☆ 文政二年(1819)
◯『増訂武江年表』2p62(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(文政二年・1819)
〝此の秋、浪花より下りし一田正太郎といふ者、籠にて人物鳥獣草花の類を作りしを、浅草奥山にて見せ
物とす。遠近の見物夥し。狂歌
観音の加護にてはやるかご細工皆人ごとにほめざるはなし
筠庭云ふ、文政二年の春、難波天王寺に、九丈六尺の釈尊涅槃像を竹籠にて作れるが、殊の外はやり
て、其の秋細工人江戸に来り、大なる関羽の坐像、并びに其の外のさま/\小さきものども作りて、
浅草寺の境内に見せものとす。思ふに先の細工の取りくづしたる竹を用ひしなるべし。此の見せもの
終りて、江戸の細工人どもさま/\大造(オオヅクリ)なるものをみせたり。此の翌年頃、彼の大坂籠細工、
上野山下にも作りもの出したれども、これは最早見物評判なし〟
☆ 文政三年(1820)
◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑦95(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)
〝文政三年、両国の見世物に、籠に編たる大造成細工もの出けり、是又初て故繁昌せり、二月中大坂於天王
寺見せける、細工人大坂住居一田正七(ママ)郎と申男の工風なり、於両国見せたる大江山酒呑童子、肘枕を
したる形ち、寐姿長二丈、皆籠にて面部総体あみたる物、是も能き細工、其後浅草観音境内え、同細工に
て維摩井羅漢等を造り、童子虎に至迄皆籠目あみ作り物、最初両国にて始て出たる時は評判せしが、二度
目なれば、能出来たれどさまで評するものなし、予生れて七十二歳迄、さま/\の見せもの有れど、とん
だ霊宝の造もの、此節の籠目細工など、綺麗にて珍敷細工ものなり、其後ギヤマンなど船出来たれども、
出来勝手の物なり〟
☆ 文政五年(1822)
◯『摂陽奇観』巻四十八・浜松歌国著・文政五年記事
(国立国会図書館デジタルコレクション『浪速叢書』第六より)
〝三月 天王寺西門にて籠細工三度目
漢倭強勇士籠編 細工人 一田友七郎 後見 一田正七(ママ)郎〟
◯『藤岡屋日記 第一巻』p304(藤岡屋由蔵・文政五年(1822)記)
〝文政五午年七月廿九日より山下にて、大坂下りかご細工一世一代、細工人一田正太郎
泰平富士野牧狩之籠細工
(中略)
建久の頃、勇猛の人物、或は禽獣草木の類迄残らず透抜きに致し御覧に入れ候
頼朝公七尺・仁田四郎一丈八尺・五郎丸七尺五寸・騎馬武者三十一人七尺宛・鎧武者六十人六尺宛
雑兵千三百人五尺宛・馬三十一疋八尺五寸宛・猪しゝ大壱疋二丈八尺・同小三十一疋八尺五寸ヅヽ・
犬五疋四尺ヅヽ・熊三十五疋五尺ヅヽ・猿百疋三尺・きつね二十五疋三尺ヅヽ・草木しな/\・
川津股野一丈三尺・玉もの前七尺五寸・玄翁和尚七尺・五郎八尺・朝比奈七尺五寸・定盤御七尺五
寸【頼朝三尺五寸牛若三尺】・十郎八尺・とら七尺・海老四丈五尺・ふぐ七尺、ねぎ一丈・越後じし
七尺・生花十二席・鳥類品々〟
◯『摂陽奇観』巻四十八・浜松歌国著・文政五年記事
(国立国会図書館デジタルコレクション『浪速叢書』第六より)
〝九月廿三日 大和はし 籠細工名人 一田庄七郎(ママ)死〟