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浮世絵文献資料館
浮世絵師総覧
☆ ほりもの(いれずみ) 彫り物(刺青 入れ墨 文身 黥)
浮世絵事典
◯『街談文々集要』p225(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序) (文化八年(1811)「入墨子御触」) 〝 一札之事 近年軽キ者、
ほり物
と唱へ、総身へ種々之絵又ハ文字等を彫、墨を入、或ハ色入等ニ致し候類も有之由、 右体之義は風俗ニも拘り、殊ニ無疵之総身へ疵付候は、銘々恥入可申義之所、若者共却て伊達と心得候 様、諸人之陰ニてあざけり笑ひ候をも存はからず、近頃ハほり物いたし候者多く相見へ、不宜事ニ候間、 向後手足ハ勿論、総身へほり物致間敷候旨、能々町役人共より申聞、心得違之義無之様、可申諭候、且 又右ほりものいたし遣候者ハ、人之頼ニ任セ候とは乍申、可忌嫌かたを不差構、好ニ随ひほり遣候ハ、 別て不埒之事ニ候、此度吟味之上、夫々咎可申付候間、自今相止候様、町役人共より能々可申聞候〟 ◯『藤岡屋日記 第五巻』p117(藤岡屋由蔵・嘉永五年(1852)記) ◇彫物師処罰 〝(嘉永五壬子年六月十五日、山王権現祭礼において、静人形の山車を引く本湊町の若衆) 体中
彫物
之揃にて、上に紗乃襦袢を着し目立候よし。 是は、当所船頭之多き所にて彫物多く、夫より思ひ付、外之者も今度新キに彫候よし、十一才の子供壱 人彫殺され候由、外に九才、七才二人之小児彫殺し候由申候得共、是はうそにて、実は背中藍にて書候 よし、右に付、南御奉行之御目に留り、右名前書出しに相成、御呼出し之上、御吟味厳敷、彫物師白状 に及び候処、御先手同心三人之よし、右之者被召捕、入牢致し候よし、是は軽くも御奉公相勤御扶持人 之身分にて彫物を内職に致し候御咎めなり〟 ◯『若樹随筆』林若樹著(明治三十~四十年代にかけての記事) (『日本書誌学大系』29 影印本 青裳堂書店 昭和五八年刊)
※(原文に句読点なし、本HPは煩雑を避けるため一字スペースで区切った。【 】は割書き ◎は不明文字 全角カッコ(~)は原本のもの 半角カッコ(~)は本HPが施した補記。 『林若樹集』(『日本書誌学大系』28 青裳堂書店 昭和五八年刊)にも同じ記事があるので参照した。こちらから 引用した場合、その部分を〔~〕で表示した)
◇巻七(歌川国芳と弟子たち)p185 〝(文身(ほりもの)) それから浮世絵師即ち彼等が仲間でいう「絵かき」の中での仕事も 前にいふ玩具絵・武者絵・美人絵 其他に 凧絵や又さしこ(刺子)絆纏(ばんてん)の絵や 一風違つて「
文身
(ホリモノ)」の絵をかいた ものだ 此ほりものが面白いや ゑかきがぶつゝけに背中に筆をとるのだが 其間は大事にして彫つて 貰ふ 能く人の云ふ通り 其彫る間は〔厠の臭気に当ると腐るといつて〕便所には行けず 野屎をたれ る 湯にははいれず 半病人の姿で仕上げを楽しむのだ 其上金がかかる 一日に僅かほかほれない 先づ畳の目三ッといざるとお仕舞とするの〔が法〕で これが一ト切りといつて二朱 辛抱強い奴は一 日に沢山ほれて 早く上がる訳サ それからほりもの師の処では大勢待つてゐるから 飯時になりやア 〔替り番こに〕飯を奢らなけりやアならずといつて 彼等の事だから鰻飯といふのが通り相場で 