彫 師(十返舎一九作・画 黄表紙『的中地本問屋』挿絵 享和二年(1802)(早大・古典籍総合データベース)
彫師 摺師(歌川美丸画 古今亭三鳥作 合巻『艤浮名取楫』挿絵 文政二年(1819)(国書データベース)
◯『宝船桂帆柱』(十返舎一九作 歌川広重画 岩戸屋板 文政十年(1827)刊)(国書データベース)
〝版木師 かせげたゞ小刀細工ながらにも黄金(こがね)彫出す板木師の業(わざ)
「しやほん(写本)がくどいとほね(骨)がおれる/\」〈彫師のいう写本は画工が画いた版下絵をいう〉
版木師(彫師)(国書データベース)
<彫師(板木屋)の役割分担>
A 文字彫(筆耕彫)(書物問屋があつかう儒仏経典・史書などの古典の彫刻)
(彫工が修行するには文字彫から入る。文字さへ彫れると画もまた彫れるという)
B 絵(画)彫(読本・摺物・大錦・合巻の彫刻)
別称:大錦屋、合巻屋(上掲のうち大錦・合巻の彫師を篆刻家はこう呼んでいた)
〈篆刻家とは「鉄筆を業とする仲間」。下掲、靄軒叟著「錦絵を彫る職人」(注1)参照〉
1 頭彫の仕事分担
①顔と生え際の毛割
②櫛笄簪などの装飾品〈石井研堂の『錦絵の彫と摺』はこれを胴彫りの分担とする〉
③女の髪の毛がき(通し毛)
〈石井研堂の『錦絵の彫と摺』には「頭の毛筋の長く通るを通し毛といふ」とある。具体的には「水にぬれた毛、
幽霊の毛、振り乱した毛」の由〉
2 胴彫の仕事分担
①衣服の線
②衣服の模様
③背景の風景や屋台引
④文字や図様のないところを浚って凹面にする
錦絵(多色摺)の場合、以上に加えて次のような分担がある
3 色彫 色板の彫り
☆ 文化年間(1804~1817)
◯『江戸風俗総まくり』(著者・成立年未詳〔『江戸叢書』巻の八 p28〕)
(「絵双紙と作者」)
〝やう/\文化度より、卦算廻しといふ画始りぬ、声のどかに一枚絵双紙と売来るも次第にうせたり、此
一枚絵といふは他図にて賞する江戸錦絵にて、吾が父常に物語られしは後世恐るべきは天明安永の頃は、
錦絵の板に彫るに下絵の如く役者の目の下なんとうすく色どるを、ボカシいふ事奇工のさまざま出たれ
ども是を彫る事あたはず、是をすりわくる業を知らずといひしが、今はボカシのみかは白粉さへ其まゝ
すりわけ、髪に面部の高低までも彫分摺わくる、奇工妙手の出来たりといはれき〟
〈この記事は文化期以降のもの。明和の錦絵出現後、錦絵の彫り摺りの技法は長足の進歩を遂げたという。天明頃まで
摺り分けられなかったボカシが今では可能となり、更に白粉(胡粉)さえ摺り込むことができるようになったと。ま
た「髪に面部の高低」の「高低」とは凹凸という意味であろうから、髪や顔面の表現にも「空摺り」や「きめ出し」
といった技法が自在に使われるようになったというのである。この時代は、画工のみならず彫り・摺りの面でも「奇
工妙手」が出現した時代なのである〉
◯「川柳・雑俳上の浮世絵」(出典は本HP Top特集の「川柳・雑俳上の浮世絵」参照)
1 板木屋がこれは下手じゃと彫る名乗「卯花かつら」 正徳1【続雑】
〈腕自慢の彫師〉
2 こまかにうごく版木屋の腮(あご) 「松のしらべ4」寛政5【続雑】注「彫工」
☆ 弘化三年(1846)
◯「古今流行名人鏡」(雪仙堂 弘化三年秋刊)
(東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)
(西 五段目)
〝大行灯 フカ川 三田北鵞 板彫 アサクサ 朝倉伊八(ほか略)〟
☆ 明治二十二年(1889)
◯『美術園』第四号「雑報」明治22年4月
〝木版彫刻師
同業の組合ハ一昨年、其筋の認可を得たるよしにて、其後両三度も相談会を開きしが、同組合頭取江川
八左衛門・副頭取宮田六左衛門・同安井台助其他(そのた)役員諸氏の間に、何か明言成がたき事情のあ
りて、兎角折合いあしく好結果を見るに至らず、殆んど組合の名ハあれども其実なきの姿と聞きしが、
現今改良進歩の世の中なるに、僅かの私怨不平等を以て組合全体に関する損益をも顧みざるに於ては、
到底同業の盛栄ハ望むべからずと、弊社の彫工秀明堂主人ハ痛く歎息なし居れり〟
〈彫師の私怨・不平の内容はよく分からない〉
☆ 明治二十三年(1890)
◯『東京百事便』(東京 永井良知編 三三文房 明治二十三年七月)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
「木版」286/413 コマ
〝小川一真 麹町区飯田町四丁目 現今写真木板の泰斗なり
大塚鐵五郎 本所区小梅村二百五十六番地 書画共に彫刻するも就中画法を失せざるを以て有名なり
山本信司 京橋区南鍋町二丁目四番地 書画共に彫刻するも最も新聞画を多く彫刻せり
安井台助 下谷区坂本村二十一番地 書画共に彫刻するも就中細字に長ぜり
松崎留吉 浅草区北清島町七十九番地 細密の彫刻に巧なり総て学術的の彫刻のみなり
江川八郎右衛門 神田区鍛冶町四番地 書画共に細密の深彫に長ぜり
木村徳太郎 神田区旅籠町一丁目七番地 書画共に彫刻するも就中写真木版彫刻に長ぜり
宮田六左ヱ門 日本橋区呉服町四番地 書画共に巧なり最も多く諸官省の彫刻をなせり〟
◯『浮世絵』第十四号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)七月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇「天下一乃げん」扇の舎主人(19/24コマ)
〝 なんですつて絵彫(ゑぼり)の者の伝記が聞きてへつて、什麼(どう)も吾等(わつちら)の手輩(てへゑ)
