◯『本朝世事談綺』菊岡沾凉編 享保十八(1734)年刊)(国書データベース)
「巻之一 飲食門」
〝根元両国橋西詰にあり 前は鉄炮町に住して すこしき持ちを商ふ 此者の妹にかもんと云あり この
女の夫は蕨駅(しゆく)の某にて大百姓なり、渠(かれ)と示し 元禄十七年にはじめて鄽をかまふ 其餅
甚だ味(あぢはひ)美にして栄ふ 今所々にこの名あるは これに准(じゅんずる)ものなり 何ゆへに幾
世餅名付たりや〟
◯『江戸真砂六十帖広本』巻之四〔燕石〕④71 和泉屋某著 宝暦頃(1751-1764)
〝両国橋幾世餅が事
江戸一番の看板、両国橋の幾世餅、小松屋喜兵衛といふ、元は橋本町にて車力頭也、上野中堂御普請の
時分、金を儲け、初て餅見世を出し、名代幾世と云は、吉原河岸にて女郎也、名を幾世といふ、とり付
の節は、彼幾世餅を焼て売ぬ、段々大きに売出して、子供数多出来て、娘に手習をさせしに、皆々ほめ
けり、橘町二丁目に女師匠始めて出来しや、名を文仙と云、佐々木文山の弟子也、之に依つて、唐流を
覚へて、望む女は唐流を指南して、喜兵衛娘の名はお松といふ、手習場にては文錦と云、浅草観音堂の
右方に、三社の託宣、真行草にて今に有り、喜兵衛は無筆にて、禅学を悟りて、宇治の黄檗の弟子也、
正儀居士を号す、在々所々の禅学つどひ来て、喜兵衛と難問をかけ、答をする、後には、袈裟、衣、如
意、払子等迄持歩行ぬ、書物も作り出しぬ、禅僧拾人二拾人ヅヽ逗留して、寺の如し、今も此節不定す、
今は三打目也〟
〈幾世餅の元祖は両国橋西詰の小松屋喜兵衛、餅の名は妻が遊女の時の名、幾世に依る〉
◯『江戸名物詩』初編(方外道人狂詩 春峰・英泉等画 天保七年(1836)刊)
(早稲田大学図書館・古典藉総合データベース画像より)
〝若松屋幾代餅 両国吉川町
両国一番若松屋 雑煮(サウニ)汁粉(シルコ)客の来る頻なり
世間の名物多くは零落す 幾世独り幾代の春を歴(フ)る」