☆ 弘化元年(天保十五年・1844)
◯『藤岡屋日記 第二巻』p413(天保十五年正月十日)
〝同(正月)十日
源頼光土蜘蛛の画之事
最早(ママ)去卯ノ八月、堀江町伊場屋板元にて、哥川国芳の画、蜘蛛の巣の中に薄墨ニて百鬼夜行を書
たり、是ハはんじ物にて、其節御仕置に相なりし、南蔵院・堂前の店頭・堺町名主・中山知泉院・隠売
女・女浄るり、女髪ゆいなどの化ものなり、その評判になり、頼光は親玉、四天王は御役人なりとの、
江戸中大評判故ニ、板元よりくばり絵を取もどし、板木もけずりし故ニ、此度は板元・画師共ニさわり
なし。
又々同年の冬に至りて、堀江町新道、板摺の久太郎、右土蜘蛛の画を小形ニ致し、貞秀の画ニて、絵
双紙懸りの名主の改割印を取、出板し、外ニ隠して化物の所を以前の如ニ板木をこしらえ、絵双紙屋見
せ売には化物のなき所をつるし置、三枚続き三十六文に商内、御化の入しハ隠置て、尋来ル者へ三枚続
百文宛ニ売たり。是も又評判になりて、板元久太郎召捕になるなり。
廿日手鎖、家主預ケ、落着ハ
板元過料、三貫文也
画師貞秀(過脱)料 右同断也
其後又々小形十二板の四ッ切の大小に致し、芳虎の画ニて、たとふ入ニ致し、外ニ替絵にて頼光土蜘
蛛のわらいを添て、壱組ニて三匁宛ニ売出せし也。
板元松平阿波守家中 板摺内職にて、
高橋喜三郎
右之品引請、卸売致し候絵双紙屋、せりの問屋、
呉服町 直吉
右直吉方よりせりニ出候売手三人、右品を小売致候南伝馬町二丁目、
絵双紙問屋 辻屋安兵衛 〟
今十日夜、右之者共召捕、小売の者、八ヶ月手鎖、五十日の咎、手鎖にて十月十日に十ヶ月目にて落
着也。
絵双紙や辻屋安兵衛外売手三人也。板元高橋喜三郎、阿波屋敷門前払、卸売直吉は召捕候節、土蔵之内
にめくり札五十両分計、京都より仕入有之、右に付、江戸御構也。画師芳虎は三貫文之過料也〟
〈国芳画「源頼光館土蜘作妖怪図」は天保十四年(1843)八月の刊。これはその判ずる内容が幕政を諷したものではない
かと評判をよんだが、お上を警戒した板元伊場屋が絵を回収し板木を削るという挙に出たため、お咎めはなかった。
次ぎに、貞秀の画く「土蜘蛛妖怪図」が同年冬(十月以降)に出回った。これは店先にはお化けのない絵をつるし、
内々にはお化けの入ったものを売るという方法をとった。が、やはりこれも噂が立ち、今度は板摺で板元を兼ねた久
太郎と絵師の貞秀が三貫文の過料に処せられた。そして、天保十四年の暮れか翌十五年の正月早々に、芳虎の「頼光
土蜘蛛のわらいを添」えた画が「たとう(畳紙)」入りの組み物として売り出された。今回は、板摺兼板元の高橋喜
三郎以下、卸問屋・小売り・絵師芳虎ともども、咎を免れえなかった。ところで、貞秀画の板元も芳虎の板元もそれ
ぞれ「板摺」となっている、板摺とは摺師をいうのであろうから、国芳画の板元・伊場屋とは違い、板元は一時的な
ものであろう。高橋喜三郎の場合は松平阿波守家中のものとある。内職にこのような危ない出版も請け負ったものと
見える。あるいは改めを通さない私家版制作に深く関わっていたのであろう。ところで、この年の十月十日記事に
〝南伝馬町二丁目辻屋安兵衛、笑ひ本一件にて正月十二日より戸〆の処、今日御免也〟(p449「戸〆」は押し込
め=外出禁止)とある。この辻屋安兵衛は芳虎の土蜘蛛画で小売りを行い、手鎖に処せられた絵双紙問屋である。で
