Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ いなかげんじ 田舎源氏浮世絵事典
 ☆ 天保七年(1836)  ◯『江戸名物詩』初編 方外道人著 天保七年刊(国文学研究資料館・新日本古典籍総合DB)   〝鶴屋錦絵  通油町    役者の似顔を国貞の筆  狂言写し出し三都に響く    近来別に流行の画有り  田舎源氏数編の図〟    〈柳亭種彦作・歌川国貞画『偐紫田舎源氏』の初編は文政12年(1829)刊。天保13年(1842)、作者種彦死亡のため、同年     刊の三十八編をもって未完のまま終了〉  ☆ 天保十三年(1842)    ◯『著作堂雑記』259/275(曲亭馬琴・天保十三年(1842)八月七日記)   〝天保十三年寅六月、合巻絵草子田舎源氏の板元鶴屋喜右衛門を町奉行え被召出、田舎源氏作者種彦へ作    料何程宛遣し候哉を、吟味与力を以御尋有之、其後右田舎源氏の板不残差出すべしと被仰付候、鶴屋は    近来渡世向弥不如意に成候故、田舎源氏三十九編迄の板は金主三ヶ所へ質入致置候間、辛くして請出し    則ち町奉行へ差出し候処、先づ上置候様被仰渡候て、裁許落着は未だ不有之候得ども、是又絶板なるべ    しと云風聞きこえ候、否や遺忘に備へん為に伝聞の侭記之、聞僻めたる事有べし、戯作者柳亭種彦は小    十人小普請高屋彦四郎是也、浅草堀田原辺武家之屋敷を借地す、【種彦初は下谷三味線堀に住居す、後    故ありて、其借地を去て、根岸に移ると云、吾其詳なることを不知】其身の拝領屋敷は本所小松川辺也、    此人今茲寅五六月の頃より罪あり、甚だ悪敷者を食客に置たりし連累にて、主人閉被籠宅番を被付しと    云風聞有之、事実未だ詳ならざれども、田舎源氏の事も此一件より御沙汰ありて、鶴屋喜右衛門を被召    出、右の板さへ被取上しなるべし、予寛政三年より戯墨を以て渡世に做す事こゝに五十三年也、然れ共    御咎を蒙りし事なく、絶板せられし物なきは大幸といふべし、然るに今茲より新板の草紙類御改正、前    條の如く厳重に被仰出候上は、恐れ慎て戯墨の筆を絶て余命を送る外なし、さらでも四ヶ年以前より老    眼衰耄して、執筆によしなくなりしかば、一昨年子の冬より、愚媳に代筆させて僅に事を便ずるのみ、    然れば此絶筆は吾最も願なれども、是より旦暮足らざるを憂とする者は家内婦女子の常懐也、吾後孫此    記閲する事あらば当時を思ふべし【壬寅八月七日記之、路代筆〔頭注〕路は翁の亡児琴嶺の婦】〟  ◯『吾仏乃記』滝沢解(曲亭馬琴)記 天保十三年記事(八木書店・昭和62年刊)   (家説第四)p475   〝壬寅夏五、六月より、田舎源氏と云長編なる合巻の画冊子を絶版せらる。板元鶴屋喜右衛門を町奉行遠    山殿へ召よせて、吟味是あり。売徳を鞠問せられしに、一編に附金拾五両ばかりなるべし、と答まうし    しと云。其書い一編は二十頁を二冊にしたる者にて、三十一、二編あり。若其売徳を上納せば金三、四    百両なるべきに、作者柳亭種彦はこの年七月下旬病死したる故にや、只絶板せられしのみにて、今に至    るまで裁許なし。板元鶴屋は僥幸を得たり。種彦は実名を高屋彦四郎と云小十人の小普請なれば、始よ    り作者を召出されず。こゝをもて、田舎源氏の画工国貞もこの一件を免れたる也〟    〈町奉行としては、『田舎源氏』を絶版に処したものの、戯作者・種彦は御家人(町奉行の管轄外)の上に、既に死亡し     ているので、これ以上の追究は出来ないとしたのだろう。