に そんな気の利いたもナア落つことして置きませんや 唯ネ親父から聴いた咄だが 心持の宜(い)い
男が一人居ました、夫れは天保の末から慶応へかけた事で、芝源助町に絵彫で乃(の)げんと云ふ男があ
つて 是が頭彫(かしらぼり)の名人、今時よく一口に名人だなんて云ふが、吾等に云はせると、名人な
んて云ふもナア、そうヒヨコ/\と吹矢の化物見てへに 飛出して堪るもンヂャァねへ、第一仕事にも
寿命がありまサア、先什麼(どんな)達者な野郎でも二十五から四十迄で、それから過ると情けねへ事に
ヤア、目が悪(あが)る 腕の冴が鈍くなる、例へば線を彫るにもしろ、斯(か)ふ一本入れた刀が四十か
ら以上(うへ)になると、生々(いき/\)した所がなくなちまふ、だから親方となると年は寄る、職は弟
子任せとなるから腕が鈍る、そこを名を落さねへようにするには 人の使ひ別(わけ)を巧くするので、
彼奴(あいつ)に頭をやらして、此奴(こいつ)に字彫と云ふ工合に その人間の得手(えて)/\を見て
仕事をやらせる、其使ひ分けを宜く、つまり仕事はしなくても仕事を見る目がありやア、彼奴は上手だ
と人に云はれる事になるんです。
オヽその用箪笥の二番目から 紙に括(くる)んだものを出ねへ……それだ……御覧なせへ、これが今
云つた、乃げんの彫つた豊国の江戸名所図会で、板元は人形町の伊勢忠です、此所(こゝ)へ雛形に出し
たのは背景(うしろ)を略(ぬか)したが、上部(うへ)のところに見立名所絵がある、例へば四谷新宿なら、
大木戸を見せると云ふやうな工合です、今の奴(やつ)がどんなに歯軋りをしても、かう厚ぼつたく彫れ
ません、と云つて決して現今が拙くなつたと云ふんぢやアねへんですぜ、其所(そこ)を聞違へられちや
ア困る、どうして今の方が昔から見りやア 遙かに巧みになつたが、そこだ、宜いかへ、器用上手と名
人とは違ふよ、此方の画と比較(くらべ)て御覧なせへ、斯ふボツテリとした味(あじゑ)へは 御気の毒
だが足元へも追つ付かねへと云ふ わつちなぞもモウ目が悪(あ)がる、刀も冴へなくなつたが、憚(は
ゞ)ッちながら識見(みる)と云ふ目は例(たて)へ百歳(いつそく)になつても耄碌はしませんぜ(後略)〟
江戸名所図会「二十 内等新宿」豊国画 彫〔乃げん〕伊世忠板 嘉永五年刊
☆ 大正八年(1919)
◯「日本版画について」(淡島寒月著『振興美術』第三巻第二号 大正八年二月)
(『梵雲庵雑話』岩波文庫本 p401)※(かな)は原文の振り仮名
〝木版画は大体、(一)画家(二)版木師(三)刷り師
の三拍子がちゃんと揃わなくっては駄目である。ところが、昔にあっては、この三拍子の内の刷り師だ
けがきわ立って熟達していたので、唯(ただ)単に絵師が満足するだけでなく画そのものまで非常に美し
い物が出来た。当時は原画をかく画家が、簡単に、赤なら赤と書いて置けば充分であった。時には画家
自身さえ想像だにしなかった色が刷師によって出されることさえあった。要するに当時にあっては、こ
の刷師と言うものに偉大な才能と力がなければならなかったので、刷師には画家以上の心得が必要であ
った。こんな理由で万一刷り師が劣いと来たら、まるで気分を壊してしまったのである。また、この版
画の中にも、同じ絵でありながら、一枚は一枚と色のちがったのがあったが、これは金銭なぞの都合で、
刷師が各々別々であったためである〟
〈版画の出来栄えを左右するのは版木師(彫師)と刷り師(摺師)の力量にかかっている。とりわけ摺師の器量によっては
版下絵師が想像する以上のものが下絵にもたらされるという。その具体例が下掲、野崎左文の伝える芳幾画〉
◯「近世錦絵製作法(七)」石井研堂著(『錦絵』第廿九号所収 大正八年八月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション) ※(カナ)は本HPの読み
〝 彫工
彫工と摺師とは、錦絵の完成に就て、どんなにか隠れたる苦心史が有ることゝ察せられる、で其の功
績は、絵師と殆ど同等の位置に据ゑても好からうと思ふが、不幸にして、これまでの世間は、絵師の功
績程に、彫工と摺師の功績を認めて居なかつた、従つて名工の伝記や研究の事柄等は案外伝はらず、探
るべき道の絶無なのは残念である。
(い)錦絵面に署名の前例、錦絵の衰頽期に向いた嘉永以後の錦絵面には、往々彫工の名を署する事が
行はれたが、それ以前の錦絵には(絵本類を除いて)彫工の名を明にすることは殆ど無かつた、たまに
これ有るは、寧ろ異例と見ても好い位である。
錦絵面に、彫工の名の明なのでは、鳥居清忠筆大判錦絵 劇場の図(鶴かめ貢太平記 四番続 一く
わんじん太鼓の狂言)に、
絵師 鳥居清忠 彫工 鶴見嘉七郎
と絵師と相並べて出した例がある、これ等が古い分であらうか、又、鳥居清信筆大判丹絵の美人画に、
「根元画所板木屋七郎兵衛」の名壺有るものがある、板木屋即ち発行者であつたらしい。
板木屋即ち錦絵の発行店の例は、この外にも有る、嘉永後に、湯島四丁目に居て錦絵を出した彫多吉、
又住所は明でないが、同じく錦絵を出した彫正、共に彫工から転業した錦絵屋であつた。
彫工の転業といふに因み、絵師の子で彫工や摺師になつた例をも挙げておかう、初代豊国の実子は、彫工になつたる
が、放蕩にして住所不定なりと、馬琴の『後の為の記』に見えて居る、又、明治まで生存した芳藤の実子も、錦絵の
彫師であつた。
(ろ)彫工の記名、鳥居清信、清忠の年代よりは、ずつと下つて、天保五年の序文有る広重の横画「東
海道五十三次の内、御油」の宿屋の宿札に、彫工治郎兵衛 摺師平兵衛とあるのは、誰も知つて居る例
