Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ ふじこう 富士講浮世絵事典
 ◯『江戸風俗総まくり』(著者未詳・弘化三年(1846)成稿)〔『江戸叢書』巻の八 p36〕   (「富士祭」)   〝富士祭りは駒込浅草こそ昔より賑はひて、中昔より高田目白とも祭る日はかはれど、いさゝか群集の意    を顕はしぬ、麦稈の蛇、綱袋なんどをひさぎて駒込の不二は畑物の珍らしみを出せるが専ら也、わけて    茄子の大きく色よくて美味なるものを出せり、此不二祭につけていふ、寛政度始りたるは駿州登山の者    白き行衣を着、いらたかの数珠を是にかけて、不二講の焚上げといふ事を行ふ、是は危急の病床に全快    を祈るとて、火を焚き不二の掛軸かけて鈴をふりたて祝詞の如く、衆人よつて同音声高に唱ふる、其詞、    鄙俗の中の野調にて、不二の唄などこゑいかめしうのゝしる、実に文盲の甚しき只其信をこらす所によ    るものか、彼千垢離よりも拙き所の祈也〟    〈不二講に対する町奉行の取り締まりは次項の町触れ参照〉  ◯『江戸町触集成』第十一巻 享和二年(1802)九月四日付(近世史料研究会編・塙書房・1999年刊)   〝冨士講と号し講仲間を立、俗之身分ニ而行衣を着、鈴数珠等持、家々之門ニ立祭文を唱、又ハ病人之加    持祈祷致、護符等を出、其外不埒之所業致候もの有之由相聞候ニ付、已来右躰之義致間鋪、若相背にお    ゐてハ急度可申付旨、去卯年触置候処、近比又候講仲間を立、俗之身分ニ而行衣を着シ、病人等之加持    祈祷致、或は護符を出候者有之由ニ付、此度右之もの共召捕吟味之上、夫々御仕置被仰付候、以来触置    候趣忘却不致、急度可相守、若此上相背右躰之もの於有之ハ厳科ニ可申付、此旨町中可触知者也     戌九月〟    ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥366(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝野羽織、俗云ぶっさき羽織、是は遠足又は弓馬稽古着の衣服に限りたるものなり、近頃は袴勤の人達は、    御城内へ袴羽織に、此野羽織を不構用ひける、安永比迄は決て不用、寛政度より御城内へ用ひ候に成け    る〟  ◯『増訂武江年表』2p119 (斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (嘉永二年・1849)   〝九月、富士講の行人を禁ぜらる(身禄派、清康派等の流派あり。この内俗人の身として病気平癒の加持    祈祷を行ひ、奇怪の説等いひ触らしける故なるべし〟    ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑩147 塵哉翁著・嘉永二年(1849)記事   〝富士講    嘉永二酉九月、若年寄本庄安芸守道貫御渡、    富士講の儀に付ては、度々町触の趣、并文化度猶又内々にて、富士信仰の先達と唱へ、不取止儀を講釈    抔致し、俗の身分として行衣を着し、望候者へは護符を出し、或は加持祈祷、且人集等致し候始末、愚    昧よりの事には候得共、右の内には身分を不顧其席へ立交り候族も有之由、風俗にも不宜、第一は触面    を不相用段不届に付、急度咎にも申付候条、此以後右体の義及見聞候はゞ、差押早々可申出旨、町触有    之候処、近米猶又御府内外の者共、講仲問を相立、追々信仰の者不少哉に相聞、不届の事に侯(中略、    以上触書)    (以下、塵哉翁の記事)    富士講の所業予見し事あり、焚上祈祷の節は、さま/\の幅物を掛ならべて檀様に飾かまへ、供物、神    酒、備餅、祥水は大きやうなる鉢に盛て備ふ、外に供物はなき様に覚えし、講中行衣を着て、七宝をつ    らねたる大珠数と鈴とを各携て、先達の者正座して、講中に其左右後を取巻、鈴を鳴らして唱文同音に    声高く、然して後、冨山の詠歌をよみ上る事、其数甚多し、此内に大火鉢にて線香を夥しく焚く、是を    焚上といふ、共ほのふの中え病者の名、生年を認たる紙札を投じ入れば、ほのふの火気にて上へ舞昇る、    其有様にて吉凶を言、なか/\にりゝ敷いさましき躰也、    行衣は年々登山のみぎり門出より着して行、白木綿の半衣也、先達の者は其祖々より代々伝へたる、度    々登山の行衣にて、白きも黒の冨山のかな印甚多く、是を以信者の巧とせり、珠数は登山の折たすきに    