☆ 享保二十年(1735)
◯『続江戸砂子』(享保廿年版本)(『此花』第九号 大正二年六月 朝倉無声著「駒込富士詣」より)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝五月晦日より其夜すがらかけて、朔日の夕景まで参詣す、大かたは子供なり、多く髪を乱せり、これ富士
禅定の心なり、かりのよし簾茶屋多く建ちつゞき、餅酒やうの物を貯へたり、当所の産は五色網袋、軍配
うちは、麦わらにて作れる蛇、或は梅桃杏李の果物、かのすがり網に入て産物とす、麦藁の蛇は延宝始の
頃、所の女童麦わらにてつくれり、ねぢり龍とかやいふものゝのやうに長くあみつゞくれば、自然と龍の
形に似たり、これを手むだごとやうにこしらへ軒におけり、子供の参詣多ければ玩物にととのへぬ、いつ
となく次第にひろごり、富士みやげにこれあらでは如何(いか)ならんやうになりて、今は当所第一の産と
なれり〟
☆ 文化十一年(1814)
◯『塵塚談』〔燕石〕①(小川顕道著 文化十一年成る)
〝駒込富士権現祭、毎年五月晦日より六月朔日迄、参詣夥し、予若年の頃は、俗間の童子等参詣には、皆髪
をあらひ、油、元結を用ひずちらし髪にして詣でしが多かりし、近年右体の童さらに見へず、移り替る世
の有様此の如し〟
☆ 文政二年(1819)
◯『紅梅集』〔南畝〕②367(文政二年閏四月十五日詠)
〝近藤正斎、三田村鎗ヶ崎といふ所の山里にあらたに山をきづきて富士の形をうつせしをみて
ものゝふの一番鎗カさきがけてつき出したる富士を三田村〟〈蜀山人(大田南畝)の狂詠〉
◯『南畝集』〔南畝〕⑤182(文政二年閏四月十五日賦)(漢詩番号4468)
〝近藤正斎 字重、鎗碕別墅に小芙蓉を新たに築き、碑を建つ。題して「白日昇天の所」と云ふ
槍碕の煙樹緑沈々たり 新たに築く芙蓉数十尋
一簣の功成りて何の用ふる所ぞ 滄海に臨みて塵襟を滌はんと欲す〟
◯『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥121(喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事)
〝目黒祐天寺辺に、先年富士山の形を作りたり、其所の百姓が庭の中なるべし、近藤十蔵と云仁、此百姓
を透して此山をつくらしめたるが、山にはおのれ甲冑被たる形、石を刻みて造り居え、また平地には華
表に鶴の止まりしかた、列仙伝繍像の丁零威の図と見ゆ、是石にて刻建、この百姓蕎麦を売、予その頃
祐天寺の宝物見んとて行しこと有て、其百姓が家に休らひ、彼華表を見れば、近藤正斎昇天之処といへ
る文ある故に、尋ければ、老婆云、向ひにみゆる黒き板塀ある家を指て、十蔵様の住所はあれ也、あの
人にだまされて、今は我儘のみいひて、お咄申さば、さま/\の事有とて、いたく恨めるけしき、聞て
やくなく、をかしからねば、余所事に紛らして立出ぬ、さて両三年経て此頃聞に、近藤父子にて、隣家
の百姓が家内男女老少嬰児迄残らず殺害して、相手口なく証拠もなければ、我いふ儘にて御糺済、正斎
は何れへか御預に成り、子息のみ配流せらる。親の罪を負けるなるべし(以下略)〟
〈寛政十年(1798)、エトロフの地に日本領土であることを示す木標を建て、若くして歴史に残る偉業を達成した近藤
正斎重蔵、非凡な頭脳を持つ一方で、狷介な性格と奇矯な振る舞い、そして小宮山楓軒の記すところによれば〝其下
ヲ御スコト暴戻〟という(『懐宝日札 八』〔百花苑〕③175)部下には酷く当たる性行が禍したか、あまりにも痛
ましく陰惨な末路である。寛政六年、大田南畝等とともに官吏登用試験に合格したころに抱いていたはずの青雲の志、
それをどこで失ってしまったのか。浮世絵師・窪俊満とのトラブルについては俊満の項参照〉
☆ 文政十一年(1828)
◯『増訂武江年表』2p78(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(文政十一年・1828)
〝下谷小野照崎の社地へ、石を畳みて富士山を築く〟
◯『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥(喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事)
(文政十一年・1828)
〝下谷小野照崎社頭に、富士山の形を築く、すべて近年処々此を作る。永代寺萱場町鉄砲稲荷砂村もと八
幡等なり、富士講中多き故也〟
☆ 文政年間(1818~1819)
◯『増訂武江年表』2p79(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(文政年間・1818~1829)
〝深川永代寺、鉄砲洲稲荷内、茅場町薬師境内等に石を積みて富士山を造る〟
◯『江戸名物百題狂歌集』文々舎蟹子丸撰 岳亭画(江戸後期刊)
(ARC古典籍ポータルデータベース画像)〈選者葛飾蟹子丸は天保八年(1837)没〉
〝富士
不二詣こゝまで来たる甲斐ありとうらをかえせし吉原の客
よこ雲の手綱とゞめて朝ぼらけいさむこゝろの駒込の不二〟
〈下谷坂本と駒込の富士。参詣は五月晦日と六月一日〉
☆ 天保年間(1830~1844)
◯『増訂武江年表』2p103(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(天保年間・1830~1844)
〝深川仲町一鳥居の傍に在りし富士山を毀して町屋とす〟
☆ 弘化三年(1846)
◯『江戸風俗総まくり』(著者未詳 弘化三年成稿)
(『江戸叢書』巻の八 江戸叢書刊行会 大正六年刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇「富士祭」(23/306コマ)
〝富士祭りは駒込浅草こそ昔より賑はひて、中昔より高田目黒とも祭る日はかはれど、いさゝか群集の意
を顕はしぬ、麦藁の蛇、綱袋なんどをひさぎて駒込の不二は、畑物の珍らしみを出せるが専ら也、わけ
て茄子の大きく色よくて美味なるものを出せり、此不二祭につけていふ、寛政度始りたるは駿州登山の
者白き行衣を着、いらたかの珠数を是にかけて、不二講の焚上げといふ事を行ふ、是は危急の病床に全
快を祈るとて、火を焚き不二の掛軸かけて鈴をふりたて祝詞の如く、衆人よつて同音高声に唱ふる、其
詞、鄙俗の中の野調にて、不二の歌などこゑいかめしうのゝしる、実に文盲の甚しき只其信をこらす所
によるものか、彼千垢離よりも拙き所の祈也〟
☆ 明治以降
◯「八丁堀の暑中」原胤昭(『江戸文化』第二巻第六号 昭和三年六月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇「むぎわらのじや」(7/34コマ)
六月一日は富士のお山開き蛇の祭、此の日麦の茎にて蛇の形を結び、口の中へ薄い木片を朱に染めて差
し込み、火焔の舌を装ひ、黒青紅などの絵具にて、麦稈を染め画どりて蛇の形となし、大小様々に造り、
富士山を囲む床店にて売る。人々富士に詣うでゝ之を買ひ求め、各家の台所に祭つてある、荒神棚に供
へる。之を火防せの呪咀と信じた。麦稈の蛇が、二ツ三ツとブラ下つて居ると、日を追うに従つて燻つ
てくる。麦稈は光沢を放つ、私共子供の眼にはなんだか怖かつた〟