だが、この二人は、彼の大画集の刻と摺の責任者であつたのだらう。
年代は明ではないが、一陽斎豊国の「奉納御宝前(ママ)」三枚(西村板)に、刻工小泉新八 摺師□□
屋長義の記名あり、嘉永年中 国芳筆大石良雄肖像(海老林板)に、摺工幸之助 彫房次郎と記名有り、
明治二年四月芳年筆 三村治郎左衛門の肖像に、刻師登龍斎勝俊 助刻安岡常次といかめしい記識が有
る、そしてこれ等が何れも念入りの彫や摺の錦絵なるより推せば、彫工や摺師の姓名を、紙面に明記す
るものは、普通よりは一段念入りの作品に限つて居つたやうに思はれる。
(は)嘉永後の彫工、嘉永後の錦絵面に、彫工の名を署する時は、頭名の一字を、左の数例の誰の字の
位置におくのが常であつた、即ち
彫工誰 雕誰 ホリ誰 刻師誰 誰刻刀 誰刻
そして、其の名がはりを挙げて見ると、
嘉永年間 柳太、乃げん 廉吉
安政年間 竹、駒、佐七、庄治、安、宗二、友
万延年間 安、巳の、竹、長、小泉彫兼、小兼九オ、松島彫政
小兼は、木宗版の菅原伝授手習等に見えて居る、幾らか胴ぼりでもやらせた自分の伜を、世間へ紹介したのであつ
たらう
文久年間 竹、政、小兼、朝倉彫長、千之助、二代竹、小金、駒改雕多七、秀勝
(に)彫己(ママ)の 彫駒曾ていふ、私は午年生れなので駒といふ名なのだが、己のは己生んだから、私
よりは一つ兄きな筈だ 役者東海道五十三次(豊国画)の白須賀の猫婆を彫つたのは己のゝ十八の時だ
つた、あの白髪婆の長い髪の毛がちやんと毛筋通り、本はこまかで末広がり、しかもフラリとして一本
も乱れてゐない手際、あの百枚あまりの続きものゝ中、第一等の出来で、当時大に評判されたものだつ
たと。此の白須賀の一枚は、今日之を見るも、西洋小口版にも勝る出来なることが知られる。
万延元年四月 若与版、豊国筆 立(ママ)合「端唄尽」などにも彫己のゝ名が見える、この時代の名工
であつたらしい〟
東海道五十三次之内 白須賀 猫塚 歌川豊国(三世)画「彫巳の」住吉屋政五郎板 嘉永五年(1852)刊
(東京都立図書館蔵)
☆ 昭和以降(1926 ~)
◯『春城随筆』(市島春城著 早稲田大学出版部 大正十五年十二月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)※全角カッコ( ~ )は原文の振り仮名、半角カッコ( ~ )は本HPが施した補記
◇八五 錦絵の彫師と刷師(118/284コマ)
昔の錦絵では美人画に重きを置いた、されば彫師と刷師の苦心も亦美人画にあつた。彫師の方では頭
彫りと称して、顔や頭髪を彫るのが一番六かしいとされて居た。それ故普通の彫師は衣装其の他を彫り、
老手が頭彫りを担当したもので、それが出来上ると刷師の手に廻る。刷師の方でも最も骨の折れるのは
やはり面部や髪の毛等であつた。つまり筆者が如何に巧みに画を書いても、之れを旨く彫り又良く刷ら
ねば筆意が発揮しないので、此の意味に於て錦絵は一種の総合芸術であつた。従つて彫師と刷師はピツ
タリ腹を合せ、作者の気合を十分に心得ての上で無ければ成功せぬものであるが、どういふ訳か昔から
彫師と刷師とは非常に仲が悪く、常に何かと苦情を言うたりケチを附け合うたり、全く犬猿も啻(ただ)
ならぬ有様であつた。たゞ其の上に作者が在つて双方に対し絶えず八釜しくいふ為め、どうにか物が出
来上るので、彼等のみに任せて置けば仕事の成績は全く挙らなかつたに相違ない
彫師と刷師とは単に与へられた原稿通りに彫り、それを其の侭刷れば能事終るといふ訳で無く、前に
云うたやうに其の画家の心意気をよく理解せぬと、彫りも刷りも旨く行かぬ訳であるが、それに付今日
生き残つて居る彫師で、錦絵彫刻の奥義を心得て居る者の語る所によると、美人画を彫る者は若い者で
無いといかぬ、老人の彫つてものは、普通の人には分らぬけれども、其の道の者に見せれば、何処と無
く堅くて、生気に乏しい、若い気分が刀端に現はれて来て初めて画が生きて来る、それ故昔は美人画を
彫る者は常に遊郭に出入りした、それは単に道楽者が事に託しての遊びでは無く、やはり若い女に親し
まねばさういふ気分になれぬからであるといふた。芸術制作上に気分が大切であるとすると、之れも一
理あることだ。
◇八六 版木芸術の行末(119/284コマ)
版木の彫り方に就て其の道の人から一二聞いたことがある。享保あたり若(もし)くはそれより前の版
木の彫り方を見るに大体深彫のものが多い。何故かと尋ねて見ると、昔は彫り方が後世と違つて、後世
は先づ刀を字なり画の輪廓なりに着け初め、すべて細い処を彫り終つて、最後に余白の処をノミで浚ふ
ことになつてゐるが、昔は逆に、先づ余白にノミを突き込んで中央から四囲に及ぼして浚ひ、それから
字や画に着けたものである。深く浚ふだけ骨も折れ敏速も缺く訳であるから、追々浅ぼりとなつたのだ
といふ。尚(なお)昔から版木を彫る法として必らず版木を机案の上に置き、枉げたり倒さまにするやう
なことなく、厳格に位地を正して刀を揮ふことを常例としたといふ。乃ち版木を顚倒すれば彫り易い場
合もあるが、それをせぬことが法となつてゐた。一寸考へると、形式に擒(とら)はれてゐるかにも見え
るが、実際は斯くせざれば、刷る場合に墨に淀みが出来、刷毛のサバキがよくなく、刷つた結果もわる
いというてゐる。又今日では写真作用で原稿を版木に貼りつけることが行はれてきたので便利のやうで
あるが、矢張彫師の手腕に待つことが多いのである。先づ写真の湿版をガラスからはがして其れを板に
はりつけるのだが、此の湿版は最も薄きを尚(たっと)び、之れを薄く写すにも之れをはがすにも専門的
技能を要するは勿論である。扨て十種の色があれば十枚の色版が要る、随つて十枚の湿版を作らねばな
