Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ かくし つるのや 鶴の屋 鶴子浮世絵事典
 ☆ 嘉永六年(1853)  ◯『大日本近世史料』「市中取締類集」二十一「書物錦絵之部」p129)   (市中で評判になっている国芳画「浮世又平名画奇特」について、老中阿部伊勢守から、怪しげな噂が流    布している由の指摘があったので、町奉行・井戸対馬守は隠密同心使って調べさせた、その報告書に鶴    の屋鶴子も明葉屋左七の名で出ている)   〝新和泉町画師(歌川)国芳行状等風聞承探候義申上候書付 隠密廻     神田佐久間町壱丁目 喜三郎店  明葉屋 左七 此ものは狂歌を好、狂名は梅の家と申候由    右佐七は、茶番或は祭礼踊練物類之趣向功者之由、同人は国芳え別懇ニいたし候間、同人義板元より注    文受候絵類、図取を佐七え相談いたし候間、浮世絵好候ものは、図取之摸様にて推考之浮評を生し候由    (中略)    佐七義、当六月廿四日、下柳原同朋町続新地家主、料理茶屋河内屋半三郎方借受、雅友共書画会催候節、    国芳義同所へ参り、畳三十畳敷程之紙中え、水滸伝之人物壱人みご筆ニて大図ニ認、隈取ニ至り手拭え    墨を浸シ隈取いたし候得共、紙中場広にて手間取候迚、着用之単物を脱墨を浸、裸ニて紙中之隈取いた    し候間、座輿ニも相成、職人之内にては、下俗之通言きおひもの杯と申唱候由〟    〈浮評が生ずるような図様を考案したのは梅の屋だとする隠密の報告である。また六月二十四日の鶴子の書画会につい     ては下掲のような記事も残っているくらいだから大受けだったようだ〉  ◯『増訂武江年表』2p135(斎藤月岑著・明治十一年稿成る)   (「嘉永六年」記事)   〝六月二十四日、柳橋の西なる拍戸(リヨウリヤのルビ)河内半次郎が楼上にて、狂歌師梅の屋秣翁が催しける書    画会の席にて、浮世絵師歌川国芳酒興に乗じ、三十畳程の渋紙へ、「水滸伝」の豪傑九紋龍史進憤怒の    像を画く。衣類を脱ぎ、絵の具にひたして着色を施せり。其の闊達磊落を思ふべし〟    〈国芳たちは脱いだ単衣に墨を浸して、裸のまま色塗りしたという実に騒々しいパフォーマンスであった〉  ◯『集古会誌』(辛亥巻五 大正二年四月刊)「会員談叢 竹内久一氏談」   〝其頃狂歌師で梅の屋鶴子(かくし)といふ人があつたが これは長谷川町の待合茶屋の主人で 此人が    国芳の為めには顧問になつて尽力したので 絵の方も又種々(注)の計画も 凡て此人の采配になつたの    だ だから此梅の屋の文台披露を万八楼で開いた時は 国芳も一肌ぬいで 弟子と揃の縮緬の浴衣で押    し出したといふ話サ    〈(注)『若樹随筆』には単に「種」とあったので、今までこれを「種本」の「種」と理解していた。それが「種々」だとすると     強いて「種本」と解する必要はない。ただ、鶴子が国芳に図案等のアイディアを提供していたという意味にかわりはな     い。つまり梅の屋は芳年の懐刀なのである。なおこの文台披露宴は万八楼での催しであるから、上掲嘉永6年河内屋の     書画会とはまた別ものなのであろう〉  ◯「側面から観た浮世絵三名人-一勇斎国芳」樋口二葉著(『錦絵』第七号 大正六年十月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)((かな)は原文のルビ。