☆ 天明八年(1788)
筆禍『文武二道万石通』(黄表紙)
処分内容 絶板
◎作者 朋誠堂喜三二(藩主より断筆を命じられる)
◎画工 喜多川行麿(記載なし)◎板元 蔦屋重三郎(記載なし)
処分理由 幕政諷刺
◯「文武二道万石通」(宮武外骨著『筆禍史』p74)
〝朋誠堂喜三二(平沢平格)の著にして、画は喜多川歌麿の門人行麿の筆なり、此書が絶版となりしは、
其序文にも「質勝文野暮也、文勝質高慢也、文質元結人品として、月代青き君子国、五穀の外に挽ぬき
の、おそばさらずの重忠が、智恵の斗枡に謀られし、大小名の不知の山、三国一斗一生の、恥を晒せし
七温泉の垢とけて、三島にあらぬ大磯の化粧水に、しらげすませし文武二道万石通と名けしを云々」と
ある如く、これ天明七年六月、松平越中守定信が幕府の老中となりて、諸政を改革し、文武二道の奨励
をなせし事を諷刺せしものにして、記述は鎌倉時代の事に托しあれども、全篇の主旨は、松平定信の政
策を愚視せしものなりしかば、市民の好評を得て売行盛んなりしが、忽ち絶版の命を受くるに至りしな
り
著者喜三二こと平沢平格は、佐竹藩の留守居にして、多能の人なりしも、此戯作のため、藩主より諭旨
ありて、爾後戯作の筆を絶ちしといふ〟
『文武二道万石通』 朋誠堂喜三二作・行麿画 (早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)
〈作品は絶板処分。作者の朋誠堂喜三二はこの件で藩主より断筆を命じられたという。それでは画工・喜多川行麿や板
元蔦屋重三郎はどうであったのか。喜三二は藩臣だからもとより町奉行の管轄外、しかし行麿や蔦屋は町人である。
奉行所は彼らに対して動かなかったのか、動けなかったのか。それとも藩臣の身分に拘わるような裁定を、町人相手
とはいえ町奉行が下すわけにはいかないという遠慮が働いたのか〉
◯『寒檠璅綴』〔続大成〕③187(浅野梅堂著・安政二年頃成る)
〝天明ノ末ノ頃、三橋喜三二ガ作、文武二道万石通ト題セシ青本、行麻呂ガ画也。鎌倉ニテ頼朝、畠山重
忠ニ命ジテ文武ニタケタル侍ヲ撰マセ、文ニモ武ニモアラヌヌラクラ武士ヲバソレゾレノ好ムカタニイ
ザナヒテ、二道ニ導キ教ル手段ヲ戯作セシモノニテ、頼朝ヲバイトワカキサマニ画。重忠ノ素袍ノ紋ニ
梅鉢ヲツケ、本多次郎ノ本ノ字ノ紋、土屋三郎ノ紋ナド、白川相侯ノ初政ノサマヲ暗ニツクリ出セシガ、
殊ニ外ニ流行シテ、再板セシコロハ、紋ハケヅリタル所多シトゾ〟