Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ いろずり 色摺り浮世絵事典
 ☆ 寛永四年(1627)  ◯『【新撰】浮世絵年表』(漆山天童 奎光書院 昭和九年年刊)   〝寛永四年 丁卯 此年算書『塵劫記』の挿画彩色摺のものあり〟  ☆ 享保十五年(1730)  ◯『市川栢莚舎事録』巻之五〔続大成〕⑨327(池須賀散人著・明和六年(1769)序)   〝柏延いたつて親に孝心のもの也。親才牛古人となりて追善の折から、父の恩といへる集を作れり。此集    誹心の輩は能しれる所なり。然るに此集本高何程と板行摺上ヶ集出来せし折、三芝居の人々はいふに不    及、才牛迫善に預りし御方へ不残右之集を配りけり。跡則絶板にして板行の板不残火中せりとなん。殊    の外大金の掛りし集也。此集絵入にて色絵摺に工夫仕出しけり。今江戸絵に錦絵杯と工夫して出しけれ    ども、元来栢莚集に色絵摺といふ事仕出せし発端元祖也〟    〈『父の恩』は初代団十郎の二十七回忌追善集。二代目市川団十郎(才牛・栢莚)編・英一蜂、小川破笠画。享保十五     (1730)年刊〉     ☆ 延享元年(1744)  ◯『放歌集』〔南畝〕②188(大田南畝著・文化九年(1812)四月記)   〝江戸芝神明前に江見屋元右衛門と云草子やあり。三代目上村吉右衛門といふもの、延享元年甲子三月十    四日はじめて合形の色摺を工夫し、紅色を梅酢にてときそめ、また板木の左に見当といふものをなして    一二遍ずりの見当とす。今にいたるまで見当を名づけて上村といふ。はじめて市川団十郎の絵をすり、    又団扇に大文字屋□(*ママ)の図を色ずりにして堀江町伊場屋勘左衞門といふものに贈りしより、今の五    代の吉右衛門文化九年壬申まで、六十九年に及べり。此像は三代目上村吉右衛門の肖像なり。今その流    れをくみて源をたづね、末をみて本をわすれざる人々にあたふるものならし      くれないの色に梅酢をときそめて色をもかをもする人ぞする〟    ☆ 延享二年(1745)  ◯『後は昔物語』〔大成Ⅲ〕⑫278(てがらのおかもち(朋誠堂喜三二)著・享和三年序)   〝延享二丑か三寅かの顔見せかと覚ゆ。市村座へは(「延享二年」の朱の添え書あり)吉沢あやめ初下り、    【中村富十郎と吉沢崎之助が兄なり】大根漬の狂言をしたり。上手なれ共評判どつとなし。楠が妻菊水    の紋にて、大名題は女楠よそほひ鑑と、あやめを立たる名題也。其時中村座へは嵐小六初下り也。これ    は芸はあやめより劣たれども、美しく評判もよかりき。【上手雛助が父也。後嵐三右衛門といふ】され    ども見巧者はあやめは上手、ころくはお下手といひけり。これも下手にはあらず。下りの顔見せ、女に    てしばらく也。請は栢莚にて浅黄頭巾の上へ冠をのせたりとか聞えし。小六着付は鶴菱にて暫の着附と    見えたり。掛素袍計にて扇に栢莚が筋ぐまの角前髪の顔を画きたるを、顔にあててにらむと云趣向也。    其頃の能案じといふなるべし。我其一枚絵を貰て持たりしが、漸彩色摺の初りたる時也。され共墨と紅    と草の汁と、三枚板にて所々食ひ違もありき。小六が野郎帽子の所は、紅と草の汁と重ねてすりて、紫    にこぢ付たる物なりき。奥村文角政信が絵かと覚ゆ。画の上に発句に、かほ見せや鶴の巣ごもり小六染    とあり〟    〈「江戸時代 江戸歌舞伎興行年表」(立命館大学アート・リサーチセンターの公開アーカイブズ)によると、「女楠     よそほひ鑑」は延享二年の顔見世。嵐小六の「女しばらく」は延享三年の顔見世(外題は『天地太平記』)とある。     