Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ いせせんぐう 伊勢遷宮(式年遷宮)浮世絵事典
 ☆ 文政十二年(1829)    ◯『藤岡屋日記 第一巻』p413(藤岡屋由蔵記)   (文政十二年・1829」)   〝当年九月伊勢両宮御遷宮 、日本橋ぇ建る也〟     ☆ 嘉永二年(1849)<五月>     ◎参考資料「伊勢遷宮図」 国芳画・玉蘭斎(五雲亭)貞秀画   〈藤岡屋慶次郎板と川口屋宇兵衛板の「伊勢遷宮之図」について、伊勢の山田奉行から売買禁止するよう要請があった。    これに対して江戸町奉行は、本図は祭礼行列図と同じであり、神社仏閣等の図は禁止されていないので問題なしとした〉     ◯『嘉永撰要類集』(『未刊史料による日本出版文化』第三巻「史料編」p411)   (町年寄・館市右衛門の「伊勢遷宮図」に関する調書)   〝江戸通油町藤岡慶次郎、坂本町川口と申家ニて、両宮遷幸之図書顕し候別紙錦紙売出し候ニ付、両長官    宇治年寄山田三方共申立候間、御糺之上相違無之候ハゝ、御差留有之候様致度旨、長官其外より差出候    錦絵弐通り、此余ニも有之趣、書面写相添、尤是迄右体之儀有之節は、其筋へ掛合之上、差留ニ相成候    儀ニ有之候段、山田奉行衆より御掛合ニ付、取調可申上旨被仰渡候、此儀絵双紙掛り名主共相調候処、    去申十一月以来伊勢御遷宮之図、別紙抜渡之錦絵通油町絵双紙屋藤岡屋慶次郎、坂本町川口屋宇兵衛よ    り下絵差出候処、祭礼行列ニ等敷(ヒトシキ)彩色六編、ヌは八編擢ニて禁忌等相見不申候間、其節之月番掛    り名主改印仕売出し申候、乍去右は其筋差障之儀有之候ハゝ、御下知次第之儀、且右絵弐通り其外売出    し候右之慶次郎板元、たて図三枚継伊勢名所図絵、同断馬喰町弐町目森屋次郎兵衛板元御遷宮三枚継、    中橋広小路町山田屋庄兵衛、同六ッ切式(ママ)枚継横絵共入御覧候旨申之候    右取調候処、書面之通、掛り名主共申之、尚右絵一覧仕侯処、神事之儀名主共其改方不念等も無之奉存    候え共、其筋より相願、且山田奉行衆御書面之内、是迄右体之儀有之節は其筋え掛合之上差留ニ相成候    儀ニ有之段、被仰越候上は、長官等申立斗ニも無之、右遷宮図売買御差留可被仰付方ニ可有御座哉(下    略)〟    〈板元・藤岡屋慶次郎、川口屋宇兵衛の「伊勢遷宮之図」は、前年の嘉永元年十一月、絵双紙掛り名主の改(アラタメ)(検     閲)を通って売買されていた。ところが、この五月、伊勢の山田奉行・河野対馬守から江戸の町奉行・遠山左衞門尉、     牧野駿河守宛に、この「伊勢遷宮之図」の売買を禁止するよう要請があった。これは伊勢の内外両宮長官および宇治     年寄・山田三方の訴えを受けてのものである。この遷宮図では〝子供弄様之品え両宮之御儀書顕候様ニては神慮無勿     体奉恐入候儀ニ御座候間〟つまり子供のおもちゃのような画き方であり、これではもったいなくも恐れ多いと、彼ら     は訴えていたのである。遠山は早速町年寄・館市右衛門に調査を命じた。上記の調書で、館は名主の改め方に問題は     ないとした上で、山田奉行が言うように掛け合い(談判)によって禁止した例があるというのであれば、売買禁止に     すべきかと上申した。これを受けて遠山・牧野の両町奉行が山田奉行・河野対馬守に示した回答は次の通り。日付は     六月九日である〉      〝(上略)絵草紙掛名主共並町年寄等相糺候処、前書藤岡屋慶次郎、川口屋兵衛等より兼て下紙(ママ絵?)    