それで画工国貞と板元鶴屋も沙汰なしになったようだ〉    ☆ 嘉永二年(1849)      ◯『藤岡屋日記 第三巻』p543(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849))   「嘉永二己酉年 珍説集【七月より極月迄】」   〝十月      田舎源氏草双紙一件     文政十二年正月、油町鶴屋喜右衛門板ニ而諺(偐)紫田舎源氏といへる表題ニて、柳亭種彦作、哥川国    貞の画ニて出板致し候処、男女の人情を書し本ニて、女子供のもて遊びニて枕草紙の笑本同様ニて、大    きに流行致し、天保十二年ニハ三十八篇迄出板致し、益々大評判ニて売れ出し候処ニ、天保十三年寅春    ニ至リ、御改正ニ而高金之品物売買之義差留ニ付、右田舎源氏も笑い本同様ニて、殊ニ表紙も立派成彩    色摺故ニ絶板被仰付候ニ付、鶴喜ニて金箱ニ致し置候田舎源氏の板けづられ候ニ付、通油町鶴喜、身代    退転(二字欠)候、然る処夫より六年過、弘化四年未暮、少々御趣意も相ゆるミ候ニ付、田舎源氏(一    字欠「表?」)題替ニて相願ひ、其ゆかり雛(鄙)の面影と云表題ニて改刻印出候得共、鶴喜ハ微禄ニて    出板自力ニ不及、依之神田鍛冶町(一字欠)丁目太田屋佐吉の両名ニて、雛の面影初篇・二篇と出し、    是田舎源氏三十九篇目故ニ、三十九じやもの花じやものといへる事を口へ書入、又々評判ニて、翌申    〈嘉永元年〉暮ニハ三篇・四篇を出し、作者は一筆菴英泉、画ハ豊国なり、当酉年〈嘉永二年〉春五篇    も出し候処ニ、板木ハ両人ニて分持分居り候処ニ、鶴喜ハ不如意故ニ右板を質物ニ入候ニ付、一向ニ間    ニ合申さず候ニ付、当秋太田や一人ニ而又々外題を改、足利衣(絹)手染の紫と云題号ニ直し、鶴喜の    株を丸で引取、雛の面影六篇と致配り候ニ付、十日鶴喜(文字数不明欠)致し、太田やへ押懸り大騒動    ニ及びて喧嘩致し候得共、表向ニ不相成、六篇目ハ両方ニて別々に二通り出ル也、太田屋ハ足利衣手染    の紫、作者一筆菴、鶴屋は其ゆかり雛の面影、作者仙果、右草紙ニ、仙果ハ師匠種彦が書残置候写本故    ニ此方が源氏の続なりと書出し、一筆菴ハ此方が源氏の後篇なりと書出し、是定斎屋の争ひの如くなれ    ば、      本来が諺(偐)紫で有ながら        あれが諺だの是が本だの      田舎から取続きたる米櫃を        とんだゆかりの難に太田や〟    〈『偐紫田舎源氏』(初編~三十八編・柳亭種彦作・歌川国貞(三代豊国)画・文政十二年(1829)~天保十三年(1842)     刊)。『其由縁鄙俤』(初編~六編・一筆庵可候(英泉)作・一陽斎豊国(三代)画・弘化四年(1847)~嘉永三年     (1850)刊。英泉は嘉永元年没)。『足利絹手染紫』(六編(『其由縁鄙俤』五編の改題続編)笠亭仙果作・三代歌川     豊国画・嘉永三年刊)。天保改革の余波で『偐紫田舎源氏』が絶版になり家運傾く鶴屋喜右衛門と新興の太田屋佐吉     (神田鍛冶町二丁目)とが、それぞれ英泉と仙果を立てて、柳亭種彦亡き後の後継争いを演じたのである。絵師はと     もに三代豊国が担当したのであるが、仙果は戯作専門であるからともあれ、英泉は自ら絵師である、はたしてどんな     思いでこの合巻を書いていたのであろうか。おそらく『偐紫田舎源氏』では、国貞(三代豊国)画の果たす役割があ     まりにも大きかったので、読者は無論のこと板元にも豊国以外の起用など思いも及ばなかったのだろう。英泉自身も     あるいはそれを認めていたのであるまいか。