Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ カメラマン(撮影代行)浮世絵事典
 ◯『甲子夜話 三編2』巻十八 p84(松浦静山・天保六年閏七月記)   (松浦静山、絵師を遣わし、赤髪の兄弟、猩寿・猩美の肖像を写さしむ)   〝嚮(サキ)に人を遣はして赤髪童を写させたるとき、返(カヘリ)告るには、我より先に画工国貞〔世に謂ふ浮    世絵かきなり。江都の市中に住す〕来りゐて、かの童の真を写す。これは町奉行なるが、窃(ヒソカ)に命    じて、町年寄の手より肖像を描て呈覧すと。定めし是は輪門水府などの覧(ミ)らるべきに就ての、下地    なるべし。又頃日、坊間にこの童の形を錦絵に搨(スリ)いだせる有り。国貞の画なり。然れば官呈の下絵    を、かゝる開版には為しならん。されぱ後世に伝へて益あるに非ざれども、又かの童の真面目、且赤髪    の状、眉毛も同色なるは、斯図その真を得たるべし。因て前図ありと雛ども、迺(スナハチ)再び次に移謄す〟    〈歌川国貞の写生は町奉行の命によるものとのこと。松浦静山はこれを「輪門水府」がこの兄弟を呼び寄せるための準     備であろうと見ていた。いわゆる下見の代わりである。輪門は輪王寺宮(寛永寺門跡)であろうか。水府は水戸斉昭     を指すのであろう。それにしても町奉行はなぜ国貞に命じたのであろうか。「輪門水府」のような貴人に供する肖像     とあれば、それ相応の本絵師、町絵師の起用があってもよさそうなものである。しかし町奉行はそうしなかった。で     は町奉行は国貞の技倆を高く評価して直々に命じたのであろうか。どうもそんなにことは単純でもなさそうである。     「町年寄の手より」とあるから、その起用に町役人の筆頭である町年寄が関与しているのは間違いない。おそらく国     貞を推薦したのは町年寄なのである。幕臣側からみれば下々のことは下々の手で行わせたのである。この距離感、つ     まり町年寄を通して間接統治するところから生ずる武家と町方の距離感は、平戸藩主・松浦静山の次のようなことば     にも表れている。「世に謂ふ浮世絵かき」。国貞の起用は見世物に等しいこの兄弟に見合ったものと考えるべきなの     かもしれない。無論、浮世絵師の中で、国貞は肖像画の第一人者であるという評価があって、それを認める幕臣たち     もいたに違いないであろうが、町方(浮世)のことは町方(浮世)を題材とする浮世絵師にという思考回路が厳然と     してあっての起用と考えられよう〉  ◯『香亭雅談』下p18(中根淑著・明治十九年刊)   ※半角(カタカナ)(漢字)は本HPが施したもの   〝一日某大族、国芳を携へ江西の川口楼に宴し、水神白髭等の諸勝を図せしむ。国芳先づ小紙を膝上に展    べ、景に対して匇匇鉤摸す、一妓有り、其の画工たるを知らず、傍らより此を調(アザケ)りて曰く、子も    亦た絵事を知るかと、国芳顧て曰く、咄這の豊面老婆、吾れ他日汝が為にその醜を掩はずと、妓未だ喩    (サト)らず、之を婢に問ふ、婢曰く、是れ画人国芳君なりと、妓吃驚して地に伏し謝を致す、闔坐(満座)    姍笑(嘲笑)す〟    〈傭書ならぬ、雇われカメラマンか。遊女を伴い浮世絵師をしたがえ、勝地を写生させるのも一興とする贅沢な宴席で     の挿話である。本文には中根の頭注があり、それによると「豊面」とはお多福の由である。「咄這の豊面」は「ちょ     つ!このお多福め」の意味か〉