懸るとや、珠を連て美事立派也、懸念仏の登山多人数、花やかにこそ〟    ◯『藤岡屋日記 第五巻』p238 藤岡屋由蔵・嘉永六年(1853)記   ◇役者似顔絵出回る    〝嘉永六丑年三月、当時世の有様    上の御政道も御尤至極なり、冨士講が差留られ、木魚講がはびこり、此方は浅草観音の御花講にて、東    叡山宮様の御支配にて、念仏だからいゝおかひ(ママ)といふかけ声を高らかに張上げ、大木魚の布団を天    鵞絨縮緬にて拵へ、是へ金糸にて縫を致し、二重に敷重ね、信心は脇のけにて、是見よがしと大行にた    ゝき歩行、又師匠の花見も段々と仰山に相成、娘子供は振袖の揃ひ、世話人は黒羽弐重の小袖に茶宇の    袴を着し、大拍子木をたゝき、先へ縮緬染抜の幟を押立て、祭礼年番之附祭り気取りにて、甚敷は種々    さま/\の姿にやつし、途中道々茶番狂言を致し歩行、往来を妨げ候故に、是も差留られ〟  ◯『絵本風俗往来』菊池貴一郎(四世広重)著 東陽堂 明治三十八年(1905)十二月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇上編 五月 富士講中登山出立(36/98コマ)   〝富士講中といふもの、皆講名を選び、江府中に数十の講中ありたり、一講にて多きは百余名に及び、小    さきは五十戸に下らざるなり、一講毎に必ず先達なる行者あり、世話人等あり、是皆稼業ある一戸の主    人、業の暇(いとま)に信心のため、講中の世話をなすものにて、己が利益は計らざるのみならず、稼ぎ    し利分を講中へ注ぎこみて尽力するを、一方より見る時は信心道楽などゝ評さるゝに及ぶ、毎年六月前    より富士登山をなす一講にて、六七人より三人位づゝなり、何れも先達の指図を守り、道中の辛苦より    登山の艱苦を嘗めるは、冥利冥加を弁へ、身の奢侈をつゝしむなどの実地修業なり、山中又種々の禁制    ありて、心の穢れを清む、六根清浄の御山の有難きを覚ゆとかや、其の登山旅装質素にして勇ましき出    立なり、白木綿の行衣・手甲・脚胖に草鞋をふみ、白の鉢巻き名玉をつらねたる数珠を手襷にかけ、菅    笠は講中の印を付け、金剛杖をつきたるなり、肩よりかけたる鈴の音はさながら不浄を払ひて響く、旅    中の先達の行者は宿駅に於ては、とりわけ敬ひたりけるよしなり〟   ◇上編 六月 富士仙元大菩薩へ線香を奉る(38/98コマ)    年々六月朔日は、早朝より町々家並残らず軒下へ線香を点じけるは、富士浅間宮へ奉るとかや、されば    江戸にて浅間宮の信仰多きを知らる、また一には、此の線香は富士山宮に奉るにあらず、地の神を祭る    ともいへり、何を信とすることを知らず       富士詣で    例年葉月(ママ)朔日は山開きとて、深川八幡宮社内の富士駒込、扨(さて)は浅草富士・横町の富士大菩薩、    その外富士浅間を祭れる諸社内・寺内等の群集夥し、何れの富士祭にても、麦わら造りの蛇を商ふ店立    ち並ぶ、此の蛇を求めて家に置く時は火防(ひふせ)なりとぞ、江戸の火災甚だしき頃なるより、求め得    ざるものなかりし〟   ◇中編 五月 富士講の神拝(31/133コマ)    富士浅間大権現を信仰せし人々、講中を結び講名を異にしけるもの、其の講数市中に多かりし、此の富    士講中、例年六月富士へ登山す、故にそれ等の祈禱(いのり)のため、五月末より講中有志の家々へ相寄    り、神壇を構へ美事なる神器を設け、榊・洗米・菓子・果物を供し、講中の先達なる人より、他の信心    堅固なる人々謹沐して、行衣(ぎやうい)とて登山に着せし衣類をまとひ、鈴を打ち振りながら富士山の    御詠歌を唱ふ、此の祈禱兎角(とかく)人の心をして諸々の障りを払ひ、家内のけがれを除く如く感じて    有り難く覚へたり、此の先達を始め神拝をなせる人々、謝儀施物等は一切受けざるのみか、各自(おの/\)    幾多の費へを憚からず、諸人助けの寸志を表してなり〟  △『実見画録』(長谷川渓石画・文 明治四十五年序 底本『江戸東京実見画録』岩波文庫本 2014年刊)   〝毎年六月一日、冨士の山開には、駒込・浅草・深川其他の冨士に於て、篠又は杉ノ小枝へ麦藁製の蛇を    取付、厄払なりと云つて是を売るなり。此日線香に火を点し、軒先へ立て、其火にて煙草をすい、或は    其煙りを手にかざし、手足などを撫でて、種々の病を治する効ありと言(う)。線香の火は、冨士の本山    より伝火するものなりし〟〈幕末から明治初年にかけての見聞記〉