したがって、奥村政信の三色を使った紅摺の役者絵は延享三年十一月の売り出しである。墨線に紅と草と紫の三色、     このうち紫は紅と草との重ね摺り、見当がうまくいかなかったのか「所々食ひ違」いもあったとある〉    ☆ 延享三年(1746)  ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「延享三年 丙寅」(1746) p97   〝五月、大岡春卜の摹本に成る『明朝紫硯』出版。(本書は支那明代の画集にして一名か明朝生動画図』    と称し、彩色摺にして此頃のものとしては珍しきものなり〟  ☆ 宝暦十二年(1762)  ◯「国書データベース」(宝暦十二年刊)   ◇俳諧 絵画    勝間竜水画『海の幸』「龍水」序 石寿観秀国編 山崎金兵衛他板「宝暦十二歳八月」(画像)     買明跋に「勝龍水生の写生の魚つくしを得て 是に俳句を求め海の幸と名づけ」とあり     奥付「彫刻並/彩色摺 関口甚四郎/同藤吉」     海の幸 貝つくし 龍水画〔国書DB〕  ☆ 明和二年(1765)  ◯『燕石雑志』〔大成Ⅱ〕⑲393(曲亭馬琴著・文化八年(1811)正月刊)   〝錦絵は明和二年の頃、唐山の彩色摺にならひて、板木師金六といふもの、版摺(ハンスリ)某甲(ナニガシ)を相    語(カタラヒ)、版木へ見当を付る事を工夫して、はじめて四五遍の彩色摺(サイシキズリ)を製し出せしが、程な    く所々にて摺出す事になりぬと、金六みづからいへり。明和以前はみな筆にて彩色したり。これを丹絵    (タンヱ)といひ、又紅絵(ベニヱ)といへり。今に至りては、江戸の錦絵その工(タクミ)を尽せる事、絶て比    すべきものなし。さばれ近属(チカゴロ)は、紅毛(オランダ)の銅版さへこゝに出来(イデキ)、陸奥(ミチノク)なる    会津人すら彼(カ)の錦絵を摸してすなれば、世の人既に眼熟(ナレ)て奇とせず。彼の金六は文化元年七月    身まかりぬ。当初(ソノカミ)彩色摺といふものはじめて行はれし時、その美なること錦に似たりとて、世挙    って錦絵の名をば負(オハ)しけん〟    〈馬琴はどうして金六のホラ話を真に受けたのであろうか〉  ☆ 文化八年(1811)  ◯『一話一言 巻三十六』〔南畝〕⑭402(大田南畝・文化八年四月記)   〝錦絵の始め 燕石雑志    錦絵は明和二年の頃、唐山の彩色摺にならひて、板木師金六といふもの板摺何がしをかたらひ、板木に    見当をつくる事を工夫して、はじめて四五へんの彩色摺を製し出せしと、金六みづからいへり。かの金    六、文化元年七月身まかりぬ【燕石雑志にみゆ】〔【欄外。此説非ナリ、見当ハ延享元年江見屋上村吉    右衛門工夫也。故に今に見当ノコトヲ上村ト云】〕〟    〈『燕石雑志』は滝沢觧(曲亭馬琴)の雑録で文化八年正月の出版。この記事は「わがをる町」の項目にある。二行割     り書きの欄外注がいつのものか分からないが、金六の証言をそのまま載せた馬琴説を否定したのである。馬琴でさえ     検証もせず、これを信じたのである。これを逆に云えば、江戸の人々は、錦絵を我が誇りとする一方で、それを技術     的に支える見当、その由来には極めて無頓着であったともいえようか〉  ☆ 文化九年(1812)  ◯「版画色摺の発明者」井上和雄著(『浮世絵』第十七号 大正五年(1916)九月刊)   〝(『浮世絵類考』写本 白藤拱補)曰く「芝神明前に江見屋といへる地本問屋あり、三十年ばかり以前    までは古丹画の一枚絵を暖簾にしてかけ置けり、今其板木は所持、すだれものれんもなし、元祖江見屋    吉衞門、三代目【合形元祖】上村吉衞門【行年八十五歳 延享元甲子三月十四日】合形(あひがた)色摺    を初め、紅色のものを梅酢に解初む、又左り見当を上村と云、初て団十郎の図を摺り、団扇に大文字屋    (瓢の中に川岡としたる印あり)図を初て色摺にす、堀江町伊場屋勘右衛門殿へ摺遣す、是色摺の元祖    也 文化九年迄六十九年に成(延享元年)。