らぬが、十枚を同時に写すことが出来ないから、それ/\に多少の相違があり、喰ひ違ひがある筈だ。
だから写真だからというて精確であると過信して其の侭彫つては飛んだ喰ひ違ひが生ずるので、彫師は
写真のみ依頼せず、必らず原書を傍らに置き、それに問うて彫ることなつてゐると聞いた。何の芸でも
局外者の考へる様な楽なものではない。尚又専門家の言ふ所に拠ると、木版彫刻の芸術も最早末だとい
うてゐる。或る説には此の芸術の衰微を防ぐ為めに特別保護を要するといふけれども、それは素人考え
で迚(とて)も維持が出来かねる、と云ふ訳は、昔は五年七年の年季を定めて小僧から打込んだから、其
の習熟で名伎(ママ)も出来たのだが、その年季奉公は今の時代に行はれず、年季奉公でなくとも、五年七
年の修業は今時到底出来難い、そこへ保護などあつては、ます/\気が緩むばかりで、到底維持は困難
である、要するに斯の道の持続は必らずしも生活問題にのみ繫つてゐないと語った。
◯「錦絵を彫る職人」靄軒叟著(『彗星 江戸生活研究』昭和二年(1927)十一月号)
(国立国会図書館デジタルコレクション)(10/29コマ)
〝 板画といつてもこゝでは錦絵を主として言ふのである。その板画の彫刻に年季を入れて修養を積み、
一人前の職人で世間へ出られるやうになるのは中々容易でない。
先づ年季小僧にはひる時には親方になる人から試験をされる。年季小僧になるのは大概十一二からが
多い、そんな小僧ッ子、刀などは手に触れたこともないものに、物を彫らして見ることは出来ないが、
其者の手筋の器用無器用を試すにある。その方法は神棚へ切火を打たすのだ。右の手に火打鎌、左の手
に火打石を持たせカチ/\と遣らせる、手先の器用な小僧は火花がパツ/\と鮮やかに出るが、無器用
な奴になると音ばかりで火花が出ないから、この試験によつて親方がその小僧を仕立てる方針を定め、
此奴は頭彫りになれようとか 又銅彫りが関の山だらうとか将来を卜して古稽(ママ)させる。中には無器
用な手付で切火を打つた小僧が案外な結果を見るのもあるが、十中七八までは切火の巧拙で其ものゝ前
途は予知される。現在ではこんなことはしないさうであるが、昔はこれが板木屋へ小僧にはひる時の慣
例試験であつた。
彫工、即ち板木屋には文字彫りと画彫りと分業になつてゐるは世間衆知の通りであるが、画彫り専業
のものでも稽古彫りの順序は、浄瑠璃の丸仮名であつて義太夫の五行本である。これが容易にふつくり
と丸味を持たせて彫れるものでない。その彫り方は浄瑠璃本を桜の板に貼りつけ、写物をするとき籠字
にとるやうに文字の周囲へ刀を入れる。その刀の運びが少しついて切り廻せると、段々に六行もの七行
ものと細かい文字に移るが例で、この間が大抵二年間ほどは稽古しなければならない。それも初めは子
守りや追廻しに使はれるのだから、首ツ引に刀で板木をつゝ突くのは早いので十四五だ。斯うして居る
うちに画彫りの方では、菓子袋とか団扇の裏画とかいふやうな簡単なものを彫らせられる。文字彫の方
では其修行もまた違ふのは言ふまでもない。今までむだ飯を喰はして著物を著せて来た取り返しはこれ
からで、ポツリ/\職業に就かせることになる。此頃になつて始めて此奴の手腕は伸びるとか、または
生涯平凡(ぼんくら)で終わるとかいふことがハツキリする。幾ら平凡の手椀でも刀を握つて板木に向
つてゐれば、一人口は過されたもので、首尾よく年季を了る時分には下手は下手なりに、切付合巻や玩
具絵ぐらゐは彫れる。で、気のきいた世渡りの上手な者でも、同業の下職で泳ぎ歩いて貧しい生活に終
るのである。
これに反し、小手の利くものはズン/\手腕が伸び、丸仮名が何(ど)うにか斯(か)うにか切廻しが付
くやうになると、画の彫りに刀を染めさせられる。こゝが修行をして来た手腕試しであつて、画彫りの
小手調べである。初めは切付合巻または一寸とした大錦の模様などを彫るのだが、それも見立物のやう
な上物の板木には刀を入れさせない、大錦でも並物と称する新狂言の似顔画の色板である。切付合巻に
しても頭は大抵兄弟子で草双紙を彫る程度のものが彫る。草双紙即ち合巻物を彫るものでも余程鍛錬の
積んだ者でないと、頭は専門の頭彫りの手習双紙になるのだ。さうして軽い胴彫りに進み、大錦の中に
ある書入の文字、背景の屋台引また風景を彫る。こゝまで来ればその者の手腕は相応に進み、運刀の切
れ味も見えて来ることになる。これが段々と錬磨の功を重ねて合巻類の小道具、また模様でも彫るやう
になると、モウ一ツ端の職人で同業の中でも、あれは何所(どこ)そこの弟子であると言はれる。此時が
大切の修行期、あと一二年で年期が明ける頃で 技術が上達するか平凡でかたまるかの分岐点である。
天稟の技能あるものは頭彫りとなつて妙技を発揮するが 多くは胴彫りどこで漸く合巻の頭を彫るのが
エンヤラヤツトだ。併し胴彫りといつても馬鹿には出来ない、彫竹こと横川竹二郎の甥で鼻萬こと豊田
萬吉のやうな胴彫りの名人もある、とにかく年季明け一二年前は、まだ親方の家にごろ付て居て値の知
れぬ米の飯を喰ひ、小遣銭を貰つてたゞ手腕を磨くを専一に、刀を縦横に揮ふのだから合巻物などには
随分精巧なのがある。時間や賃金にお構ひなしで手腕一杯に伸ばすことが出来るからだ。元来が合巻物
は算盤玉からでは割に合ふ仕事でない、あの緻密な画を丹念に彫るので時間を要すること一通りでない、
如何に生活の度の低い物価の安い時節でも手間賃には当らなかつた。
普通画彫りといふは、読本の挿画、摺物の画、大錦、合巻もの等を彫る職に従事する技術家を総称し