定斎屋(ジョウサイヤ)〉は行商の薬売り。鶴屋と太田屋の後継争いを薬屋の     本家争になぞらえたのである〉    ☆ 嘉永四年(1851)    ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑩178(塵哉翁著・嘉永四年(1851)記事)   〝池田屋噺    柳亭種彦といへる戯作者、文政の末より著作の稗史(サウシ)多かる中に、正本仕立といえる、歌舞妓狂言    の模様をさま/\に翻案し、画組(ヱグミ)は俳優(ヤクシヤ)似貌(ニガホ)にして、年々に編を継出して、一時    流行せり、是に続て田舎源氏といへる稗史、こも又歳々に続出(ツヅキイダ)して、天保の末まで数編大き    に行はる、其作哉(ヤ)むかし男の光る源氏を種とし、種々様々に編(アミ)替(カヘ)作り変て、勧善懲悪の意    も有と雖(イヘドモ)、男女の情慾を専にして、放蕩を導くに近し、故ありて暫く出作(シユツサク)梓(アヅサ)を    止む、時の人気(ジンキ)に叶しにや、今茲(コトシ)嘉永よつなる亥年、猿若町なる市村座にて、秋狂言に田    舎源氏を取組作意して、八代目団十郎光氏の役を勤し由、其又戯場(シバイ)にならひて、浅草福富町豪    富の商(アキ)人、光氏に出立て従者男女多く伴ひて、いとたわけたる真似して、向島辺(ワタリ)戯れ遊び、    北の御役所にめされ、掛り合の者共数多御白洲(シラス)ありて、重立し者共は手鎖(テシヨフ)、御預(アヅケ)    の身とはなれり    風聞に光氏出立の者、白無垢【白綾ともいふ】重ね着て帯刀、家来又皆両刀を帯し、側女中何れも片は    づしとかやに髪結て、夫々花やかに衣裳せしとぞ、祭のねりに似たり、     (役と演者名あり、省略)     都合二十九人、     右、翌(十一月)十八日自訴致し、町役人へ御預に成、     落着はいかゞ成しや定かに聞ざりしが、本人光氏の池田屋市兵衛は、しばらく押込られて、若隠居と     はなれりとかや〟    ◯『【類聚】近世風俗史』(原名『守貞漫稿』)第二十五編「遊戯」p322   (喜田川季荘編・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)   〝柳亭種彦と云人、文政十二年以来源氏物語を擬して偐紫田舎源氏と題し草冊子を著す。乃ち前に云合巻    是也。絵表紙凡て十二三編摺、其精製にして美なること未曾有也。近世の合巻皆絵草紙也と雖ども、此    の美密に及ばず。然も表絵表紙背黒漆紙なりしを田舎源氏は背も紋染紙を用ふ。是より草冊子又一変し    て各々此製に倣ひ、前に紫が筆の文にも劣らずと云は、此冊子のこと也。田舎源氏小冊一編各二冊也。    仮名文一行四十五六字、半丁廿七行一紙五十四行、蓋毎紙精密の絵ありて、其畳紙に書をかくこと従来    の如し。画工は歌川国貞、後に豊国と改む、今江戸一の浮世絵師也。然も此冊子には特に筆力を尽し、    従来の風よりは画亦一変せるに似たり。初編桐壺の巻に比する物より天保末年に至り三十△編△△巻に    比する物を作り故人となる。其後題号をかへ、足利絹手染紫或は其由縁鄙俤など云て、之に次ぐ者あれ    ども、画工と製は劣らずと雖ども、作意拙く更に種彦の著述に似ず。後世未之を知らず、今世にては田    舎源氏を以て合巻の魁首と云べし。かゝる不用の物のみ特速に年々大行となること、時勢推て知るべき    也。(中略)    今製田舎源氏等其他ともに合巻一紙二冊入、価銭大略百二十四文。毎冊各二十枚也。二冊入の表囊にも    五六編摺の画を用ひたり〟