Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ ほうそうよけ(あかえ) 疱瘡除け(赤絵)浮世絵事典
 ◯『疱瘡請負/軽口ばなし』貞之画 十返舎一九作 鶴屋金助板 享和三年(1803)刊    疱瘡請負/軽口ばなし 貞之画(国書データベース画像)     〈本文・挿絵とも紅摺(赤)、この草紙自体が疱瘡除けとなっている。書名は推定。〔国書DB〕の分類は咄本〉  ◯『疱瘡輕口ばなし後編 子宝山』渓斎英泉画 十返舎一九作 泉市・鶴屋金助合板 天保七年(1836)頃?    疱瘡輕口ばなし後編 子宝山 英泉画(国書データベース画像)     〈従来享和三年刊とされるが、『黄表紙總覧』後編の備考は天保七年頃の刊行と推定。〔国書DB〕の分類は黄表紙〉  ◯『千紅万紫』〔南畝〕①245(蜀山人・文化八年(1811)八月詠?)   〝赤き紙にうたをこふ      疱瘡をかろくするがのうけ合は三国一のやまをあげたり〟  ◯『馬琴日記』天保二年(1831)二月記事 ②297-302    馬琴の孫女・つぎ(次)と孫男・太郎、相次いで疱瘡に罹る(二月)    疱瘡棚を設けて白山権現の守札を貼り「八丈島為朝神影」二幅を掛ける。    疱瘡除けの品 為朝の紅絵・張子の達磨・あかねもめんの単衣物および頭巾    見舞い品   赤落雁・手遊び馬・かるやき    ◯「集古会」第五十三回 明治三十八年五月(『集古会誌』乙巳巻之四 明治38年9月刊)   〝林若樹 (出品者)     疱瘡画絵本 芳鶴・春扇画 合 一冊     二代目広重下画 疱瘡画    十枚     疱瘡絵            四枚     錦絵三枚続き 玩具合戦図 五歌亭貞益筆 一組    早川中唐(出品者)     疱瘡画絵本  二冊     疱瘡画    二枚     国芳筆 安政頃 桃太郎画入 軽焼袋 一枚〟  ◯「集古会」第六十七回 明治四十一年三月(『集古会誌』戊申巻三 明治42年3月刊)   〝林若樹(出品者)     立祥広重下絵 疱瘡絵        十枚     疱瘡見舞 淡島かるやきの袋     九枚      表に彩色刷にて玩具・金時・為朝等の疱瘡絵を画けり 大小ともに原形のまゝ    有田兎毛三(出品者)芳鶴・春扇筆 疱瘡絵本  ◯「集古会」第九十六回 大正三年(1914)一月(『集古会志』甲寅二 大正4年10月刊)   〝三橋虎之助(出品者)芳虎貞虎筆 疱瘡絵 五枚〟  ◯『梵雲庵雑記』淡島寒月著・岩波文庫   ◇「淡島屋のかるやき袋」p122(大正五年(1916)一月『浮世絵』第八絵号)   〝何故昔はかるやき屋が多かったかというに、疱瘡(ホウソウ)、痲疹(ハシカ)の見舞には必ずこの軽焼(カルヤキ)と達    磨(ダルマ)と紅摺画(ベニズリエ)を持って行ったものである。このかるやきを入れる袋がやはり紅摺、疱瘡神    を退治る鎮西八郎為朝(チンゼイハチロウタメトモ)や、達磨、木菟(ミミズク)等を英泉国芳(クニヨシ)等が画いているが、    袋へ署名したのはあまり見かけない。他の家では一遍摺(イッペンズリ)であったが、私の家だけは、紅、藍(ア    イ)、黄、草など七、八遍摺で、紙も、柾(マサ)の佳(ヨ)いのを使用してある。図柄も為朝に金太郎に熊がい    たのや、だるまに風車(カザグルマ)、木菟等の御手遊(オモチヤ)絵式のものや、五版ばかり出来ている。    (中略)     この絵袋は錦絵(ニシキエ)として取扱われて、組合に加入して錦絵同様に名主の印が捺(オ)してある。    (以下、袋裏にある「口上書」の写しあり。略)    で袋は一朱までは水引のを結び切りで、二朱からは花結びにする。一分からはこの錦絵袋を出すが、しか    しこれも疱瘡痲疹の見舞に限ったもので、平生のは梅の花の輪廓(リンカク)のを用いている。