇は東江源鱗の弟子にして 詩歌など書たるをしば/\見ることあり こゝに又 清
人姚中一が詩を得るまゝ左に記す 又花扇が真跡を影写して載するは 其の孝子幷に能書なるを取る
なり 彼が容色が如きは 年を去ること五十余歳 予が未生以前の事なれば そのくわしきを知る事
あたはず
伊人道阻長 邦媛溯清楊 国色弥間雅 神娥羨淡粧
花羞王氏美 扇詠婕妤章 莫謂東都遠 崎陽一葦航
戊申冬日 長崎客館に題す 江湖花扇美人に寄す 五律一章 古◎ 姚中一
あふぎ合 歌仙三十二番
勝 左 遊女花扇
忍べよとかたみにかへて見し春の俤さらぬ秋の夜の月
右 三嶋景雄
河のへにかへる月の影きよみ綱手ひき過る舟もみへけり
又石山寺へ鳴琴の二字を書て納めける此額を 源氏の間の上のかたに掛けたるとぞ 心ある人の所為
(しわざ)と覚へたり〟
〈滝沢瑣吉は曲亭馬琴。「煙花」は遊女の意味〉
☆ 明治二十七年(1894)
◯『内外古今逸話文庫』6編 岸上操編 博文館 明治二十七年刊
(国立国会図書館デジタルコレクション)
※ 原文は漢字に振り仮名付き。(かな)は原文の振り仮名
(第九編「文芸」の項)
〝名妓花扇石山寺の額を書す
北里五明楼(扇屋)の花扇は、心さま風流にして頗る書を能くす、石山寺へ鳴琴の二字を書て納めける、
此額を源氏の間の上のかたに掛けたりとぞ、心ある人の所為(しよゐ)と覚えたり、其書余韻ありといふ
(曲亭馬琴)〟
〝花扇文芸に通ず
花扇、その容色は口碑に伝へて人の知る所なり、書を東江原鱗に学ぶと云、或人の蔵せる扇面に歌の筆
跡あり、その書超凡、浮れ女などの手跡とは思はれず、その歌に曰、
身におはぬたぐひとや見ん山がつの名にはづかしき花あふぎ哉
和歌は蓋し橘千蔭に学ぶといふ〟