た名であるが、大錦や合巻類を彫るものは、鉄筆を業とする仲間(注1)にては画彫りとは言はないで、
あれは大錦屋だ合巻屋などと軽視して居た。尤も大錦屋でも頭彫りになると立派な手腕もあり、読本の
挿画を彫らしても水際の立つ彫刻家もあるから、さう侮りの眼で見られて居ない。大錦屋の側でも頭彫
り・胴彫り・色彫り即ち色板を彫るもの、またナツボウ(注2)などの文字でなく、戯作者の署名した書
入、その画面に就ての説明書になると文字彫り専門の手に掛けることになる。なほ頭彫りといつても一
流でパリ/\してゐる者は、其刀のナツボウは刻み込んでも、実際のところは美人ものでも役者もので
も顔と生際の毛割りより刀は下さない、頭髪、殊に女のあたまには櫛笄簪など種々の装飾品があるが、
これを専門に彫る職人もある、また女の髪の毛がき即ち通し毛ばかりを得意で彫る職人もあつた。又胴
彫りにしても衣紋などの線を彫るもの、模様を彫るもの、背景の風景や屋台引を彫るものと分れ、また
浚ひといつて彫刻しない板地を鑿でコツ/\浚ふ下ツ端ものもあつた。こんなやうに一枚の板下画が墨
板になつて筆者の手許へ校合摺の廻るまでには、六七人の手で捏ね廻し、色さしとなつて色板を彫るに
ほ二人か三人の手数が掛ることになる。最も普通ものゝ画には斯うした手数も掛けて居られない、が、
特殊の上物になると一流の頭彫りが助手の手を煩はさず、胴彫りも背景も一人で捌き これ見てくれと、
画工と技を争ふ立派な美術品と思はれるのもある。国芳ものを自慢で彫つた名人須川簾吉の刀を揮つた
大錦で、国芳慢画(ママ)の銘打つて出た簾吉の彫つた侠客物の図の如きは、頭は元より胴彫りも模様も背
景も刻され、緻密な模様などにも一もムダ彫りをせず仕揚げ、一流の刷工が一度見当を合せば狂ふこと
もなく、色と色の重なつたり隙を生じたりする所が兎の毛ほどもなかつたと言ひ、亀戸豊国ものにも豊
国の顔を得意で彫つた彫竹と胴彫りの名人鼻萬との合作がある。これらは彫刻の知識のない門外漢が見
ても、其鮮かさ見事さが直覚に映じて板画とは思はれないのは、錦絵通の先刻御承知のことである。
世間から画彫りとはいはれず、大錦屋さんで通つてゐる連中になると 主に純粋の職人肌で、熊さん
八さんの徒と変ることがない、懐中に幾らでもあると酒を飲んでしまひ、何時も著たまゝで随分尻切半
纏一枚で弥蔵を極める低級な兄イもあつたが、大抵は襟付の半纏に平絎の三尺帯がその礼服で 手間賃
を貰つた時などは切れ放れの好い銭を遣つたさうだ。そこへ行くと頭彫りの職人になると、常におめへ、
おれで通る我雑(がさつ)な職人気質に馴れてゐても、チヤンと長物を著て中には角帯をしめて居たもの
もあつた。大錦屋さんの平職人より品位も稍々高く、随つて親方にしても問屋にしても軽く扱はなかつ
た これは常に文字彫りの多い山の手の御家人と交際して居た自然の感化らしいとい云ふことだ。山の
手組の御家人には文字彫り殊に合巻類を内職にして、また画彫りを内職にするものが多く、文字彫りで
は江川派、木村派が下町にあり、山の手には宮田派があつた。御家人組で合巻の頭を彫る別派の頭目は
四谷左門町の竹内熊次郎といふ人、此人が御家人の大錦屋さんを統率して盛んに彫り、その後に山の手
名人と言れた永山や芹沢の両刀(りやんこ)挿が出て、胴彫りの名手と呼れた島田あり、また市ヶ谷の
蛙屋敷に長太郎も居た。牛込の榎町、半蔵門外火消屋敷、千駄谷新屋敷などには団をなして御家人の文
字彫り画彫りがゐて、この連中と職業上から交際することが多くなつた。で、見やう見真似に羽織の一
枚も引ツかけ、風俗でも動作でも野鄙の姿は幾分か少なかつたが、腕ツ節の強い職人には随分キビ/\
した気象に富み無邪気な勇者もあつた。
大錦屋さんのうちでも殊に頭彫りは画に艶を持たせることが大切である。活気の横溢した壮年時代は、
その刀跡は拙であつても何所となく覇気が満ちて艶を含むが、老熟すると捨て難い妙味は出ても何とな
く荒涼を感じさせるは、特に大錦や合巻の画彫りばかりではない、何れの芸術にも通有性であらねばな
らぬ。時世粧を描く浮世絵では就中艶といふことが一大事で、風俗美人絵の生命とされる、武者絵にし
ても勇壮の状が消え藁人形のやうになる。彫工のうちでも画彫りは殊にこれが必要で、年を取るに従つ
て段々と刀が切れなくなる。手腕に錆が出て妙境に入ると艶気が減るので、彼の名工彫竹の如きは常に
花柳界に入浸つて馬鹿をつくして居たさうだ。それが決して天窓兀げても浮気はやまぬ、的の道楽でな
く、その職に忠実であつたのだと香取緑波といふ彫工から聴いた事がある。同人の談に老大工の亀さん
は、朝四ツ(今の十時)までは鉋も切れるが正午頃から駄目だと言つて仕事をしなかつた。それは朝一
時は年を取つても壮時の様に仕事が出来るが、正午頃になるとモウ精力が衰耗するからだ、又声曲に衣
食する芸術家が艶を失はない為に 花街柳巷の地に出入りして 若い孫のやうな女に接触するも同じ理
であると言つてゐた。
山口寒山(若州小浜藩の儒者山崎闇斎門)の『雨滴夜談』中にも「我家に出入する剞劂師粂次といふ
者あり、齢既に耳順に達し家もなく妻子もなし、瓢と東西に流寓し食客となる、然れども刀を握つて板
木に対すれば、妖麗華を欺く美人を刻す、故に何れに到るも歓待を受くること極て厚し、常に一刀を懐
にして今日は神田に在れば明日は芝に遊ぶ、一夜陋屋に来つて快談す、談偶々業体に移り、予剞劂を職
とするもの壮年にあらざれば能はずと聞く、汝が如きは今にして死所を定めざれば 行路餓莩(注3)し
終らんと一笑す、粂次微笑を含みて曰く、否猶十年は憂慮するに足らず、鬢髪霜を見ると雖も此腕壮者
