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浮世絵文献資料館
浮世絵師総覧
☆ いけづき(いきづき)げいたざえもん 生月 鯨太左衛門
浮世絵事典
☆ 弘化元年(天保十五年・1844) ◯『藤岡屋日記 第二巻』(藤岡屋由蔵・天保十五年記) ◇
生月鯨太左衞門
p461 〝十一月廿九日、両国回向院にて勧進大相撲、今日初日也 平戸生月鯨太左衞門出。 抑生月鯨太左衞門は、歳十八にして身の丈七尺五寸、重さ四十五貫目也、古今の力士と云べし、(中略) 天保十五甲辰年、十八歳にて中山道より江戸着致し、玉垣勘三郎の弟子となり、生月鯨太左衞門と改る 也、十一月廿九日、相撲初日より大男見物にて大入大繁昌にて 大きくて入山もなき武蔵野に はらいつぱいにてらす生月 いにしゑは石となりたる松浦潟 今は鯨が出来て評判 遅道〟
「生月鯨太左衞門」
国貞改豊国画
(香山磐根氏「相撲錦絵の世界」)
◯『寐ぬ夜のすさび』〔新燕石〕⑦270(片山賢著・天保十五年(弘化元年)記) 〝ことし(天保十五年)秋の程より、又大男出たりとて、世の人ゆすりもて云さわげり、錦絵、姿絵など にも出して、市中にかけて売抔(ナド)もし、彼是の諸侯たちの屋敷々々へも呼れて見られ抔もし、もは ら評判せり、其男角力の名を生月と云とぞ、判にして売れる絵姿を見るに、左の如し、
生月(いきづき)鯨太左衞門
【肥前平戸産、辰十八歳、丈七尺五寸、重さ四十五貫目、手裏一尺八分 足裏一尺一寸五分】 冬に至りて、見物群集して、桟敷々々、ものゝ料などけしからぬ高料にて、それも前々にあつらへ置ざ れば、見る事はならぬ程なりしとぞ〟
「生月鯨太左衞門」
一勇斎国芳画
(国立国会図書館・貴重書画像データベース)
◯『著作堂雑記』262/275(曲亭馬琴・天保十五年記) 〝肥前平戸の大男
生月鯨太左衛門
、去甲辰十八歳、身丈七尺三寸、安永中の釈迦ヶ嶽、文政の大空武左衛 門より巨大なりと云、旧冬より右の錦絵多く出たり、去天保十四年の冬、角力等と倶に江戸に来る、関 取某の宿所に同居す、丁子屋平兵衛の話に、其頃友人を倶に大男を見に行しに、実に風聞に違はず、地 取を見物しけるに、二段三段等の角力、手に立つ者なし、但いまだ身の太りつかず、腹も小く裸体は反 て劣り、且搶肩なれば衣服着たるを宜しとす、此者を廿人力を定めしは、平戸にありし日廿人曳の地曳 網二つおろして、一つは廿人に曳せ、一つは大男に曳せけるに、大男の方三足程先へ進たれば也、甲辰 十月下旬より両国回向院にて角力興行、大男土俵入するとて大入の聞えあり、右大男の食の多少を丁平 同宿の関取に問ひしに、外の角力の異なることなし、貌の如く大食はせずと云、丁子屋土産にかすてい ら一折遣しける、大男見て食たそうにて食はざりしは、いまだ其味を知らざりし故なるべしと丁平いへ り、此余聞たる事あれど只要を摘て録しつ〟
〈甲辰は天保十五年〉
◯『増訂武江年表』2p103(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊) (弘化元年) 〝肥前平戸産大男
生月(イケヅキ)鯨太左衛門
といへる相撲取来る(身の丈七尺五寸、重さ三十六貫、掌一尺 八寸、今年十八歳、十八人力と云ふ。筠庭云ふ、大男去冬より玉垣額之助方に来れり。角力に出でしが、 程なく嘉永三年庚戌五月二十五(ママ)日死去す)〟
☆ 嘉永三年(1850)
◯『増訂武江年表』2p122(斎藤月岑著・明治十一年成稿) (嘉永三年) 〝〔無補〕五月二十六(ママ)日、大男
生月(イケヅキ)鯨太右衛門
瘡毒にて死す〟 ◯『藤岡屋日記 第二巻』(藤岡屋由蔵・天保十五年(1844)記) 〝嘉永三庚戌年七月十六日
生月鯨太左衞門
、相撲にて越後国ぇ旅立之節、脚気おこりて病死す、時に廿四歳〟 ◯『わすれのこり』〔続燕石〕②144(四壁菴茂蔦著・安政元年?) 〝生月鯨太左衛門 熊本の家士にして、身の丈八尺余、天保のはじめ出府仕たり、珍らしき大男とて、所々の屋敷がた、ま たは町の豪家などに招かれて通るを見る者、往来に群集すれども、肩より上の現はれて、遠くよりも能 見えたり、芝仙波太郎兵衛方へ招かれし時、秋桃を出し饗しけるに、手に取割に、饅頭などわるが如く にして食ひける、帰りし跡に残りし桃を、力強き者ども、割りて見んとすれども割る事ならずといふ、 其力はかり知り難し〟 ◯『名人忌辰録』上巻p4(関根只誠著・明治二十七年(1894)刊) 〝
生月鯨太左衞門
肥前平戸の産にして、玉垣額之助門弟、角力なり。身丈七尺三寸。嘉永四亥年五月廿三日、瘡毒にて死 す、歳廿四。本所竹町天祥寺に葬る。法号晴光院巨海生月居士〟
〈上出史料の没年月日が微妙にずれているが、インターネット上の諸サイトによると、嘉永三年五月二十四日没、享年 二十四歳が正しいようである〉