難波屋おきた(浅草随身門前 水茶屋) 高島おひさ(両国薬研堀 煎餅屋)
富本豊雛(とよひな)(芸者)
☆ 寛政五年(1793)
◯『よしの冊子』〔百花苑〕⑨489(水野為長記・寛政五年(1793)七月頃記)
〝両国やげん堀水茶屋(クワシヤ)高橋(砂)屋ひさ、浅草観音難波屋の何(きた)とか申候女、いづれも美婦にて、
両人共絵に摺出し評判仕候由。その外芝神明地内に一人、両国の河岸に一人美婦を抱へ申すべき心取の
よし。何卒今の内御制禁も御ざ候はゞ然るべき由、先達中より錦絵抔も好色の絵は摺出し出来兼候処、
又々此節右体之儀追々流行候ては、芸者同様にも相成り、衰世の基に相成るべき由。既に四五日已前浅
草観音地内難波屋の女は別して相はやり、次第に高慢に成候に付、客へも茶も出し申さず候、脇の手伝
に計申付茶を出候に付、近所の若き者共大に腹を立、糞を桶へ入参り、右女は勿論腰掛茶釜茶碗抔へも、
糞をおびたゞ敷蒔懸候由にて、大にあばれ候由。其翌日茶釜、腰掛抔昼時頃迄相掛り掃除いたし、則翌
日の昼時過に直に店を出し候へば、右にて又々高名に相成り、其日の群集爪も立ち申さず候、見物出候
よし。又薬研堀のひさと申候女も茶屋へ出候まへ、富家の町人千五百両にて貰ひ申し入れ候処、女の親
承引之無く茶店へ出候由。何れ此節茶屋女一番にはやり候よし〟
◯『南畝集 九』〔南畝〕④130(大田南畝賦・寛政五年七月賦)
〝浅草茶店の美人の図に題す【舗、浪華と号す】
大悲の高閣寺門の前 車馬粉粉たり万井の煙
中に北娘佳麗の色有り 行人茶銭を餉(オク)ることを惜しまず〟
〈これは浅草の難波屋おきた〉
◯「豊雛 おきた おひさ(寛政三美人)」喜多川歌麿画 寛政五年頃刊
寛政三美人(ウィキペディアより)
〝元ります 玉津島とやいひなさん 芸もきりやうもみがく豊ひな 栗々庵頭万麿
うつくしき はなの難波や住吉の 橋はそれども 人はそらさじ 笹葉鈴成
ほの/\と あかしつくより両国の 名の高しまへかよふ人まろ きよろり〟
〈狂歌は寛政三美人を和歌三神になぞらえて称えたもの。芸者・富本豊雛は玉津島社、すなわちそこに祭られている絶
世の美女・衣通姫が再来したかと。難波屋おきたは摂津の住吉神社で、橋は反っているが人の気持は逸らさない、そ
れほど魅力的だと。高島おひさは柿本人麻呂社、狂歌は人麻呂の「ほのぼのと明石の裏の~」を踏まえて、夜が明け
るや人々がきそって両国の高島屋へ通い始めると、それぞれ詠んでいる〉
◯『増訂武江年表』2p19(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(寛政年間・1789~1800)
〝浅草随身門前の茶店難波屋のおきた、薬研堀同高島おひさ、芝神明前同菊本のおはん、この三人美女の
聞え有りて、陰晴をいとはず、此の店に憩ふ人引きもきらず(筠庭云ふ、随身門前は見物の人こみ合ひ
て、年の市の群集に似たり、おきたが茶屋の前には水をまきたり。両国のおひさが前は左程にはなかり
き。此のおひさは米沢町ほうとる円の横町に煎餅屋今もあり、その家の婦にてありし〟
◯『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥73(喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事)
(寛政年間記事)
〝此頃水茶屋女容色高かりしは、浅草随身門難波屋おきた、両国橋高島やお久、神明前菊本やおはん、此
三人殊に勝れて聞へ、錦絵色々出たり、昔の笠森おせんは知らず、浅草に通行に両国も通りしかど、高
島はさのみならねど、難波やは夥しき見物にて、門前往来成難し、店前水を洒ぎてよりがたきもいとは
ず、或は用水桶縁に上りなどして覗くけしからぬ事也き、こゝは観音参詣の往還の故なるべし、高島は
薬研堀不動の脇なる煎餅(ママ)それが家也、今に在、其他は知らず、中村鬼治が拍子舞と云狂言唄、今も
唄ふ、此茶屋女、家名其文句に出たり〟