中々 雑用がかゝる 彫り上る迄には身分不相応の入費を使ふ だから其出来上つた彫ものを大事にすること 夥しい 先つ第一衣服を着るッたつて 表こそ木綿ものだが 〔肌につく処〕はきつと絹ものをつける 顔や手足は日にやけて真黒だが 背中だけは日に当てることなぞはめつたにない 湯に這入(はいる)つ たつて そうつと拭くといふ始末 何垢すり? とんでもない それは/\大事にしたものサ それから此彫物の見せ場だが 先(づ)第一お祭 これが又面白いネ 霊岸島のお祭りは 能く落語家の いふ様に 三人つゝき(の)彫物が出たことがあつて うそじやァネェ それに其なりが面白いや 花笠 を冠つて 縮緬のふんどしを〆て 大手を振つて歩るくんだが 首ッ玉へ揃(そろい)の衣装を畳んで 結(ゆわ)へて歩くなんざァ 滑稽極るものサ それから諠譁のときァ 先づ第一片肌ぬぎて彫ものを見 せる 湯屋に行きやァ 先づ板の間へドッカとあぐらをかいて 暫く空うそぶいて背中の自慢をしたも のサ 今の様に大きな姿見があるじやァなし 折角のほりものも 自分じやァ 一生チットも見ること ァなし ソリャァ気の毒なものサ それから彫物のなくつてならないものは駕籠かき これは誰でも気のつくことだが 未だ一ツ無くッチ ャならないものがある それは鮓屋の若い衆だ 酢屋になくつてならないものは 大きなかんてらと彫 ものゝある若い衆だ これは朝酢の飯をさますとき 店頭で大きな団扇を持つて扇がせる時の用だ 国 芳の弟子で彫ものゝある奴が 金が無くなつて弱つて居ると 鮓屋へ雇はれて行け 只扇ぐ計りでいく らかになるんだと すゝめられたいふ話がある 彫物をしない奴は無地と言つて 其仲間じやァ軽蔑したものサ 然し身体にはァ昔から毒だといつて しまひにやァ きつとよい/\になるといつた だから国芳と私の親爺はほりものはしなかつた だが 晩年に国芳が中気になつたので 弟子中じやァ皆ンナ不審をして 師匠はほりものはほらぬし中気にな る訳はネエ、こりやァきつとあんまり人に彫物の図をつけてやつた罰チだらう といふことに決めて了 つたのも大笑ひサ 一度国芳がほりもので失敗(しく)じつたことがある 両国の仕事師に頼まれて 頸の所に一匹の蜘を かいて それから肩から背へかけて巣をかけた処の図だ すると其お袋が怒るまいことか 縁起でもネ エッてんで 国芳の所へどなりこんだ 其時ァ国芳も平あやまりにあやまつたといふことサ 役者の坂東勝之助の実父で 芝口に唐草の権太といふ仕事師がゐたが これは足首まで迄唐草をすきま なくほつたもんだ ほりものゝ会があつて 錫◎の頭に蝿を一匹ほつたのが 一等になつたといふ話が あるが これは煙管の会に廿八文の駄きせる多用大事に持ちこんで 地金惣体に吉野紙の様に薄くなつ たのが優等とつたといふ話と同じで 話は面白いがチット啌(うそ)らしい〟
〈これは当時東京美術学校彫刻科教授であった竹内久一(歌川芳兼の実子)の談〉
◯「文身考(三)」揩衣生
(『此花』第六号 大正二年(1913)三月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝(前略)明和年代の富川吟雪絵の「烏勘左衛門(注1)」に、
文身