四代目(当時七十五歳)吉右衛門、五代目(江見屋)上村吉右    衛門〟    〈この写本「浮世絵類考」は幕府の書物奉行で蔵書家の鈴木白藤。大田南畝とも交友があったから、その縁で写本を作成     していたものと思われる。「拱補」とは写本上部の白藤補記という意味か〉  ☆ 天保十三年(1842)  ◯ 触書 六月四日付〔『江戸町触集成』第十四巻 p128(触書番号13643)〕   〝錦絵と唱、歌舞伎役者遊女女芸者等を壱枚摺ニ致候義、風俗ニ拘り候筋ニ付、以来開板は勿論、是迄仕    入置候分共決て売買致間鋪、其外近来合巻と唱候絵双紙之類、絵柄等格別入組、重モニ役者之似顔狂言    之趣向等ニ書綴、其上表紙上包等え彩色を相用ひ、無益之儀ニ手数を懸ケ、高直ニ売出候段如何之儀ニ    付、是迄仕入置候分共決て売買致間敷候、向後似顔又は狂言之趣向等は相止、忠孝貞節等を元立ニ致、    児女勧善之ためニ相成候様所綴、絵柄も際立候程ニ省略いたし、無用之手数不相掛様急度相改、尤表紙    上包等ニ彩色相用ひ候義は堅く可致無用候、尤新板出来之節は町年寄館市右衛門方え差出、改請可申候    右之通被仰渡奉畏候、仍如件      天保十三寅年六月四日                    絵草紙懸り 品川町  名主 庄右衛門                          堺町   同  五郎兵衛                          鈴木町  同  源七外御用ニ付 代 権四郎                          南伝馬町 同  新右衛門煩ニ付 代 新七郎                          高砂町  同  庄右衛門                          小網町  同  伊兵衛                          新両替町 同  佐兵衛外御用ニ付 代 福次郎〟    〈歌舞伎役者・遊女・女芸者等の錦絵は風俗に拘わるので、新規の出版はもちろん既刊のものも今後は一切売買禁止。     団扇絵も同断。合巻については、芝居の趣向取りや登場人物の役者似顔は禁止。ひたすら忠孝貞節・児女勧善の主旨     に徹すること。また表題・上包の色摺も禁止。そして新板は町年寄・館市右衛門に提出して改(アラタメ)(検閲)を受け     るようにという内容である。これを絵草紙懸り名主たちに通達したのが当時北町奉行・遠山左衞門尉で、上記文書は     名主たち連名の請書(承諾書)である。以降、これが改懸りの名主たちの検閲指針となっていく〉    ◯ 触書 十一月三十日〔『江戸町触集成』第十四巻p257(触書番号13807)〕   〝天保十三寅年十一月晦日                           組々世話掛 名主共    当六月壱枚摺絵其外合巻絵双紙之類取締方、絵草紙掛名主共え被仰渡候処、右商売人之内心得違之もの    も有之哉、懸り名主共不改請売出、其外彩色手ヲ込高直之品有之段相聞、以之外之義ニ付、已後彩色并    直段等左之通被仰付候    一 壱枚絵之義ハ已来彩色七八編摺を限、売直段壱枚拾六文已上之品可為無用    一 