を凌げり、柳橋の月に憧憬し北里の花に浮動し、刻する処の美人に嬌姿衰亡せざらん中は、粂次の生命
何ぞ竭くると云んや云々」とあつて 其奇行を列記してある。粂次の伝は未詳ではあるが要する頭彫で
あらう、六十にして彫る画に猶愛嬌のありしは、若々しい気質で爺染みなかつたに違ひない。こんな現
象は特に画彫りにばかり見る訳でない、文字彫りにもあるやうに聴くが、これらは特別もので普通の画
彫りは二十歳前後から四十五六までを生命とする、モウ四十七八となると下り坂で刀の切れ方が鈍つて
来る。年を積むに従つて刀法は整然と極つて来ても 画彫りに大切な艶が失せて寒風に吹き曝された乾
鮭のやうになつて了ひ、何となく寂寥の気が満ちて明るい陽気な感じがなくなる。さうなると最うおし
まひである。
付言、この談は彫勇・目藤・円活(二代)の彫工、芳幾・豊斎の画工、現今彫工の重鎮大塚、刷工阿
部、香取の諸氏から聴いて置いた談話を総合した画彫り職人にホンの輪廓ばかりである〟
(注1)「鉄筆を業とする仲間」は篆刻家
(注2)「ナツボウ」は「戯作者の署名した書入、その画面に就ての説明書」などを指すようであるが、表記不明
(注3)「餓莩」は餓死
◯「明治初期の新聞小説」(野崎左文著 昭和二年刊)
(『増補 私の見た明治文壇1』p80 東洋文庫 平凡社 2007年刊)
(八)新聞挿画の沿革」1
〝芳幾の作をその下絵で見るといつも貼紙をして改描(かいべう)した痕跡を存(そん)し、又線書きも肉太
で別に綺麗な絵だとの感じも起らぬが、一旦剞劂師の手を経て刷上つた処を見れば、殆ど別人の筆かと
思はれる程優美なものに出来上り、且その画面に艶気(つやけ)を含んで居るやうに見えた〟
〈芳幾の描き直しの多い線の太い版下絵も、彫師と摺師の手にかかると、まるで別人の筆かと思われるほど変貌して、
優美さと艶気がそこに生まれてくるというのである。芳幾の意を汲んだ彫師と摺師が、芳幾が望むような出来栄えを
実現する、別にいえば版下絵にはない優美・艶気を、彫師と摺師の器量が可視化するのである〉
◯『本之話』(三村竹清著・昭和五年(1930)十月刊)
(『三村竹清集一』日本書誌学大系23-(2)・青裳堂・昭和57年刊)
◇「須川簾吉」
竹内久一翁の話に、東錦絵の彫りも摺りも極盛は弘化頃ならむ、其の頃須川簾吉といふ彫刻名人にて、
簾中の婦人の顔を彫る、いたく国芳に愛せられたり、簾吉の名あるもの世に存せり。又曰、黄汁絵の黄
はズミを用ひたり。藍絵の藍は、濃くするには藍へ墨を加ふ、藍は変色して脱色する故、後には墨のみ
残るなり云々。竹清私謂黄汁絵の説いかにや〟
〈簾吉の読みは「れんきち」だろうか。黄汁絵不明〉
◇「文字ほり」
〝生田可久君の話に、此頃板木師の手間を一時間一円といふ規定にするといひたれど、さうもまゐらず、
とうとう八十銭手間ときめる、字ほり一時間四字のよし、老板木師は嗤ひて、むかしの筆耕ほりは一時
間二十三字は常のことなりしといひき、今小梅の木𨫍【鈴木】といふが文字ほりの上手とぞ。大正十一
年のことなり〟
◇「板木師の小刀」
〝板木師の小刀は、もとは傘屋切出シといへる小刀を、巾狭く削りて用ひしとぞ、この狭く磨りへらすは
小僧の仕事にて、小僧はこれで泣いたものゝよし、維新後は小柄(こづか)が沢山払物に出でたれば、こ
れを用ひたり。信親は刀工より印刀鍛冶となりし人にて名人なり、二代は下手、弟子に上手がゐると、
これも生田君の話。〈前条の末尾に「大正十一年七月四日生田可久君話」とあり〉
◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))
※ 初出は『日本及日本人』229号-247号(昭和六年七月~七年四月)
△「第三部 彫刻師」「四 文字彫と絵彫」
(文字彫と画彫)p137
〝彫刻には文字彫または筆耕彫というのと画彫との二ツがある。文字を彫る者は専門に文字を彫り、画を
彫る者は画ばかりを専門に彫つて居るやうに思ふ。実際も文字彫と画彫とは相分れて両立してゐるが、
彫工が修行するには文字彫から入るを例としてある。文字さへ彫れると画もまた彫れる。古来画彫で名
を成し上手と云れた彫工で文字の彫れないものはない(中略)彫工の方では文字彫を以て斯業の上位を
占め、画彫は次位におかれている。
此の画彫と云ふは読本の挿絵で、大錦即ち東錦絵などの彫刻を云ふのでない。読本の挿画は色摺もので
はない、多く墨一遍摺の絵であるが、画工が意を用ふることも他の絵よりは一層深く、背景から模様に
至るまで緻密で、何れも其の腕前を是て見てくれと云はんばかりに競ふものである。彫工の方でも読本
の挿画を彫るには手腕が十分に出来て、小刀の切れが自在でないと能はないのである〟
(大錦屋)p138
〝錦絵を彫るのも読本の挿画を彫るのも、同じく絵を彫る画彫に違ひないが、錦絵や合巻ものゝ絵を彫る
のは、斯業者間には画彫の名は与へなかつた。彫師と云ふ名称も附せず、あれは大錦屋だと云つて、彫
工の内でも下位に置かれて居たのである〟
〈書物問屋が出版する儒仏史書等に関わる彫師と、地本問屋が出版する錦絵や合巻に関わる彫師とは、同じ彫師であり
ながら明確に区別されていたようである。これはお互いに仕事の領域を侵さないよう守っていたとも言える。ただ読
本と絵本の挿絵については、戯作者や浮世絵師の作品でも、これは書物問屋の出版でもあったから、絵彫が担当して
いたのだろう〉
(異なる職人気質)p140
〝文字彫は多く山の手にあつて、重に御家人の内職に成つて居たので、親分や問屋向きでも平職人の扱ひ
はせぬ。随つて常に是れ等の御家人と交際する文字彫職人も自然の感化で、お前、私で我雑の職人気質