(ほりもの)師の許に集りて文身する絵 あり、其詞書に、 「若者共集り腕や背中に入ぼくろする『まへかた腕へ如来がきんご(注2)ひいてる所を彫つてやつたら よく出来た』『おれには達磨がめくりに負けて渋紙かぶつてゐる所を彫つてもらいたい』」 とありて、背部へ蛇身の女首(くび)が文(ふみ)を啣(くは)へたる絵を彫るさまあり。 寛政に至りて文身の禁令あり、当時流行の極点に達せし事推量するに難からず、寛政元年 桜川慈悲 成作の黄表紙の「御贔屓他三舛(注3)」あり、流行の文身を以て材料とせしものにて、神田八丁堀に住 める彫者師左甚五郎が、酒興に乗じて友達の背に馬を彫りしより評判となり、伝手を求めて文身を依頼 する者引きもきらず訪ひ来るに、甚五郎も後悔せしが、詮方なく其需(もとめ)に従ひて様々文身をなす、 然るにもとより名工の作なれば文身に魂入りて、犬と猿とを彫りし二人の友達は、日来に引かへ仲悪し くなり、喧嘩をなす事あり、亦路考と団十郎との似顔を彫りしものは、顔形自(おの)づから其名優達の 如くになりて、芝居を催す事あり(中略) 尚当時遊侠の徒の間に行はれたる事は、石原正明の『年々随筆』巻四、癸亥【享和四年】跋(注4)に 「しかるに今の江戸ざまの諸家の召供(めしつかひ)は、侍よりして下(げ)す男に至る迄、皆脛高くかゝ げて赤肌をあらはすを礼節とするならはし也 乱世ならばかやうにせしがつぎ/\しく見えしを、今 も尚このならひのまゝに物するなるべし、下すの限りグワエン鳶(注5)の者などいふに至りては、常 裸にて腕肩のあたりにくさ/\の絵を彫入て墨くろ/\と見ゆるに、青く赤く色どりなどして、父母 の遺体をきざみて風流する、あさましき事なり、こは文身といひて唐国人もいやしむ事ぞかし(中略)」 此後文化文政年代以降に至り、遊侠と文身との関係を言へるもの枚挙に遑あらず、其一二を云はんに、 文化三年の『浮世風呂』の序に、 「目に見えぬ鬼神を隻腕(かたうで)に雕(ゑ)りたる侠客(ちうつぱら)も、御免なさいと柘榴口(じやく ろぐち)に屈むは、銭湯の徳ならずや」 と見え、『随意録』【文化六年之序】巻六(注6)に 「彫題文身、呉越之俗、古(イニシエ)より之(コレ)有り、我方東都の役夫、及び悪少年、身体を刺して藍を 黥(ゲイ)して、以て鬼面人面、蛇龍花木、種々の形状を摸す」 と見えたり、又『燕居雑話』巻之五、丹前立髪六方の條(注7)に 「(前略)今時の侠客めかす者は、名さへきほひとかいひて、肌膚(はだへ)に刺青(ほりもの)し、広袖 の着物に三尺手拭の帯するなど、賤しき限りをしつくし、不道理を云ひつのるを、遊侠の本意を心得 たるも、男たる者の気象風俗ともに、衰へはてたりと云つべし、あはれ季布劇孟等が如き遊侠も出で よかし、男たる者の面(おもて)おこしに」 (以下省略)〟
(注1)『烏勘左衛門出世掛鯛』黒本青本 富川吟雪画 安永元年(1772)刊 (注2)「ぎんご」はカルタ札 (注3)『御贔屓他之三升』黄表紙 歌川豊国画 桜川慈悲成作 寛政元年(1789)刊 (注4)『年々随筆』石原正朗著 享和元年~文化二年(1801-05) (注5)「卧煙(がえん)鳶(とび)」乱暴者の火消し鳶 (注6)『随意録』冢田大峯著 文政十二年(1829)刊。文化六年の序あり。引用部分は巻六。「黥」は入れ墨(文身) 『此花』の引用は振り仮名・送り仮名付きの漢文。煩雑なので〔国書DB〕画像から書き下し文にした
(注7)『燕居雑話』日尾荊山著 天保八年(1837)序。「季布劇孟」とは漢楚興亡時代の武将・遊侠