右壱枚絵三枚続より余慶ニ継合売出候儀、難相成候      右之趣相心得、此外都て当六月中被仰渡通堅相守、絵双紙屋共新板絵類は勿論、合巻絵双紙之類都て草    稿ニて、懸り名主月番之者え申出改印を請、出板之刻突合差出売買可致旨、名主支配々不洩様申付、月    行事持場所は最寄名主より心付、勿論以後新規右渡世相始候者えも、其節々前条之趣申含、心得違無之    様可申付候     附、団扇屋共仕入候絵柄之儀も同断、下絵を以右絵双紙懸り名主共え差出、可改請旨可申付候    右之通北御奉行所御差図を以申渡之、此上心得違之者有之候ハヽ急度可仰付候条、其筋商売人共え不洩    様具ニ可申含候      寅十一月           絵双紙掛 名主    〈六月の通達にも拘わらず、懸り名主の改(アラタメ)(検閲)を受けず、しかも手の込んだ色摺にして高値で出版する心得     違いがいるので、具体的に規制しようというのである。摺り数は七八遍まで、小売値は一枚十六文以上無用。寛政七     年にも似たような通達があったが、摺り数に言及はなかったし、小売値も十六文十八文以上無用と二文ほど緩やかで     あった。参考までに天保十三年当時、一枚絵はどれくらの値段であったかというと「当時絵柄ニ寄彩色拾篇余摺立、     直段之義も壱枚ニ付貳拾四文位売捌候由」(『大日本近世史料』「市中取締類集」十八「書物錦絵之部」)すなわち     摺り十遍余りの一枚絵が二十四文くらいであった。それを八文下げて十六文にせよというのである。今回の規制はそ     ればかりでない。さらに一枚絵は三枚続までという制限が加わった。規制は団扇絵にも同様に及んだ〉  ◯『藤岡屋日記 第二巻』p302(藤岡屋由蔵・天保十三年(1842)記)   ◇色摺り回数制限   〝十一月 町触    絵双紙類、錦絵三枚より余之続絵停止。    但、彩色七八扁摺限り、直段一枚十六文以上之品無用、団扇絵同断、女絵ハ大人中人堅無用、幼女ニ限    り可申事、東海道絵図并八景・十二・六哥仙・七賢人之類は三枚ヅヽ別々に致し、或ハ上中下・天地人    抔と記し、三ヅヽ追々摺出し可申分ハ無構、勿論好色之品ハ無用之事〟    ☆ 明治以降(1868~)  ◯『百戯述略』〔新燕石〕④227(斎藤月岑著・明治十一年以降成書)   〝享保の末、重長、政信等が筆の一枚絵に彩色す有り、是は萌黄と紅との彩色なり、続て石川豊信が画に    藍と黄をも交へたり、明和中、鈴木春信の時、紅、丹、藍、緑、紫、浅黄、薄墨等の彩色摺り有り、奉    書の紙へダウスを引き、見事にて、彫刻も格別入念なり、是より後寛政の比、鳥居清長工夫いたし、あ    いさびの帷子に緋の襦袢透き通り候処、又、蚊帳、綟子張の団扇には、竪横の板木二枚に分ち候抔、次    第に巧みに相成、今は十七八遍にも及び申し候【南畝翁が「一話一言」には、延享元年、草紙問屋江見    屋庄右衛門が工夫に始れり、といへり】又寿阿曇奝が説には、合せ板行は、於玉ヶ池に住し書林岡本松    魚といへるものに始り候由も承り候〟    〈本文の前の方に「彩色摺板木【合せ板行】」とあるから、「合せ板行」とは見当を付けた彩色摺りの板木をいうよう     である〉  ◯『本之話』(三村竹清著・昭和五年(1930)十月刊)   (『三村竹清集一』日本書誌学大系23-(2)・青裳堂・昭和57年刊)   ◇塵劫記色摺扉   〝寛永癸未二十年仲夏 西村又左衛門板行、とある『新編塵劫記』【吉田光由】の扉には、何の木とも知    れぬ木に花さける図ありて色摺なり、これは偽版を防ぐ為めなりしにや、彩色摺これ等古るかるべしと    て、双木君見せられぬ〟