Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ かながき ろぶん 仮名垣 魯文浮世絵事典
 ◯『若樹随筆』林若樹著(明治三十~四十年代にかけての記事)   (『日本書誌学大系』29 影印本 青裳堂書店 昭和五八年刊)   ※(原文に句読点なし、本HPは煩雑を避けるため一字スペースで区切った。【 】は割書き ◎は不明文字     全角カッコ(~)は原本のもの 半角カッコ(~)は本HPが施した補記   (戯作者の晩年)p7    仮名垣魯文の末路も憐れなりき 末年新富町の家は七十円の借財の為めに差押へらるゝ 魯文は病気に    かゝる妻君は道具をうりて 日に五六戔にて暮すといふ境界 弟子達は沢山ありしも 皆寄りつかず     これも予が相談を受けて整理してやりたり 先づ二人の子供を奉公にやることになし それより家を売    りて二百五十円を得 これには七十円の借財は片をつけ 家財を売つて四十六円を得【横浜の道具屋に    バツタにうりたり 是見れば予にてもほしきものある故 思ひきりよきためなり】これにて当座のしの    ぎをつけたり 暫(く)して先生死後葬式の手伝もしたり 多(く)の弟子もありたれど 皆軽薄のものゝ    みにて 能く世話をせしは野崎左文氏のみ 若菜貞爾の如き 先生病気中奉賀帳を十二冊拵へ百廿円を    得しが 一時に渡しては直々遣ひ仕舞ひ給へば 己れ預り置くとの事なりしが 先生没後問合せしに     其内四十何円は先生に用立て 後と金は残れりとの事なりしが 石碑出来の後 後と金を請求せしに     生前貸金ありしといひて遂によこさず 久保田彦作のごとき 三円の香奠包はもてきしが 開きて見れ    ば白紙なり それに先生に貸金あれば差引きとあり 実に呆れたる者のみなりき 魯文翁も生前新聞等    にて 今の二六新報記者が人の内幕をあばく筆法にて 内済金として五十円とれば 弟子に分与すれば    よきに 其侭猫バヾになすといふ風故 我々には恰も石川五右衛門に於ける壬生小猿の如きものなりと    て 憚からざりし弟子さへありたり    かくの如く悪き事にて出世せしは 末路も大抵立行かぬものなり 伊東専三のごとき 一時は新聞主筆    の故を以て 人々伊東の名を聞けばふるへ上る程にて 会をすれば人はよる盛んなるものなりしが 一    度禁止の厄に遇ひてよりは 種々の新聞に◎◎◎も皆倒れ 今にては中山の祈禱坊主になり居れり    万亭応賀も末年は実に憐れなるものにて 根岸の奥に引込み 病気にて枕元には竹皮散乱するという風    にて 僅に幼少なる子供が 玩具のトンボを売りあるきて 露命をつなぎゐたりき〟    〈明治の戯作者のその多くは晩年窮状に陥って他人を顧みる余裕などなかったようである〉  ◯『近世花押譜』(三村竹清著「集古」所収 大正9年~昭和18年)   (出典『三村竹清集一』日本書誌学大系23-(1)・青裳堂・昭和57年刊)   〝仮名垣魯文    野崎兼吉、後庫七、又文蔵と云、文政十二年己丑正月六日京橋鎗屋町にて生る。九歳竹川町の鳥羽やの    丁稚となり、稗史を好み、十五歳花笠魯介門に入り、戯作者となる、初め妻恋に住し、一時横浜に移り    県吏となり、新聞記者となり、再び東京に出で 魯文珍報を出だし いろは新聞を起し、明治二十六年    十月八日新富町の仏骨庵に没す。享年六十六、生前より谷中永久寺に板碑を応用したる墓を建て置かれ    たり。此花押魯の字なるべし〟  ◯『東京掃苔録』(藤波和子著・昭和十五年(1840)四月序 八木書店 昭和48年版)   〝下谷区 永久寺(上三崎南町三三)曹洞宗    仮名垣魯文(戯作者)花笠文京門人、明治初年戯作を以て一世に鳴る。西洋膝栗毛、百猫画譜、また劇    通にて仮名読、いろはの二新聞を創立し、魯文珍放、猫洒落誌等花柳社会を驚かせり。明治二十八年十    月八日没。年六十六。仏骨庵独魯草文居士。辞世 こゝちよく寝たらそのまゝ置炬燵いけし炭団の灰と    なるまで〟