は「笑ひ本一件」とは何であろうか。正月十二日より「戸〆」になり十月十日「御免」になった。「手鎖」は「十月
十日に十ヶ月にて落着」とある。「戸〆」も「手鎖」も外出禁止であるから、この二つの記事は同じ事件の処罰であ
ろう。そうすると「たとふ入ニ致し、外に替絵にて頼光土蜘蛛のわらひを添て」の「わらひを添て」とは「笑ひ本
(春本)」化したということなのだろうか。「板摺」の中にはこうした内職も含まれていたのであろう〉
☆ 嘉永六年(1853)
◯『藤岡屋日記 第五巻』p237(藤岡屋由蔵・嘉永六年(1853)記)
◇三人賊の錦絵
〝二月廿五日
昼過より南風出、曇り、大南風ニ成、夜ニ入益々大風烈、四ッ時拍子木廻候也
浅草地内雷神門内左り角
錦絵板元 とんだりや羽根助
今日売出しにて、鬼神お松、石川五右衛門・児来也、三人の賊を画、三幅対と題号し、三板(枚)続ニ
て金入ニ致し、代料壱匁五分ヅゝにて四匁五分ニて売出し候処、大評判にて、懸り名主福島三郎右衛門
より察斗ニ而、廿八日ニ板木取上ゲ也。
三賊で唯取様に思ひしが
飛んだりやでも羽根がもげ助
右羽根助ハ板摺の職人ニ而、名前計出し、実の板元は三軒有之。
浅草並木町
湊屋小兵衛
長谷川町新道
住吉屋政五郎
日本橋品川町
魚屋金治郎
右三人、三月廿日手鎖也〟
〈嘉永五年十一月「【見立】三幅対」三代目歌川豊国画・彫竹・摺松宗、「雪・石川五右衛門・市川小団次」「月・児
来也・市川団十郎」「花・鬼神於松・板東しうか」が出版されている。板木を没収されたこの「三幅対」は、改めを
経ない非合法出版をも請け負うと言われる板摺(摺師)とんだりや羽根助が名目上の板元になって、江戸では禁じら
れていた金摺りの豪華版を作り、小売り値四匁五分(当時の銭相場がどれくらいか分からないが、今機械的に1両=
60匁=4000文で、計算してみると、三百文になる)で売り出した。天保十三年十一月の御触書では「彩色七八扁摺限
り、値段一枚十六文以上之品無用」とあるから、この三枚続き三百文(一枚百文)は飛び抜けて高価である。ところ
が評判を得て売れた。すると早速、改めの懸かり名主がそれを咎め(察斗)て板木を取り上げてしまった。さらに、
板摺・とんだりや羽根助なるものの陰に隠れていた実の板元の名が割れて、湊屋小兵衛・住吉屋政五郎・魚屋金治郎
が手鎖に処せられた。当時の江戸の板元は、利益率も高いが検挙されるリスクも高い商品の場合、密かに板摺に資金
を提供して、板元の役割をさせたのではないか。ところで、どれほど売れたのであろうか。二十五日売り出し、二十
八日の板木没収まで実質三日の販売。参考までにみると、この年の国芳画「浮世又平名画奇特」は「七月十八日配り
候所、種々の評判ニ相成売れ出し、八月朔日頃より大売れニて、毎日千六百枚宛摺出し、益々大売なれば」とある。
この「三幅対」も同様に千六百枚とすると、一日だけで銭十六万文、これを金換算すると、実に四十両である。二日
で八十両にもなる。板木を取り上げられるまで、どれだけ売り抜けられるかそれに勝負をかけているのだろう〉
〈ネット上の「江戸時代貨幣年表」によると、嘉永五年の銀・銭相場は1両=64匁=6264文とのこと。すると小売値の
四匁五分は440文に相当する。一枚あたり146文になる。1600枚では233600文=37両となる。2010/3/16追記〉