に馴れた者でも、襟付の半纏に平絎の三尺帯で弥蔵を極る風俗をせず、一寸と気位も高く品も好い傾き
もあつた。
また絵彫の大錦屋専門となると、生粋の職人であつて熊公八公の徒に過ぎないが、同じ斯ういふ側に属
しても合巻専門に彫る者は、大錦の職人より稍真面目な処がある(合巻物の彫りは御家人主体の山の手
が専ら手がけているから、下町住の合巻彫師もそことの交わりが生じた、それで)見やう見真似に羽織
の一枚も引掛けるので、幾分か風俗の上について野鄙な姿が少なかつたさうである。腕つ節のある大錦
屋の職人と来たら、生一本の職人肌で一面から云へば、キビ/\した処のある無邪気さが買処であらう
が、又一面から見ると殆ど気狂染た振舞をして居たものである〟
(合巻物の彫が山の手に集中する理由)(「第三部 彫刻師」「三 近代の彫工に就て」p134)
〝(四谷・市ヶ谷・牛込・千駄ヶ谷には)団を成して御家人連の彫工が手椀を競ひ、合巻物は大抵是れ等
の手に依つて出来て居る。小禄ながらも扶持米を貰つて糊口の心配はない、手狭ながらも雨露を凌ぐ家
はある。御家人連の小遣銭取りの内職で、是れに依つて生計を立なくても宜いのだから、暢気に刀を動
かして賃銭などには余り関しないで、丁寧に深切に彫揚げるが此の山の手の特長とされ、一丁の絵と文
字に幾日を費すも其麼(そんな)ことは平気であつた。夫れで比較的安い賃銭で彼の細密な合巻が彫れた
のである(中略)絵が緻密な上に細かな書入れがべつたりある合巻を、一丁五匁や六匁で彫れるもので
ないから、自然合巻物は山の手に流れ込むやうになつた〟
△「第三部 彫刻師」「七 頭彫と胴彫の分業」p147※ここでの(よみかな)(漢字)は本HPが施したもの
〝大錦屋の彫工には(中略)頭彫と胴彫りとがあつて、頭彫りは頭部ばかり即ち顔面から毛髪の一局部を
彫る者で、其の他の処に刀を下すことはせぬのだ。同じ頭の中でも女の髪には種々装飾がある。櫛であ
るとか笄(こうがい)であるとか乃至(あるいは)釵(かんざし)などの類があるが、此の装飾物に対して頭
彫りの責任がない。夫れ等の処は遠慮なく残して置いて、金輪(際)刀を降すもので無いのである。是れ
等は胴彫りを引受けて彫る職業者の管轄範囲に属するのだ。胴彫りとは云(へ)ど必ず胴ばかりを彫るの
で無く、頭以外の処を引受けて彫るので、絵その物の全局に就ては最も多き場面に刀を耕し、最も多い
労力を費して仕揚げて居るのである。又この胴彫りと云れる中にも単に人物の身体を彫るのみでない。
背景も彫れば屋台引きも彫る、手廻りの道具も彫れぱ色板も彫るのだから、頭部を除くの外は皆胴彫り
方の手数を要する〟
〈錦絵や合巻の彫りには頭彫りと胴彫りとがあって、頭彫りは頭部の顔面と毛髪のみ、胴彫りはそれ以外のすべてと、
それぞれ役割分担が決まっていた。分担は技術的な能力によって分けられ、上位のものが頭彫りを下位のものが胴彫
りを担当する。そしてこれがさらに細分化されていて「四 文字彫と絵彫」の記事(p139)にはこうある〉
〝頭彫りにしても、実際に手腕を有する頭彫りは顔と生際の毛割より彫らない。髪の毛、殊に女の髪には
種々の装飾物があるから、之を彫る者がある、又女の髪の毛書「通し毛」ばかりを得意で彫つたと云ふ
者もある。胴彫りにしても衣紋の線を彫るものは線ばかりに刀を入れ、模様を彫るものは模様ばかりを
彫り、背景の景色に屋台引き等を彫るもの、また浚ひと云つて彫刻しない分を鑿でコツ/\浚ふものも
ある〟
〈頭彫りの専門分野 1 顔と髪の生え際の毛割り 2 櫛笄簪等の装飾物 3 女の通し毛(毛筋)
胴彫りの専門分野 1 衣服の線 2 衣服の模様 3 背景(家屋内外)の景色
4 文字や図様のないところを浚って凹面にする
生業の支えである職域をお互いに侵さないようにするためであろうか、分業が徹底している。さて以上のなかで、彫
りの技術的最上位にあるものが頭彫り1の顔と髪の生え際の毛割りを担当する。ここが錦絵彫師の頂点なのである。
ここであらためて彫師とその仕事分野を整理すると以下のようになる。
文字(筆耕)彫師:書物問屋があつかう儒仏経典・史書・古典の文字
絵彫師:絵本・読本の口絵挿絵
大錦屋:錦絵・合巻の口絵挿絵
彫りの技術上の優劣は別として、どうやら彫師としての格はこの順番であったらしい。加えて大錦屋の場合は、技術
上の優劣に応じて、頭彫り・胴彫りに分類され、さらにその頭彫り・胴ほりも上掲のように、仕事が細分化されてい
る。錦絵の彫師の頂点である頭彫り、取り分け「顔と髪の生え際の毛割り」の領域に達するためには、越えねばなら
ないハードルがたくさんあるのである。
ところで、その錦絵の場合、その彫りがどのような分業体制になっているのか。前出「四 文字彫と絵彫」の記事
(p139)で見てみる〉
〝大錦などにでも書入れのある文字、絵の標題ぐらゐの簡単な物であれば、一々字彫りの手に掛けないで
彫つて了つたが、戯作者が署名して書入れたものや、絵に就ての種々の説明を少し長く書いたものに成
と、文字彫の手に渡つて其の部分を彫らせるから、文字彫、顔(ママ)彫り、胴彫り、色彫り即ち色板を彫
るもの、一枚の絵を彫揚るに少くとも三人四人の手に掛つて居る(中略 しかも頭彫りや胴ほりは上掲
のようにそれぞれ1~3および1~4の役割分担があり、それに応じた彫師が配置される)
一枚の絵が墨板となり、校合摺を画工の所へ送るまでに、七八人の手で捏ね廻され漸(やう)やう出来、
色ざしが成ると、今度は色板を彫るのだが、之れにも亦た三人以上の手は要する事になる。一寸と考へ
ると彫工と云へば顔も手足も胴も模様も背景も、皆一人の手でちよこ/\彫揚るやうに、雑作なきもの
