◯『万紫千紅』〔南畝〕(蜀山人詠・文化十五年(1818)正月刊)
◇文化十一年三月頃詠 ①285
〝感応寺 入相のかねこころせよ感応じはなのあたりに富はつくとも〟
◇同年十月詠 ①277
〝巣鴨の菊 感応寺すがもの鐘につきまぜて富の番付菊のばんづけ〟
◯『事々録』〔未刊随筆〕(大御番某記)
◇天保五年(1834)③223
〝谷中感応寺は昔法華宗たりしが、宗派我儘を咎させられ、東叡山に属せられ天台宗と改めしを、今年奥
向にて信心の局悲願ありて、大塚の末なる鼠山安藤対馬守下屋鋪弐万坪余を公命に召させられ、新感応
寺建立の場所と成り、天台宗の感応寺は天王寺と改め今迄の如くに置せられたり〟
◇天保六年(1835)③239
〝雑司谷感応寺の地、安藤の屋鋪切平らげ八月中旬より男女信仰の者、世にいふ千本づきおって日数十日
余り群集なす。公儀よりは拾ヶ国へ御免の勧化を被仰付、有来の御免勧化にあらず、来ル酉年迄寺社奉
行脇坂中務大輔迄さし出べく、池上本門寺ニ被仰付候御建立の趣意也〟
◯『武江年表』2p90(斎藤月岑著・天保六年(1835)記事)
〝九月頃より、鼠山に長曜山感応寺御建立(法花宗)。翌年にいたりて本堂鐘楼総門僧房ことごとく成就
す(巍然たる梵刹なりしが、ほどなく廃せられたり)〟
◯『藤岡屋日記 第二巻』p83(藤岡屋由蔵・天保十年(1839)記)
◇桜植樹
〝三月、鼠山感応寺に桜千本植る也〟