差出侯節、見改候処、素祭礼行列之図ニ等敷、且前々より神社仏閣等之図書顕候儀有之、禁忌之廉(カド)    見不申候ニ付、売弘させ候儀ニて、既文政十三寅年中馬喰町弐町目山口屋藤兵衛外壱人方ニて、遷幸之    図売買致候儀も有之候由、絵草紙屋共申之侯旨をも申立侯え共、御掛合之趣も有之候間、差止可申付之    処、右体先年も売買致候儀之旨等申立候上は、此儘差留候ハゝ、一事両様ニ相心得可申、然ル処、是迄    其筋え掛合之上、差留相成候儀有之候由ニ付、先役共え之御掛合等も可有之哉と取調侯え共、差向書留    相見不申(下略)〟    〈「遷幸之図(遷宮之図)」は祭礼行列図と同じであり、また神社仏閣の図は禁忌の対象になっていないので、改(アラタ     メ)に問題はない。前例に就いてみると、文政十三年(1830)、板元・山口屋藤兵衛等から同図が売買されていた。従っ     てこれを禁止にすると「一事両様」になって具合が悪い。それに其筋の掛け合いによって差し止めになった先例を調     べたが、今のところ見当たらない。つまり売買禁止にはしないという結論になったのである。なお文政十三年の図と     はどのようなものかとういうと「下ヶ札」には次のようにある〉      〝弐拾ヶ年以前、文政十三寅年、右御遷宮之節、馬喰町弐町目山口屋藤兵衛、板元三枚継絵並大長と唱、    伊予奉書弐ツ切壱枚絵、池之端仲之町越後屋長八板元中と唱、同断三ッ切壱枚絵売買仕候趣ニは御座候    え共、年数相立候儀ニ付、扣絵無之絵組等相知不申候間、押立申立候儀ニは、至兼候旨申之候〟    〈曰く、手許に控えの絵がなく絵組み等が分からないので断言できないが、文政十三年の遷宮時、山口屋から三枚続と     大長と称する大きさの一枚絵、越後屋からは一枚絵が売買されたという書留である〉    「伊勢大神宮遷御之図」 一勇斎国芳画 (国立国会図書館デジタルコレクション)    「伊勢御遷宮之図」 五雲亭貞秀画 (神奈川県立歴史博物館所蔵)    「伊勢御遷宮 参詣群衆之図」 玉蘭斎貞秀画 (神宮徴古館蔵)       ☆ 嘉永二年(1149)    ◯『藤岡屋日記 第三巻』p457(藤岡屋由蔵・嘉永二年記)   「珍説集【正月より六月迄】」   〝当春錦絵の出板、当りハ    一 伊勢太神宮御遷宮之図 三枚ツヾき、   藤慶板    一 木下清洲城普請之図、   三枚続、     山本平吉。    一 羽柴中国引返し尼崎図、  足利尊氏ニ書、  同人。    一 姉川合戦真柄十郎左ヱ門討死、是を粟津合戦今井四郎ニ書。    当春太閤記の絵多く出候ハ、去年八月蔦吉板元にて今川・北条との富士川合戦、伊藤日向守首実検の図、    中浦猿之助と書、村田左兵衛の改ニて出たり、此絵ハ首が切て有故に不吉なりとて、余り当らず候得共、    是が太閤記の絵の最早ニて、当年ハ色々出しなり、又夜の梅の絵も、去年の正月蔦吉の板ニて夜の梅、    三枚続出て大当り也、夫故に当春ハ夜の梅の墨絵三枚ツゞき凡十番計出たり、是皆々はづれなり。      太閤記の画多く出板致けれバ       小田がいに摺出しけり太閤記         羽柴しまでも売れて豊とミ       夜るの梅昼は売れなひものと見へ〟   〈「伊勢太神宮御遷宮之図」はこの年の九月に行われる二十年に一度の式年遷宮を当て込んだもの。国芳にもあるが、藤    慶板とあるから玉蘭斎貞秀画である〉      「伊勢御遷宮之図」斎貞秀画(神奈川県立歴史博物館「貞秀の初期作品」より)