Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ かるわざ 軽業浮世絵事典
 ◯『江戸名物百題狂歌集』文々舎蟹子丸撰 岳亭画(江戸後期刊)   (日本古典藉総合データベース画像)〈選者葛飾蟹子丸は天保八年(1837)没〉   〝両国    軽わざの小家のかゝりし両国にかすみの糸をわたる三日月    軽わざの妹がくも舞見に行かんかねてしらせの京わたりとて    落さうな時雨の空のあふなさにかさもて綱を渡る軽わざ〟    〈軽業(くも舞・綱渡り)〉  ☆ 天保十四年(1843)    ◯『浪華百事談』〔新燕石〕②228(著者未詳・明治二十五~八年頃記)   〝江戸菊川伝吉、きつさき登り、是は江戸火消なりしものゝ、かるわざと成りし者にて、種々の芸をなし、    切先のぼりとて、数丈の丸太の立たる其端まで登りて、種々芸をなす、此頃珍らしとて大に流行れり〟    〈この見世物は天保十四年頃の大坂西横堀下流新築地で興行されたもの〉    ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)    ◯『増訂武江年表』2p103(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (弘化元年・1844)   〝春より夏に至り、両国橋西広小路に大なる仮屋を構へ、こま廻し(下谷の住)こまに手妻(テヅマ)の曲と    ゼンマイからくりを交へて見せ物とす。見物山の如し(これに続いて浅草に住める奥山伝次といへるこ    ま廻し、竹沢の趣向を習ひこまに手妻を交へ、道具建にからくりをなして、浅草寺奥山にて見せものと    しけるがさして行はれず。其の後人形師竹田縫殿介、同所にてもみけし人形の見せ物を出したり)。     筠庭云ふ、小屋壊れて怪我ありしは、三人兄弟とて物まね上手にて、其の頃流行(ハヤリ)しなり。又前     後は覚えず、此の頃竹沢のこま未だ出ぬ時、其処に囲ひもせで、軽業をしたる虎吉とかいへる童は、     小さき台共つみ重ねたる高き上にのぼり、下には抜き身の刃を立てたり。上にふせたる小樽のひらき     て壊れて落ち、刃に貫かれて死したり     曲ごま、二月中旬より八月まで、両国にて行はれ、夫より九月は芝神明に出づ。     其の後は仕掛したる種々のこまを、細工人浅草御蔵前にて大路にて売物とす〟    ☆ 安政二年(1855)    ◯『藤岡屋日記 第六巻』(藤岡屋由蔵・安政二年(1855)記)   ◇浅草奥山軽業興行 p457   〝三月十九日、浅草奥山軽業にて、坊主喧嘩之事    二月十八日より浅草観世音開帳に付、大坂新下り軽業玉本勝代綱渡り乱柱渡りの大評判にて、見物群集    致し候、(以下、伝法院の僧侶、木戸番と入れろ入れぬの口論喧嘩、それを聞きつけた近辺の若者と鳶    の者が加わって僧侶と睨み合う、そこへ「と」組の頭・新門辰五郎や浅草寺代官が駆けつけて鎮めたと    いう記事あり)     軽業に唯見せ物と這入のは伝法院の坊主なるゆへ〟    〈「伝法(デンポウ)」は伝法院の僧侶のタダ見から生まれた興行世界の隠語で無銭見物の意味がある〉      ◯『増訂武江年表』2p144(斎藤月岑著・明治十一年成稿)   (安政二年・1855)   〝二月十八日より八十日の間、浅草寺観世音開帳。貴賤男女日々参詣群集せり。(奥山にて)    軽わざ綱渡りの上手増鏡勝代といふも、同所へ出て見物多し〟    ☆ 安政四年(1857)      ◯『藤岡屋日記 第七巻』(藤岡屋由蔵・安政四年(1857)記)     ◇早竹虎吉軽業興行 p440   〝安政四丁巳年二月、風邪流行之事    (中略)    右、風邪流行の発りは、大坂下り軽業早竹虎吉、両国にて興行、正月廿六日初日、此者大坂より風を引    来りて江戸にて流行致させ候よし、大評判也、軽業も大流行、風も大流行也。    (中略)    大坂下り早竹虎吉は風(一字虫)共に大急行、大入にて、金主より給金毎日金拾両、外に拾貫文、衣装    化粧代出候よし。      早竹虎吉看板     菊慈童布さらし     富士牧狩建まへ三番叟     天拝山雷烏帽子狩にて(一字虫)結渡り     早竹虎吉口上之処、額五枚也、進上天幕松井町御旅所弁天前、川端水茶や暖簾残らず竹の絵也      軽業に(一字欠)まし 【木戸銭三十二文/中銭二十四文】    右は正月廿六日初日にて、大入大繁昌致、前日より言込無之候ては見物出来兼候程の群集にて、古今稀    成大入、然る処三月四日ぼんぼり渡り興行致し候所、狂言の最中大風にてぼんぼり不残倒れ、虎吉、骸    は針がねにて釣候之候(ママ)故、空中にぶらさがり居、大きに間が抜候よし、是より評判悪敷相成候よし、    同時に早竹に張合、奥山ぇ出候。     軽業曲独楽  太夫 桜鯛駒寿     所作事   若太夫 同 幸吉       桟敷一間   壱貫六百文       同割合壱人前 三百七十二文      看板之次第     唐子船の力持、奴鎗を持、子供上に軽業     布袋唐子(一字欠)ひ船の業     淀川の水車     菅丞相荒れ場雷     稲荷社狐階子上り     幽霊出遣ひ人形     阿陪仲麿入唐幽霊     階子渡り井戸の曲     奥山生人形       細工人御馴染   竹田縫之助       大道具大工    長谷川友吉       同        竹田芳太郎       肥後熊本     秋山(一字欠)猪次郎       同        作次郎  万助     生人形細工人、熊本秋山平十郎      看板次第     新吉原遊女屋二階之処     中の町さくら、おいらん道中     田舎源氏光氏酒宴之処      招き人形      信濃や前の所、長のれん懸ヶ行灯      母にお半、下女にでつち、人形四ツ      脇に角力取二人 大形〟     ◇見世物 p499   〝(四月十六日より両国回向院にて、上総国芝山観音寺の十一面観世音菩薩・仁王尊并霊宝開帳)      境内見世物之分    殺生石  膃肭臍  大眼鏡         大江忠兵衛作生人形 招天神・猿田彦其外    百面相人形 招官女子日遊小松引    花鳥亭 招うさぎ数疋有之    肥後松本喜三郎作 怪談招清玄    蒸気車 隅田小きん軽業〟      ◯『増訂武江年表』2p159(斎藤月岑著・明治十一年成稿)   (安政四年・1857)   〝正月晦日より、両国橋詰に於いて、大坂下り早竹虎吉、独楽(コマ)にてづま、軽趫(カルワザ)、綱亘(ワタ)り    その余色々の技芸を交へ、一人して行ふ。見物群集夥し。これに続いて三月頃より桜鯛駒寿といへるも    の、其の弟子幸吉、福松、助三郎などいへる少年とゝもに大坂より下り、早竹にひとしき業をもて、浅    草寺奥山に看場を開き、見物群集しけるが、五月の末にいたりて歇(ヤ)む〟   〝〔只補〕二月下旬より、浅草奥山に於いて、上方下り軽業師桜鯛駒寿、飛び放れたる曲を演じ、見物多    し〟