☆ 天明八年(1788)
◯『よしの冊子』〔百花苑〕⑧130(水野為長著・天明八年三月記)
〝前句
ふんどしが出たで世の中しまる也。【是ハ西下の御事也と】
鶴飛だ跡に雀の羽子ばたき。【是ハ石河ノ跡へ柳生の出た事也。石河の紋ハ鶴ノ丸也。柳生の紋ハすゞ
め也】〟
〈「西下」は老中・松平越中守定信による改革を詠んだ句。越中がキーワード。二句目は、北町奉行が急逝した石河土
佐守から柳生主膳正に交代したことを詠んだもの〉
☆ 寛政元年(1789)
◯『よしの冊子』〔百花苑〕⑧454(水野為長著・寛政元年八月記)
〝此節町人共商ひ少く難儀仕候由。右に付何ものか
白川の清き流に住かねて濁りし田沼の水ぞ恋しき
と落詞を仕候由〟
◯『よしの冊子』〔百花苑〕⑨63(水野為長著・寛政元年八月記)
〝蔵宿ども、かし金等とかくいだし不申候て、御家人難儀仕候よし。(*中略)
九十九夜深草ならぬ浅草へかよへどかさぬ少々の金
蔵やどを無理に叱て酉のとし戌の年までほえる御家人
九十九よふかくさならぬの狂哥ハ、加藤平次(ママ)郎 新御番 と申もの蔵宿へ金をかりニ参候時、かし
申故読候由。平二(ママ)郎ハ草双紙も能作候よし〟
〈松平定信が打ち出した棄捐令は、一時的に御家人の借金を軽減したものの、逆に蔵宿の貸し渋りをまねいた。深草少
将の百夜通いよろしく、御家人も浅草の蔵宿の許に日参するが、少将があと一日を残して凍死し、それがために小野
小町を手に入れられなかったと同様、御家人もお金がなかなか手に入らないというのである。棄捐令も御家人の窮乏
を解消することは出来なかったのである〉
◯『よしの冊子』〔百花苑〕⑨63(水野為長著・寛政元年八月記)
〝狂哥
よの中ハ武げいさんとめ紺の足袋ぶつさき羽織おくり拍子木
汗水を流して習ふ剣術も御役にたゝぬ御代ぞめでたき〟
〈武芸に励むものが出て、サントメ織りの紺の足袋に大小の差しやすいぶっさき羽織を揃って着るようになったと見え
る。おくり拍子木とは、一種の夜間警備で、深夜往来するものあると、番人が拍子木を打って各木戸を順に送った。
要するに武張った恰好の武士が多くなり警戒も厳重になったというのだ。しかし皮肉なことに、幕府の奨励する武芸
に励むものの、天下太平のめでたい御代には有り難いことに役には立たない。ではなんのために?である〉
〝落咄
吉原へ大勢遊びニいつた所が、大門の内みんなぶつさき羽織、紺たびの客計、中にひとり黒八丈ニ八反
抔と出かけて、昔の通人と同じ事故、アレをみやれ、とんだものもあれば有、名ハ何といふかしらぬと
いへバ、跡から付て着た若イもの、アレハ名高い蔵前のきゑんどござります。ムゝあれがきゑんか、字
ではどうかくの、喜遠(ヨロコビトヲシ)と書ます〟
☆ 寛政二年(1790)
◯『よしの冊子』〔百花苑〕⑨63(水野為長著・寛政二年年正月記)
〝芝居見物ニ御旗本抔参り候ニ、みな/\袴を着し見物いたし候由。先達て迄ハ芝居と申せばぱつち尻は
しよりニ候処、野辺の外ハ当時ハ皆々袴の由〟
◯『よしの冊子』〔百花苑〕⑨158(水野為長著・寛政二年六月記)
〝武芸流行ニ付、武器けいこ道具、いづれも古しへニくらべ候てハ二倍も三ばいも直段引候由〟
◯『よしの冊子』〔百花苑〕⑨160(水野為長著・寛政二年六月記)
〝異学の御制禁被仰出候付、徂徠派の本ハ売レ申間敷と、江戸ニ不限、京大坂の書肆共歎息いたし候由。
とかく聖堂のさたハ宜しからず候由〟
◯『よしの冊子』〔百花苑〕⑨177(水野為長著・寛政二年七月記)
〝武家町人共、此節ハとかく西下を御恨申候もの多御ざ候由。武家ハ米価下直ニ、其上蔵宿已前の通ニ金
を貸不申、繰廻しニ差支候ニ付、小言を申候由〟
◯『よしの冊子』〔百花苑〕⑨198(水野為永著・寛政二年九月記)
〝大槌屋丸角、両国のむら田、池ノ端の住吉屋、浅草の越川屋抔へ町奉行より与力同心参り、銀具其外唐
織類など皆々取上、長持へ入レ封印附候由。槌屋抔ニてハきセる、多葉粉盆、提重抔、銀具の懸り候物
長持ニ一棹封印付られ候由。丸角ニては最初与力参り、鼻紙袋を誂候体ニて段々能切を出さセ、是より
上の切レはなきやと迄吟味いたし、夫ニ釣合候かな物段々出さセ候上ニて、中間ニ何か申付候へバ、中
間店を出候て暫く過候と、同心十人程参候処、与力此通之切レ銀具見へ候ニ付、せんさくいたし候様申