(カナ)は本HPのルビ)   〝(一勇斎国芳 前略)     国芳はチヤキ/\の江戸子肌であつた、肌合であつた、最一ッ砕ひて云ば職人風であつた、宵越の銭    は持ぬといふサツパリした風で、画料などを取ると直ぐパツパと使つて、跡で米塩の料にも困るやうな    事が往々あつた。であるから礼儀礼譲と云ふやうな事は無論好まない、随つて其品行の如きも豊国(か    めいど)とは正反対で言語動作ともに卑しい、常に鳶の者等と交際をして、頗ぶる火事好であつたので、    ヂヤン/\と半鐘の音を聞くと、どんな真夜中でも飛起き、道の遠い近いの別なく馳せ行き、消防の助    けをして危きを顧みない、成る事ならば纏を振て威勢よく、一度は黒煙渦(うづま)き掛る屋上に立つて    見たいと云つてゐたそうだ、以て其性行の一斑は窺はれるぢや無いか。     左様(さう)した風ではあつたが、狂歌師の梅の屋鶴寿と心易くなつて深く交はり、又儒者東条琴台と    も意気投合して親交した。琴台は俗称文左衛門、名は信耕、字は子蔵、呑海翁と号し下谷三味線堀に住    居(すま)つた人、梅の屋は室田又兵衛と云ひ、秣翁(まぐさをう)とも号し、佐久間町に住み秣商であつ    たが、この人と心易くなつたは国芳が向島に居る頃で 当時未だ国貞と肩を並べるの地位に至らず、板    画の下絵を頼みに来る者もなく、偶々思ひ付た三枚続の絵などを描き地本問屋へ売込みに行けど、思ふ    やうに出版を快諾し呉れず、或時馬喰町の問屋へ三枚続一番を携へて行きしも 種々の文句を聞かされ    再び之れを懐中にし怏々(すごすご)として両国橋へ掛り、欄干に何心なく観下(みおろ)せば 一隻の遊    山船より 芳さん/\と呼ぶは知り合いの芸妓である、客は何者と熟視(よくみ)ると兄弟子の国貞であ    つたから、憤慨して懐中の絵を掴み出しズタ/\に引裂いたと云ふも此頃で、国芳が最も窮境にあつた    時分だ。さうして熱心に修行し疲れると、田園を彷徨(うろ/\)して数十匹の蛙を捕へ来て庭前に放ち、    其滑稽な姿を眺めガア/\と鳴く声をきゝて楽んで居る処へ 一日梅の屋が来て其描く絵の筆力非凡な    るを見て歎称し、之れより国芳の為に諸肌脱いで力を添へ、江戸向へ出づるを得たも其助力であつたが、    爾来(じらい)数十年間 衣服庖厨は梅の屋の好意で支へて居たと云ふ事である。    (中略)     彼の梅の屋が書画会を柳橋の河内屋で催した時、畳三十畳敷の大紙へ水滸伝中の九紋龍史進を描いて、    一座を驚かした折にも、門人等と大絞りの揃ひに浴衣を来て、最後の史進の踏まえる巌石を描くに当り、    自分の着てゐる浴衣を脱ぎ墨汁に浸して描くなどの奇抜を遣つた。此会は嘉永六年六月廿八日(注2)だ    から 国芳が五十七歳の時で、猶この行為を遣つて居るを見ても元気思ふべしである〟    (注2)『武江年表』嘉永六年記事「六月二十四日、柳橋の西なる拍戸(リヨウリヤのルビ)河内半次郎が楼上にて、狂歌師梅        の屋秣翁が催しける書画会の席にて、浮世絵師歌川国芳酒興に乗じ、三十畳程の渋紙へ、「水滸伝」の豪傑九        紋龍史進憤怒の像を画く。衣類を脱ぎ、絵の具にひたして着色を施せり。其の闊達磊落を思ふべし」  ◯「夷曲同好続編筆者小伝」三村竹清著 (昭和六年九月稿)   (『近世文雅伝』p456 『三村竹清集六』日本書誌学大系23-(6)・青裳堂・昭和59年刊)    梅屋鶴子 室田亦兵衛、一号鶴芝、神田元岩井町住、為本町判者、後号鶴寿秣翁、慶応元年正月十二日         没、享年六十五、葬駒込大円寺