☆ 文化六年(1809)
◯『街談文々集要』p162(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)
(文化六年(1809)記事「当世婦風俗」)
〝(文化六年)今の女の風俗、大かたは武家・町共、下帯白縮緬の長キ事、甚しきハ眼にもかゝる程也、
或日水道橋外ニて、御殿方の女中三四人連レにて通りけるが、膝より上の短き二布なりけれバ、あるく
度に内股迄折々見ゆるを、折ふし向ふより車力通りかゝりて、ナンボ雑司ヶ谷ぇまハりても、ふりつび
では御免だと、わる口きゝたるもいとおかし、是にて此頃の風俗をしるべし、当春より浅黄ちりめんの
かのこ、大ニはやりける故、木挽町河原崎座におゐて、【三月三日より第弐ばんめ】八百屋おしち百二
十七年忌追善狂言として、お七、岩井半四郎相勤大当り、此節引まハしの時、右のあさぎ鹿の子の振袖
を着して出たるより、猶流行して、娘・老婆迄も、浅草かの子の襦伴の半襟、或ハ袖口にせぬものハな
かりし。
七月十五日より市村座ハ、岩井半四郎出勤、再び八百やお七相勤、大当り〟
「八百屋お七 岩井半四郎」 豊国画 (早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)
☆ 文化十二年(1815)
◯『大田南畝全集』「書簡」⑲279(蜀山人詠・文化十二(1815)年三月二十六日付書簡)
〝詩は五山役者は杜若傾はかの芸者はおかつ料理八百善
五山 菊地左太夫、名桐孫、字無絃、号五山、有五山堂詩話八編、住霊岸島坂本町
杜若 おやま若女形、岩井半四郎
かの 私衣(ナレギヌ)事【秘伝故名ヲアラハサズ】
遊女私衣、新吉原江戸町二丁目、若菜屋、初百川楼娘、名そよ
歌妓(ゲイシヤ)おかつ 駿河町、越後屋隣住、妹に梅、ふさ、其外多し。一年纏頭凡五百金
八百善 八百や善四郎、千寿に住、諸侯之仕出しをもいたし日々来客不絶、一年勘定三千六百七金、料
理屋多しといへども此上に出るものなし〟
〈蜀山人の狂歌は当時全盛を誇った詩家・役者・遊女・芸者・料亭を詠み込んだもの。この岩井半四郎は五代目〉