付、踏込候て不残道具出さセ、いづれも箱ニ入封印いたし候由〟
〈丸角と越川屋は袋物、むら田と住吉屋は煙管が有名であった。銀製品と高級切れ地が贅沢品として槍玉にあがったよ
うで、見付次第封印して廻ったようである〉
◯ 触書 十一月十九日付〔『江戸町触集成』第九巻 p68(触書番号9624)〕
〝書物之義は前々より厳重ニ申渡置候処、いつと無猥ニ相成候ニ付、此度書物屋共并壱枚絵草紙問屋共え
改之義申渡、且壱枚絵草紙問屋共、是迄行事無之ニ付、以来両人ツヽ行事相定候様申渡候処、右書物屋
共之外ニ、貸本屋世利本屋と唱、書物類致商売候者有之、壱枚絵双紙問屋之外ニも同様之商売致し候者
有之候趣ニ候間、前書之書物屋共草双紙屋え此度申渡候趣相心得、以来新板之書物同断、草双紙壱枚絵
之類取扱候節は、書物屋共并草双紙屋之内行事共え其品差出、改受候上商売致、猥成義無之様可致候、
尤素人より壱枚絵草双紙時之雑説等板行致候を買取商売致候義、堅致間敷候、若相背候者有之候ハヽ、
急度可申付候、右之通不洩様可相觸候
戌十一月十九日〟
〈一枚絵草双紙問屋(地本問屋)の出版物は今度制度化された仲間行事二名で改(アラタメ)(検閲)を行うこと。また最近、
地本問屋同様の商売をしている貸本屋や世利(セリ)本屋(糴(セリ)売りの本屋=行商の本屋)も、同様に行事の改を受け
るよう命じた。地本問屋の草双紙・一枚絵が検閲の対象となったことは、それらの市民に対する影響力が看過できな
いレベルになっていることを示すのであろう。また貸本屋・世利(糶)本屋などの動向も幕府には気になりだしたので
ある。いずれにせよ幕府は江戸市民が興ずる出版物を間接的にコントロールしようというのである。ところでこの触
書と同じ文書が『徳川禁令考』にあるのだが内容に違いがあるので、次に載せておく〉
〔『徳川禁令考』「諸商勧業及濫資征権法度」(文書番号2948)〕
〝(上略)
貸本屋世利本屋と唱、書物類商売致し候者有之、壱枚絵双紙問屋之外ニも同様之商売致し候者有之候
趣ニ候間、前書物屋共草双紙屋共え、此度申渡候趣相心得、以来新板之書物同断、草双紙壱枚絵之類
取扱候節、書物屋并草双紙屋之内、行事共え其品差出之儀堅致間敷、若相背候者有之候ハゝ、急度申
付候事〟
〈こちらでは貸本屋や糴売りの品は地本問屋の行事に差し出すことを禁じている。行事が改(アラタメ)(検閲)を受け付け
ないということは、一枚絵や草双紙の新規出版は地本問屋以外には認めないということになる。どうしてこんな違い
があるのか分からない。ただ糴売りが板元に企画を持ち込んで制作を依頼するといった例もあるから、表向き地本問
屋以外の新規出版は認めないというのも肯ける〉
☆ 寛政三年(1791)
◯ 二月〔『【未刊史料による】日本出版文化』第三巻
『江戸町奉行と本屋仲間』「史料編 諸問屋名前帳」〕
〈この書付は嘉永四年三月の「団扇問屋名前帳」の冒頭にあったもの〉
〝寛政三亥年二月被仰渡候私共商売体団扇絵之儀、以来新板もの猥成異説、時々雑説、又は当前世上ニ有
之無筋之噂事、其外男女風俗ニ拘(カカワル)如何敷(イカガワシキ)儀等絵板行類不致、是迄仕来之外新規ニ花美
之儀致間敷趣、弥以相守、絵柄等是迄之通絵双紙懸名主中え差出改請実直ニ渡世可仕候〟
〈前年十一月の地本問屋に続く団扇問屋への出版統制令である。但し「絵柄等是迄之通絵双紙懸名主中え差出改請」の
件(クダリ)は、この書付の年月、嘉永四年三月時点のもの。新板絵入読本類の改(アラタメ)懸り名主が任命されたのは文
化四年(1807)からである〉
☆ 寛政五年(1793)
◯ 八月六日〔『江戸町触集成』第九巻 p323(触書番号9977)〕
〝重キ御役人御替有之候ハゝ、最早宜敷抔と心得違仕、如何成絵草紙類巧ニ拵出候事致間敷、且又紺此節
相摺之如何識一枚絵抔摺出候分相見候処、右奉行所より御沙汰有之申渡候ニてハ無之、此方共心得ヲ以
申渡置候段、板木屋絵草紙屋問屋行事共え申渡候間、此段為心得申渡候、組合えも申通候様可致事
八月六日〟
〈松平定信の老中職解任は七月二十二日、「重キ御役人御替有之」とはそれをさすのであろう。確かに定信は去った。
しかし定信派は依然として幕政の中心にいた。もう宜しいだろうというような心得違いや心の緩みを牽制したのであ
る〉