この錦絵袋を摺    るのは、始め深川の江崎屋がやったが、後に柳原土手うなぎ屋東屋の先の団扇屋だった園原屋がやる事に    なった〟  ◯『奇態流行史』廃姓(宮武)外骨編 半狂堂 大正十一年(1922)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝疱瘡神を祓ふ赤絵(41/72コマ)    疱瘡といふ病は伝染性のものであつて、古来時々大流行を極めたが、其予防法の行はれなかつた時代には、    如何にすれば免れ得るであらうか、如何にすれば軽くすむであらうかと、無暗に心配した果、伊豆八丈島    の者は疱瘡に罹らない、それは源為朝が疱瘡神を退治したからであると云ふ妄説を信じて「鎮西八郎為朝    御宿」と書いた紙を表口に貼つて置いたり、又家々に疱瘡神の祟り除けとして、赤紙の幣を立て、患者に    は赤い衣服を着せ、赤の飯に鯛を添へて食はせるなど、赤づくしにすれば軽くすむと云ふ迷信から、赤色    摺の絵本に赤い表紙を付け、赤糸で綴たものを見せればよいなど、誰云ふとなくそれが流行して、文化頃    から天保の末頃まで盛んに出版された(此外に赤摺にした一枚絵も出たが、英人ジエンネルが発明した種    痘法の日本に伝来した嘉永後には漸々これ等の出版が止んだやうである)其赤い本は患者たる子供に見せ    るものであるから、お伽草紙と同じく、坂田の金時がどうしたとか、兎と猿が話をしたとか、紙張子の達    磨や木菟の絵、又は種々遊戯の法などを書いたものであるが、元来疱瘡が軽くすむやうにとの呪であるか    ら、其画作中にも軽いづくしで、軽業とか軽焼とか、軽石、軽めら、尻が軽い、荷が軽い、手軽足軽口軽    咄など、軽いと云ふ事を集めたものも出たのである〟  ◯「川柳・雑俳上の浮世絵」(出典は本HP Top特集の「川柳・雑俳上の浮世絵」参照)   1 悟得て今は達磨も紅絵にて「収月評」延享2【続雑】注「疱瘡見舞に贈った赤絵」   2 筋のいゝお疱瘡赤絵がたんと付〟「柳樽110-20」文政13【続雑】注「疱瘡除けの呪絵」     〈達磨・鎮西為朝・鍾馗等沢山の赤絵のお陰で症状が軽くて済んだ〉  ◯『此花』第十四号(朝倉亀三著 此花社 大正二年(1913)十一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「日本版画類纂其二 疱瘡絵考」朝倉無声著   〝疱瘡絵版行の始は、享和三年の夏、江戸に疱瘡大流行の時、其の見舞物として、浅草の淡島軽焼の如きは、    店頭人を以て埋まる斗(ばか)り、終に番号札を渡して、順々に売つたと云ふ程であつたから、疱瘡絵の売    れる事も亦夥しいもので、浮世絵師の一夜漬の筆になつた、鍾馗や金太郎や桃太郎や、乃至(ないし)手遊    類の粗画に、戯作者の賛のあるものが、幾種類か数へ切れない程出版されたが、何れも武張つたものか、    軽いといふに縁(ちな)んだ画題であつた。尤も絵草紙にも紅摺のものが出版されたが、其の売高は一枚摺    の安価なるに若かなかつたのである。    享和の後は、天保九年と嘉永三年とに、又々疱瘡が流行して、以前と変らぬ出版物が夥しく売れたと古老    の話であるが、それから間もなく種痘法が伝来してからは、何時とはなしに廃れて仕舞つたのである。    かく疱瘡絵は、一種の際物である丈に、多くは破り捨られて、今に伝はるものは稀である。次に模刻した    のは、初代歌川豊国門人国虎の筆で、賛は初代十返舎一九である、発兌年代を記してないから、明かに知    る事は出来ないが、一九は天保二年に没したのであるから、恐らく享和三年夏の出版であらうと思はれる    のである(無声記)〟    〈挿絵に国虎の張り子の犬の赤絵あり。朝倉無声はこの疱瘡絵を享和三年夏のものとするが、国虎の作画期は文政以前は今     のところ未確認なので疑問である〉  ◯『浮世絵』第八号 所収(酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)一月刊)   ◇「淡島屋のかるやき袋」淡島寒月 〈「丈」を「だけ」と読む場合は「だけ」と直した〉   〝(前略)何故昔はかるやき屋が多かつたかと云ふに 疱瘡、麻疹の見舞には必ず此軽焼と達磨と紅摺画    を持つて行つたものである、このかるやきを入れる袋が矢張り紅摺、疱瘡神を退治する鎮西八郎為朝や    達磨、木菟等を英泉や国芳等が描いて居るが 袋へ署名したのはあまり見かけないで 他の家では一遍    摺であつたが 私の家だけは紅・藍・黄・草なぞ七八遍摺で紙も柾の佳いのを使用(つかつ)てある、図    柄も為朝に金太郎と熊が居るのや、だるまに風車、木菟等の御手遊(おもちや)絵式のものや 五番斗り    出来て居る(中略)此の絵袋は錦絵として取扱はれて組合に加入して錦絵問屋に名主の印が捺してある    (中略)此錦絵袋を摺るのは 始め深川の江崎屋がやつたが 後に柳原土手うなぎや東屋の先の団扇屋    だつた園原屋でやる事になつた(後略)〟