ゝ如く思へるが、中々其様ちよつろかな(ママ)訳に往くもので無い〟
る〟
△「第三部 彫刻師」「七 頭彫と銅彫の分業」p150
〝寛政頃までは彫工にも頭彫り胴彫りの区別なく、従つて分業に成つて居なかつたので無からうか。荻野
荻声と云ふ人の『荻の葉風』と題する随筆に「近いころまで板木をほりて渡世にいたすものは、板元よ
り頼まれたる絵は己れ一人にてほりしものなり、弟子どもには中々に代ほりなんどをさせしものにあら
ず、幾日かゝるとも忠実やかにはんこうと首引きしたるものなるに、此のごろ久し振にて下町に出たる
かへるさ、湯しまの三八がりを尋ねぬ、机のしたからは酒の香の立ちそめ、三八は熟柿の如き息をはん
こうに吹きかけ絵をほる、誰れの絵かと問へば今はやりの春章の美人絵なりと答ふ、頭さし出して見れ
ば如何にも見事なる絵なり、傍らに首だけほりたるもの二三枚ありけるが、今ほり居たるはんこうも、
首だけ彫りあがると傍らへ積み、小刀をしまひけるゆゑ、予が訪らひたるより仕事の手を止めさするを
気の毒に思ひければ、暇乞して帰らんとす、三八あわてゝ袖を引止め先生帰るに及ばず、某の仕事は之
れにて終れり、これより共に一杯の酒に久澗の情を温めんと勧められ、然らば馳走にも成らんがはんこ
うの首ばかり何枚もほつて、跡は何時ほるやと問ふを、三八大口あいて笑ひ出し、先生は物に疎い人な
り、近頃のはんこうやは首を彫るものと、胴をほるものとは別々に成りたり、お蔭で某は首をほり居れ
ば工銀も多く仕合せなりと語りぬ、その心をとめて見るにはんこう彫りの上手なるものは首ばかり彫り、
次なる者がからだを彫る事になりしは、絵彫職の仕合せと云ふべし云々」とある。此の著者は「戯作者
年表」の享和年問の備考の部に其の名も列記され、随筆中の記事も天明から寛政享和ころのものが多い
のを見ても、近頃と云るは寛政年代ならんと推定する事も出来ようと思へば、頭彫りと胴彫りの分業し
たのは当時からであらううと推断向するのだ〟
〈荻野荻声の随筆『荻の葉風』は未詳。「日本古典籍総合目録」にはなし〉
◯『小精廬雑筆』(市島春城著 ブツクドム社 昭和八年(1933)十一月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)(56/261コマ)
※全角カッコ( ~ )は原文の振り仮名、半角カッコ( ~ )は本HPが施した補記
◇二四 亡びんとする木版彫刻
日本の木版彫刻は世界に誇る得べき固有の芸術である。日本の文化がどれほどこの芸術に負ふ所があ
るか絮説するまでもなからう。洋風の印刷術が開けた結果、惜いかな、今は追々この芸術が亡びかゝつ
てゐる。自分は他の同人と十数年稀書の複製を続けてゐる為めに斯道の名工と親しみ、折に触れて、彫
刻芸術の実際を耳にする便利がある。爰に聊か専門家より聞く所を語つて見よう。
現在東京の木版彫刻業組合のものは僅に百余人しかない。木版印刷業者の数もそれに準ずる。彫刻業
には字彫があり、絵彫があり、頭彫があつて、各々その業を分つてゐる。頭彫とは人物の肉体部を彫刻
するものを云ふので、これが一番むづかしい。即ち第一位を占むる上職人である。これが今日果たして
幾人あらうか。字彫と絵彫とを兼ねて能くするものは勿論名人である。印刷の方も墨摺りと色摺の二つ
に分れてゐるが、今日では専門の墨摺職は極めて少ない。
昔は御家人が内職に彫をやつたが絵彫や頭彫などは、矢張専門職工で無ければ、出来なかつたので、
御家人がやつたのは、大抵字彫であつた。
彫は一寸考へると機械的のやうに思はれるが、実は矢張り精神的修養を要するとその道のものは云つ
てゐる。美人彫りの上手と謂はれた或る彫工は常に遊里に出入した。人はその放蕩を嘲つたが、実は成
るべく若い女に接近する機会を作つて気分を若やがせる為めであつた。彫刻師も気分を尚(たっと)ぶこ
と創作家や画家に譲らぬのである。版木を見たばかりで、老人の彫つたのか、壮年の彫つたのか判断が
出来ると、老練の版木師は云ふてゐる。
版の彫方に就て古今多少の変遷がある。享保あたり、若くはそれより以前の版木の存してゐるのを見
ると、大体頗る深彫である。何故かと聞いて見ると、彫方が後世と違つて、後世は刀を先づ字や画の輪
廓に着け、余白の処はノミで浚ふが例となつてゐた。大体浅ぼりであるが、昔は字や画の輪廓に先づ刀
を着けず、余白の中央にノミを入れて、周囲に段々広げて彫つて行くのを例とした。後世よりはいくら
か骨も折れ、敏速を缺いたわけである。専門家の云ふのに、版を彫る時は、厳正に版木を机案の上に置
き、字も画も正しい位置に置いて刀を揮ふことを例とした。言ひ換れば、板木を顚倒すれば彫りやすく
あつても決してそれをせぬことが法となつてゐた。これは形式に擒(とら)はれてゐるかにも見えるが、
そんな訳ではなく、斯くして彫らねば、刷る場合に墨に澱みが出来る。刷毛のサバキもよくなく、随つ
て刷つた結果がよくないからだと云ふ。
今では写真(湿板)で写したのをガラスよりはがして、それを板に貼りつけるのだが、このはがした
湿版は薄いのを尚ぶ。勿論薄く写すのもこれをハガスのにも専門的手腕を要するのだ。理窟から云ふと
色版を幾枚か作るに、同じ物を写真で幾枚か写し、それを色それぞれの版下の絵に充つればよいやうで
あるが、実際は同じ物を五枚写せば五枚共多少の相違があるので無造作に同じ物を略(ほぼ)同じ時写し
たからと云ふて、それに依頼するとトンダ喰違ひが生ずると云ふてゐる。如何にも全く時を同じうした
写真でない以上は、いくらかの違ひはある筈である。彫師が唯写真にのみ依頼せず、実物を傍らに置い
て、之則るのはこの故である。