◯『甲子夜話5』巻之八十六 p62(松浦静山著・文政二年(1819)記)
(文政元年十月七日の大火に焼失した松浦家所蔵の品目)
〝戯画 一幅
大幅なり。此画は十余年前浴恩園の筵中、その夫人〔加藤氏〕予〈松浦静山〉が先年の旧事どもを尋ら
れて、君嚮(サキ)に豊雛と云へる歌妓を召したること有りと聞く。委く其状を語り給へ。予笑て、何(イカ)
にも言の如し。過し年江都在勤の御允を蒙し頃なりし。今の侍従津軽越州、柳班にて有りしとき、備前
支侯前田信州〔退老して号清閑斎〕と屢々相会して、席の事、御番所のことなど議論し、談畢れば時と
してその少婦を呼て、宴興を助けたりと答へぬ。然るに他日又園の集会に夫人一幀を携(タヅサヘ)〔風流
画工歌川豊国の所描〕、予に示て曰く。是先年侯家の図なりと。予展(ノベ)て視るに、上に予が青年の
肖図し、妾婢数員左右にあり、下に豊雛が姿を描けり。予黙て拝す。時に某閣老坐にあり、戯(タハムレ)に
言ふ。此図珍重せられんこと推察す。速に裱褙を加へられよと。予時に既に隠退。固より憚る所なし。
迺(スナハチ)諾して退き、遂に裱褙し、他日前客の会集ある時を竢(マチ)て、往て宴中にこれを披呈す。坐
席皆嬉観笑楽す。その前、予外函を造り、銘に張九齢が詩を題す。曰
宿昔青雲志 蹉跎白髪年、誰知明鏡裏 形影自相憐
〔河三亥に銘じて書せしむ〕蓋(ケダシ)窃(ヒソカ)に諷意を寓せり。主侯視て粛然たり。思ふに、予が在職
の頃は、侯も亦春秋鼎盛なりしが、旧事に感ぜられしや。是一時の戯と雖ども、灰失するは憾なきに非
ず〟
〈「浴恩園」は松平定信自ら造成した庭園。「豊雛」は富本豊雛。難波屋おきた、高島屋おひさと共に寛政の三美人と
称えられた芸者である。歌麿の錦絵で知られるが、初代豊国もその美貌を写生していたのである。寛政四、五年頃の
作画であろうが、惜しいことに、文政元年、灰燼に帰したのである。箱書の「河三亥」は書家の市川米庵〉
◯『貴賤上下考』〔未刊随筆〕⑩154(三升屋二三治著・弘化四年(1847)序)
〝水茶屋娘
寛政の末か享和の始めまでに、難波やの於きた、高しまのおひさといふ名題の水茶屋娘、錦絵に出ては
やる、なにはやは観音矢大臣門外、高島は両国米沢町横町、薬研堀への出口、今の高島せんべいやなり、
その頃湯しまの橘や、本所安宅の千代鶴などゝて、その外名代の水茶屋多し、此時代の浮世画師は歌麿
としるべし〟
◯『続飛鳥川』〔新燕石〕①40(著者未詳・寛延~天保記事)
〝茶屋女に美婦を置事、三十年程前に流行、角力に取組売歩行、浅草矢大臣門前難波屋おきた、薬研堀高
島お久を大関とす、見物山のごとし、此茶屋に休ふ人、茶代三百文位より少はなし、南鐐抔(など)遣す、
美婦は見世に居る計りにて、茶を運ばず、予も見物を押分て、漸(ヨウヤク)におきたを見たり、大がらの美
婦なり〟
◯『わすれのこり』〔続燕石〕②126(四壁菴茂蔦著・安政元年?)
〝浪花屋のおきた
浅草観音随身門の水茶屋の娘なり、容色極て美麗にして、愛敬こぼるゝばかり、茶代の少き客といへど
も、軽々取扱はず、況や多く恵む者に於てをや、其姿を見ずとも、其名をしらざるものなし、一枚絵、
手拭ひ、子供の手遊びにまでつくり出せり、予が若年のころまで存命にて、其家も栄えたり〟
◯「古翁雑話」中村一之(かづゆき) 安政四年記(『江戸文化』第四巻三号 昭和五年(1930)三月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇「高島屋おひさ・難波屋おきた」(24/34コマ)
〝天明より寛政のはじめ 両国広小路の茶店に高島屋のおひさ 浅草随身門の外茶店難波やのおきたとて
名高き茶吸の女あり 尤も嬋娟時唱の婦女なれば その頃の好士悉愛し 一銭一服に千金を費し 万客
喫茶せぬものなくて 一枚絵の釣し売に迄美貌を出す 大谷鬼次か戯場の拍子舞の長唄に 名には高し
まといふ唱句を残せり 彼笠森おせんがはなしに取合せて考べし 此おきたといふは御役者日吉五郎右
衛門が落胤なり 今も随心門外の茶屋に難波やの家名残れり〟