Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ かございく 籠細工浮世絵事典
 ☆ 文政二年(1819)    ◯『紅梅集』〔南畝〕②373~375(蜀山人(大田南畝)・文政二年(1819)七月~八月詠)   〝浅草寺に籠細工のみせものあり。浪花より来るといふ      観音のかごめ/\のかございく朝もつる/\はいる見物〟   〝浅草の籠細工のみせものにぎはしときゝて      灯籠も俄をもみん浅草の籠の細工を籠ぬけにして    〔欄外。屋代弘賢 鳥けもの竹にてくみし花がたみめならふ人のほめざるはなし〕〟   〝此ほど浅草にて浪華のたくみがつくれる籠細工のみせもの大に利を得るときゝて、江戸のまけじだまし    ゐに、大きなる酒顛童子の形を籠につくり両国ばしのこなたにてみするととて、江戸の花といへる挑灯    など出しときゝて      大江山酒てん童子を大江戸のの花と名づけし事はなにはづ       なには津のあしかるべきを江戸のはな高しときくは木戸の札銭〟    〝籠細工      聞道浪華篭細工 開場浅草本堂東 鳳凰孔雀麒麟出 牛馬山家猪鹿同       関羽周倉横偃月 豊干猛虎嘯長風 直過矢大臣門前 不拝観音多素通〟    〈この籠細工は大坂より下った一田正太郎の見世物、浅草奥山にて興行。また両国に出た酒呑童子の籠細工は江戸亀沢     町の笊細工師の細工の由。下記『武江年表』参照〉    ◯『増訂武江年表』2p62(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (文政二年・1819)   〝此の秋、浪花より下りし一田正太郎といふ者、籠にて人物鳥獣草花の類を作りしを、浅草奥山にて見せ    物とす。遠近の見物夥し。狂歌       観音の加護にてはやるかご細工皆人ごとにほめざるはなし     筠庭云ふ、文政二年の春、難波天王寺に、九丈六尺の釈尊涅槃像を竹籠にて作れるが、殊の外はやり     て、其の秋細工人江戸に来り、大なる関羽の坐像、并びに其の外のさま/\小さきものども作りて、     浅草寺の境内に見せものとす。思ふに先の細工の取りくづしたる竹を用ひしなるべし。此の見せもの     終りて、江戸の細工人どもさま/\大造(オオヅクリ)なるものをみせたり。此の翌年頃、彼の大坂籠細工、     上野山下にも作りもの出したれども、これは最早見物評判なし。     是より遙かに後、天保七年回向院に嵯峨釈迦開帳に、亀井町籠細工師みせ物を出す。看板はしころ引     の朝比奈と時致なり。其の細工もとの細工にくらべては抜群にすぐれたり。それよりまた一両年すぎ     て、浅草奥山に同じ細工人の作、其のみせ物の看板は山姥と金太郎なり。是れもいと花やかにて、細     工は前々と同じく、顔手足籠目あざやかに透け、指など細かなる所いと能く作れり。此の細工の彩色     は、橋本町の水油屋庄兵衛が忰幼名吉之助といひしが、成長して画師等琳が弟子となりたれども、画     は又一風なり。北斎が女を妻としたりしが離別したり。其の故は北斎が女絵をよくかき、芥子(ケシ)人     形など作るに巧みなり。されど吉之助がを手伝はせず、其の外にはこの女針わざ縫物などはよくせず、     かれこれ心にかなはずして別れたりとぞ。右かご細工はこれが彩色なり。下絵も同じ〟        〝また両国橋西詰に、籠細工にて大なる酒顛童子(シユテンドウジ)の形を作り見せ物とす(江戸亀井町笊かご    師の細工なり。始め天竺の僧うたゝね枕と題して、涅槃の釈迦如来を作りしが、嵯峨釈迦開帳の折なれ    ばとて、酒てん童子に改めし也)。向ふ両国にてもギヤマンの燈籠并びに蘭船の造り物抔も見せたり。    是よりこの方大造の見せ物出る〟    ☆ 文政三年(1820)    ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑦95(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝文政三年、両国の見世物に、籠に編たる大造成細工もの出けり、是又初て故繁昌せり、二月中大坂於天王    寺見せける、細工人大坂住居一田正七(ママ)郎と申男の工風なり、於両国見せたる大江山酒呑童子、肘枕を    したる形ち、寐姿長二丈、皆籠にて面部総体あみたる物、是も能き細工、其後浅草観音境内え、同細工に    て維摩井羅漢等を造り、童子虎に至迄皆籠目あみ作り物、最初両国にて始て出たる時は評判せしが、二度    目なれば、能出来たれどさまで評するものなし、予生れて七十二歳迄、さま/\の見せもの有れど、とん    だ霊宝の造もの、此節の籠目細工など、綺麗にて珍敷細工ものなり、其後ギヤマンなど船出来たれども、    出来勝手の物なり〟    ☆ 文政五年(1822)    ◯『甲子夜話1』巻之十四 p237(松浦静山著・文政五年(1822)記)   〝此四五年前ばかり、大阪より下りたる籠細工の名人と呼るゝもの、様々の物を目籠に組立、其大なるは    丈を超るに至る。