◯『浮世絵』第十七号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)十月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇「試筆」
〝来正月十五日 吉例の如く画初仕候 当年は中橋下槙町 本屋忠右衛門方において相催候 不相替御賑
々しく御光駕被下たく 偏に奉希候欽白 歌川豊国
来二月二十三日 吉例の如く画初仕度 手狭には候得共 銀町三丁目私宅において相催候 不相替御賑
々しく御光駕被下たく 偏に奉希候欽白 歌川豊国
〔書画会披露摺物〕〟
〈この豊国は初代。上は正月の書き初め案内、下は二月の書画会案内。板元や戯作者などに向けて配られたのであろう
か〉
◯『鏑木清方随筆集』「かきぞめ」p19(鏑木清方著・昭和二十七年一月記)
〝私の師匠年方先生のところでは毎年七草が書初になっていたが、唐紙全紙の真中に師匠が先ず大きな筆
に墨を一杯含ませて玉(注、宝珠の玉)の中心から筆を下して、右へ大きく一回転して筆の尖(サキ)が中
心に還(カエ)ると、再び右に小さい円をひとまわり、かすれた筆端をやや斜に、筆の腹に含んだ水分をそ
のまま雲煙と散じて筆を抜く、元より一気呵成で何の補足もするのではない。それを見よう見真似に弟
子たちの大珠小珠がころころと師匠の珠の周囲をめぐる。私が弟子を持つようになってまたそれと同じ
ことが繰り返されて来た。
江戸時分狩野三家の書初などというのは大層格式のある行事であったらしいが、天明とか、文化、文政
とか江戸の文化花やかだった時には、京都で応挙、呉春、江戸の文晁や抱一のような、市井でも大名を
馳せていた流行作家のかきぞめは、恐らくその時代の好尚を代表するような、派手で鷹揚な、生野暮(キ
ヤボ)うす鈍(ドン)の寄り付き難い席であったろうと想像に難くない。
明治にはまだそういう風が多分に残っていて、寺崎広業先生の天籟画塾の新年会などは、見ぬ世の文晁
が写山楼のそれを凌ぐものだろうといわれたし、また大正へかけても京都、東京とも、門人の多い塾で
は芝居だの歌三味線の芸づくし、一時はそれが競争のような形を呈して、各々差し合わぬようにとか、
たいてい日が毎年極(キ)まっていて、その席へ出る定連の客は松の内から月末までまんべんなくまわっ
て正月は暮れるということであった〟