◯『世のすがた』〔未刊随筆〕⑥38(百拙老人・天保四年(1833)記)
〝七夕の前、短冊紙を売来るは、享和の頃はいろ紙計を売、文化の頃よりさま/\の形を切て売、近頃は
板行にて梶の葉盃のなどの形におして切ぬき、十枚くらゐツヽ一束にして売、天保に至ては紙にて網を
切、売来れり、又短冊を竹に付て星祭するに、寛政の頃は武家にては庭に三尺計の杭を二本立ならべ、
それに結付て備へ、町家は庭なきゆへ物ほしなどへ備へたるものなりしが、追々に高くする事になり、
武家町家の差別なく長竿の上に結付て、高きを争ふやうになり、それより竹の先へ紙にて切たる網をな
が/\と付、或は糸をつけてほうづきをいくつもつなぎ、又は小き桃灯を付しもあり、西瓜を切たる形
などめつら敷やうにおぼへしが、近頃は張抜の枕筆硯の類を大きく作り、糸にて下るもあり、そのもと
は深川の遊女屋より初りたるよし、近来は町家計にもあらず、武家にも此風を学びて色々の物を付るを
見る、今年本郷辺を通行せしに町家の屋の上に作りものあるを見るに、酒樽盃御所車煙草入帳面百人一
首の本、其外種々の物を作りて出せり、追々見物も出ぬべきかと人々云あへり、殊更星夕に縁なき品多
し、笑にたえたり〟
◯『世のすがた』〔未刊随筆〕⑥42(忍川老人・天保四年(1833)記)
〝星祭は七日の夜なる事也、然るに何事も早きを勝とする風俗にえ、天明の頃は七日の未明より短尺を竹
に付て出せしが、それにては手廻しあしきとて、六日の夕に出すもあり、またおそしとて、寛政の頃よ
り六日の朝出すことゝなる、竹売ものも七日の朝より六日の夕になり、後には六日の未明になりたり、
近来に至りては五日の夕に売て来れり、六日に竹を売ものは稀なり、扨六日の未明より、町々家々長き
竹の先に短尺其外さま/\の品を彩紙にて作り出す事なり、かく早きを争ひて二日一夜炎暑風露にうた
れ、竹はかれて色もなく、短冊は過半ちりぬれば、星手向の趣意もいつしか失なへり、つくりものも天
保年中停止せらる〟