浅草、両国橋辺等の観物場に羅列して殊の外流行り、貴賤老弱この籠細工の見せ物を    見ざるもの無し。近頃かく迄流行りたるを見せ物と無しと云ことなりき。其とき近藤正斎が云しは、籠    細工は流行る筈なり。外を取繕(ツクロヒ)たる計にて、内は空虚何も無し。今の世の人才皆この籠細工なり    と。是又知言なり〟    〈当時の人材を籠細工に喩えた、近藤正斎(重蔵)の警句に、松浦静山も我が意を得たりと思ったのだ。何やら「江戸     っ子は皐月の鯉の吹き流し」(口先ばかりではらわたはなし)に似た譬喩である〉    ◯『藤岡屋日記 第一巻』p304(藤岡屋由蔵・文政五年(1822)記)   〝文政五午年七月廿九日より山下にて、大坂下りかご細工一世一代、細工人一田正太郎    泰平富士野牧狩之籠細工    (中略)    建久の頃、勇猛の人物、或は禽獣草木の類迄残らず透抜きに致し御覧に入れ候     頼朝公七尺・仁田四郎一丈八尺・五郎丸七尺五寸・騎馬武者三十一人七尺宛・鎧武者六十人六尺宛     雑兵千三百人五尺宛・馬三十一疋八尺五寸宛・猪しゝ大壱疋二丈八尺・同小三十一疋八尺五寸ヅヽ・     犬五疋四尺ヅヽ・熊三十五疋五尺ヅヽ・猿百疋三尺・きつね二十五疋三尺ヅヽ・草木しな/\・     川津股野一丈三尺・玉もの前七尺五寸・玄翁和尚七尺・五郎八尺・朝比奈七尺五寸・定盤御七尺五     寸【頼朝三尺五寸牛若三尺】・十郎八尺・とら七尺・海老四丈五尺・ふぐ七尺、ねぎ一丈・越後じし     七尺・生花十二席・鳥類品々〟    ☆ 文政九年(1826)    ◯『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥121(喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事)   (文政九年・1826)   〝相州箱根荒人神、回向院にて開帳、此時にや、籠細工見せ物境内に出、中は富士の牧狩、看板は時宗朝    比奈草摺引にて有しが、殊の外見事にて、是迄一田正七以来籠細工多かりしが、この様なるは初てなり、    さまで大きからぬ人形、顔手足みな籠にて形よく作りたり、是は岩井町の笊造りの作にて、彩色は橋本    町の油屋庄兵衛が二男吉之助なり【此者一度堤等琳が養子となりしとか】、此後祭礼の引物を造り、又    浅草寺奥山に見せ物出し、看板に金時山姥を作れり、是は今様に出来て一入よく、長き間見せたりき〟    ☆ 天保七年(1836)    ◯『藤岡屋日記 第一巻』p590(藤岡屋由蔵・天保七年(1836)記)     ◇回向院の開帳   〝六月十五日より六十日之間、嵯峨清涼寺釈迦如来、回向院にて開帳。    大当たり、いろ/\の見せ物出来る也。    〈八月十六日より九月十六日まで三十日の日延べ、都合九十日の開帳〉    籠細工富士の牧狩、表看板曽我五郎・朝比奈草摺引、格好よく出来候、亀井町長種次郎作、代三十二文、    笑ひ布袋見せもの廿四文也、虎狩の見せ物廿四文。    江の島宮島長崎の女郎屋の見世物、看板遊君の人形・禿人形・ギヤマン家仕立、代三十一文、東海道伊    賀越敵討大仕掛見世物看板、京都清水人形立、代三十二文、三千世界一水大仕懸看板、龍宮女人形五ッ、    代三十二文、此外数多見世物有之、参詣群集致し、朝参り夜七ッ時より出るなり〟    ◯『増訂武江年表』2p63(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「文政二年」記事に天保七年の駕籠細工記事あり)   〝〈喜多村筠庭の補注〉是より遙かに後、天保七年回向院に嵯峨釈迦開帳に、亀井町籠細工師みせ物を出    す。看板はしころ引の朝比奈と時致なり。其の細工もとの細工にくらべては抜群にすぐれたり。それよ    りまた一両年すぎて、浅草奥山に同じ細工人の作、其のみせ物の看板は山姥と金太郎なり。是れもいと    花やかにて、細工は前々と同じく、顔手足籠目あざやかに透け、指など細かなる所いと能く作れり。此    の細工の彩色は、橋本町の水油屋庄兵衛が忰幼名吉之助といひしが、成長して画師等琳が弟子となりた    れども、画は又一風なり。北斎が女を妻としたりしが離別したり。其の故は北斎が女絵をよくかき、芥    子(ケシ)人形など作るに巧みなり。されど吉之助がを手伝はせず、其の外にはこの女針わざ縫物などはよ    くせず、かれこれ心にかなはずして別れたりとぞ。右かご細工はこれが彩色なり。下絵も同じ〟