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浮世絵文献資料館
浮世絵師総覧
☆ いいじま きょしん 飯島虚心
浮世絵事典
(天保12年(1841)10月17日~明治34年(1901)8月1日没・61歳)
◯『浮世絵』第六号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)十一月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇「飯島虚心翁逸話」竹生(三村竹清)著(8/25コマ) 〝 鮮碧軒にて見たる昌平聖堂学科挙の人名帳に、文久二年正月乙科の二十番目に 佐渡奉行支配組頭善蔵内 飯島半十郎 とあり、扨は今云ふ文学士なりけり。 維新後暫く文部省に出仕せられしやに聞けり、何やら教科書めきし著書もありしやうなり (中略) 胃癌に罹りて賀古鶴所氏の診を乞ひしも捗々(はか/\)しからずとて、評判の石塚左玄氏の説に聴き、 切干の煮出し、泥鰌の肉汁などを飲み、又巻せん餅をしやぶり居られし、段々衰弱してより、横腹から 酒を注ぎ込んで貰いたいが左様(さう)もゆかぬから、活(いき)てゐる内に交換大会をやつて蔵品を買つ て貰ひ、是非沢庵をカリカリ音をたてゝ一盃飲んで貰ひ度(たい)とて、友人を集められし事あり、其時 某先生京伝の一幅を壁間に掲げて見せしに、翁にこにことして、□□(ママ)さん五百両捨てなくつちや駄 目だねと戯れられしこと、今も思ひ出さる。 (中略) 翁状貌傀偉甚だ酒を嗜む、問はざれば多く語らず、大かた縞の被布様のものを着されし、かく画に就 きて論ぜらるれど筆は一向に動かず、書も御家流の臭気を脱せず、嘗て詠じて曰く 笛竹の根岸の里に住みぬれど世になすべき一ふしもなし 偶然か因縁か共古翁と同行して病床を訪れし其日の午後六時に没せられし、実に明治三十四年八月一 日也、其二日 小石川表町七十四番地 浄土宗真珠院に葬る、この寺伝通院の寺中と覚えし、法名静閑 院霊誉虚心居士、舎弟令息共に遠地に居らるゝ由 頃者荘逸楼主人展墓せしに 香華も打ち絶え居れり とぞ 噫(ああ)〟
〈昌平坂学問所の科挙試験の乙科とは、御目見え以下の幕臣が受験するコース。はるか以前の寛政六年、大田南畝が受 験したのも同じ乙科。次項参照。共古翁とは民俗学者の中山笑(えむ)〉
◯『続貂書話』(三村竹清著『佳気春天』昭和十年(1935)十月) (『三村竹清集三』日本書誌学大系23-(3)・青裳堂・昭和57年刊) ◇「
飯島虚心翁
」 〝浮世絵流行の世の中に、陳呉たりし翁を忘れては済まぬなり、中川徳楼翁にて、聖堂科挙の人名録を見 る。右は毎年の人名を張出しありしも、当時かゝるものを誰写さんともせざりしを、大谷木純堂つとめ て写し置きし、後廃してより人々純堂が為を褒め称へしとか、昔は御目見え以上と以下とは非常に格式 の異りしものにて、客が御目見え以下なる時は、主人が床前に坐し、食事の折などは高足の膳にて、給 仕人先づ主人より給仕するものなりとぞ、この聖堂の掲示も御目見以下は一段下げて記されありし、虚 心翁は 文久二年正月 乙科(二十番)佐渡奉行支配組頭善蔵内 飯島半十郎 と見えたり、応試の内にお六尺などあり、これ等は表向の苗字はなきなり、書役など態(わざ)と苗字を 問ひ、オヽオヽお前は苗は無かつたんだナなどと侮蔑したるものゝ由〟
〈『浮世絵類考』を著して浮世絵研究の端緒をつくった大田南畝と、近代的な実証研究に基づいて『浮世絵師便覧』や 『葛飾北斎伝』などを著した飯島虚心が、幕府の人材登用試験において、ともに「お目見え以下」という家格で受験し ていたとは奇遇である〉
◯『本のおはなし』(三村竹清著・「典籍」7・昭和二十八年六月) (『三村竹清集三』日本書誌学大系23-(3)・青裳堂・昭和57年刊) ◇「用捨箱稿本」 〝明治三十四年、
飯島虚心
さんが食道癌で食事ができない。酒を飲めばつゝかへす、俺の所で大会をやつ て、沢庵をバリバリやりながら一杯のんで貰ひたいといふので、四月二日に集まつた。 大会といふのは本の持寄入札会の事で、野中完一、石川芳風、中川得楼、古川銀太郎、宮崎三昧、加藤 直種、大橋待価堂、文行堂、私、主人だつた。其中誰の出品だつたか、種彦の用捨箱の稿本が出たので、 皆が血を湧かした。さうすると、三昧さんがヒヨイと文行へ耳打して中座して帰つた。此用捨箱は文行 に落ちたんだが、それが三昧さんの指金だと判つて、大騒だつたが、其落札値はなんと二円〟
〈飯島虚心はこの年、明治三十四年八月一日逝去・享年六十一であった〉