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◯『増訂武江年表』1p143(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(元文年間(1736~1740)記事)
〝石畳の染模様はやる。市松形といふ。歌舞伎役者佐野川市松好みて着したるより名あり〟
◯『街談文々集要』p410(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)
(文化十二年(1815)記事「市松染起原」)
〝『筠庭雑考』巻五、喜多村翁随筆 市松染 紅絵漆絵
延享元年、本町二丁目ニ、寿字越後屋と云呉服店出きぬ、是が安売の引札せし事あり、中略 或老人の
の説ニ、元文頃、あふぎや染などゝひとしく、市松染もはやれりといひしハ、いかゞあるべき、奥村丹
鳥斎が一枚絵に、佐野川市松が呉服物売に出立たる図あり、則寿の字越後屋が小者の体なり【次ニ縮図
あり】石畳【古名霰なり】是を市松ととなへしハ、此時初としらる、又江戸絵錦絵とて、美麗の彩色を
出来はじめハ、この紅絵なり【下略】
按ニ、寿の字越後屋、直安の引札を、町々へ配り、猶また当時若衆方のきゝもの佐の川市松、石畳の
模様を着せ、舞台にて市松模様披露し、錦絵ニまでものして弘メしハ、多く鬻の計策なるべし【今も
まゝあり】
(中略)
『役者年越草』宝暦十一巳年評判記ニ云、
(中略)
御ぞんじの寿越後屋市松染の儀、霜月顔見せより改売ひろめ申候、わけて御ひゐきに思召、御評判遊
シ、忝奉存候、市松染紅摺正名奥村文角政信御召可被下候。
(奥村政信画、佐野川市松の呉服物売りの図、賛と落款)
(賛) 顔見せや札で入こむ呉服店
(落款)正名芳月堂 奥村文角政信正筆 〔瓢簞に丹鳥斎の印〕〟
〈『筠庭雑考』の云う「紅絵」とは現在云うところの「紅摺絵」のこと。越後屋が佐野川市松を起用して市松染の呉服
を弘めたのは、筠庭の考証によると、延享元年(1744)。そして同時に、これを「紅絵」の一枚絵にして、宣伝に一役
買ったのが奥村政信ということのようだ。なおこの『筠庭雑考』の巻五「市松染 紅絵漆絵」は「日本随筆大成」第
二期八巻所収の『筠庭雑考』には見えない〉