Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ ほり 彫の工程(彫刻)浮世絵事典
 ◯「版画彫刻の順序」香取緑波〈彫師 香取栄吉〉   (『浮世絵』第八号 所収 酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年一月刊)   〈「丈」を「だけ」と読む場合は「だけ」と直した〉    (字彫・絵彫)   〝 単に彫刻師と申しましても、各々専門々々がありまして幾派にも分れて居ります、これを大別して、    筆耕彫(ひつかうぼり)(字彫) 絵彫との二つになります、此二派が又分れて 仮令(たとへ)ば絵彫の中    にも頭部彫(かしらぼり)、胴彫(どうぼり)とあるやうなものです、で 筆耕彫は山の手に多く居て こ    れは重(おも)に御家人の内職になつて居りました、だから一寸気位ひも高く 随て頭のある人物が多か    つた、これに引かへ絵彫の方は 宵越の銭は持たねへ云ふ生粋の職人肌で 襟附の半纏に帯は平絎とい    ふ風俗ですから、テンデ反りが合ませんでした。     そこで純粋の絵彫と云ふものは近年まで頭彫では彫勇、彫弥太と云ふ二人が残つて居りましたが 前    者は十年斗(ばか)り前 後者は一昨年、何れも故人となつた後は 殆ど錦絵彫と云ふものは絶へて仕舞    まして 今残つて居るのは皆筆耕彫系で、これが絵彫を兼業する有様となりました。    (歌川流の錦絵彫)     先づ今回は絵彫に就いて御話しをいたそうと思ひます、古への春信、湖龍、歌麿、清長、時代の彫方    と云ふものは什麼(どう)云ふ順序でやりましたか分かりませんが、矢張り我々が継承して居る歌川派の    錦絵彫と略(ほぼ)同一であつたろうと思はれます、依てこゝには其手順で御話を致さうと存じます。    (頭部彫・胴彫)   〝 前に云いました通り絵彫の中に、頭部彫、胴彫と分業になつて居ます、云ふ迄もなく頭部をやつたも    のゝ名が這入ると云ふ訳で、例(れい)せば簾吉(れんきち)、彫竹などえ、あれは頭部彫の鏘(さう)々た    るものです、よく一口に「彼奴(あいつ)は胴彫だ」と此社会から卑(いやし)められたもので、誠に詰ま    らない訳で これが本当の縁の下の力持です、そこで可笑(おかしい)のは「かしら彫」は顔面と髪の毛    だけで 若し髷に櫛、釵(かんざし)があれば その分だけは胴彫の管轄に属して居るのです、扨(さて)    これから彫方の順序に移ります〟    (貼込み)   〝 先づ第一、版元から板と版下(草稿絵)を受取る、板は大錦ならば美濃紙大、中錦ならば同二ッ切大、    四ッ切り錦ならば大錦と同じ判で、四丁貼りか、又は二ッ切二丁貼に致すのです。で 此板へ版下を裏    返しに貼込み、横木目で彫る 是れを横彫と称します、尤も縦木目では全然彫れません、即ち縦絵は横    にして、横絵は其侭み彫るので、先づ始めに見当を附けます    (見当)     見当とは摺る時の目安で、板に向つて右の端の下部へ鍵形(かぎなり)と、左の端より二三寸入込んだ    所へ―形(なり)と二ヶ所へ附けます、右の方を「鍵」と云ひ 左の方を「引附(ひきつ)け」と云ひます    (縦絵では是れを尻見当と云ふ)(色板の見当も亦同じ称(となへ)があります)扨彫る時は見当を向ふ    へ廻して反対に右の方を絵の頭にして彫ります、これは何故かと云ふに、元来刀を使ふのに上側を彫る    時は刀の下りた傾斜が緩やかになり、下側を彫るときは自然傾斜が急になります、急になつた所は溝の    ような工合になるから 摺る時自然絵の具がそこへたまります、依つて見当を向ふに廻して彫る、スル    ト摺る時になつて、刀の傾斜が緩やかに成て居る方を自分の手許の方へ廻し、是れに摺刷毛を使つて向    かふへ払ひますから、傾斜の急になつた所に絵の具のたまつて居るのを払ふ事が出来ます、此為に見当    と反対に向かつて彫る理由が生じるので御座います。    (頭部彫)     是れから愈(いよ/\)刀を取ることになります、先づ大概は「頭部彫師」から「胴彫師」へ廻るので    すが 都合に依つて反対になる事もあります、然して手順はどちらでもかわりません こゝには正則に    「頭部彫」より申します。それから毛割(けわり)で、    (毛割)     毛割は(生え際を彫る事で)生際形(はえぎはなり)に切り廻し、先づ富士額の中心より始めて左右へ    割出します、で 髪の毛は地墨の板には彫らず黒潰しにして置き、顔を浚らひ揚げるのです これで胴    彫師へ廻します、胴彫が出来上ると全部墨板の上りとなるのです、    (校合摺・色ざし)     そこで仮にこれを色数十五遍あるものとすれば、生美濃(きみの)へ十五枚校合摺(けうがふずり)をし    て絵師へ廻す、絵師は其れを見て 黄は黄、赤は赤と(色ざし)をする、但し色ざしは都(すべ)て朱を    以てし、是は黄は黄、赤は赤と文字だけを記しつけるので、又白ぬき模様と云つて 仮令(たとへ)ば藍    の潰(つぶし)の中へ模様を白く出すには、其ぬくべき模様を墨で描き現はして他を全体朱で塗り潰しま    す。    (さし上げ)     現今はこれが簡便法として「さし上げ」と云ふ事をやります それは校合摺一枚へ全部絵師が彩色を    したもので それを見本として彫刻師なり、摺師なりが色分けをして 色版を彫刻して摺師へ廻す事と    なりました。    (通し毛(かつら)彫)     又艶墨の板へ始めて髪の通し毛を彫ます、これは頭彫の受持で、つまり頭部は二枚板が入る訳です、    これは絵師が描くのはホンのアタリだけのもので、あとは頭彫が刀の順序を正くして完全なものに致す    のであります。この髪の事を「かつら」と申します、一寸摺師の部に属しますが、最初地墨の上へ鼠を    のせ、それに通し毛の彫つてある艶墨をのせます。故に髪の毛は三度墨が重なる訳です。     次に艶墨のないかつらがある、是は多く武者絵で、かう云ふ時は地墨へ通し毛を彫ります、即ち地墨    の上へ鼠をかけて終るので 須(すべ)て艶墨は摺の最後にかけるもので 其前は多く紅と極つて居りま    すが物に因て艶墨が揚りの事もあります。    (色板)    「一」板ぼかし     例一、数寄屋の羽織なぞは 鼠で全体を潰します、其上へ墨をかける、併し全体にかけては透かす事        が出来ぬから 極く緩やかな勾配に両側より削り下げて墨をかければ 平面に墨が残つて四方        が薄らぐから透いたように見へる     例二 顔の肉色ぼかし、男の部        紅がらで部分だけを前の遣り方で彫下げます        顔の肉色ぼかし、女の部        薄墨、俗に「きめ込みぼかし」とも云つて時色(ときいろ)でやります、これは顔の全体を潰し        に彫つて、目口鼻を彫りぬいて、上部は眉、横は鼻筋からかけて髪の中へ壹貳分程喰込み、下        は小鼻を界(さかい)に彫り下げてぼかします    「二」かけ合せ     仮令(たとへ)ば十五遍の場合に 今一色草色を加へようとするに 色ざしに制限、又はほんの僅か斗     (ばか)りの色の為に手数がゝるを省く為めに、藍と黄を重ねて草色を現はす事で 二枚の板を一枚に     流用する、これをかけ合せと云ふ    「三」正面彫 「とぎ出しトモ云ふ」     これは黒朱子(くろじゆす)の帯、黒半襟等、光沢(つや)を現す時に用ゆる板で、普通の色板は貼り込     む時裏返しにしますが これは正反対に表面を向けて貼るので此名が出ました これは前に云ふ光沢     を現はすにゑのぐを用いずにバレンで画面を摺り磨くからであります    「四」から摺     リンズの鞘形、須(すべ)て白の部分へ模様を現はすもので 模様は普通に彫つてゑのぐをつけずに摺     る故、から摺と云ふ    「五」布目     手拭等につかふので、全体をつぶしに彫つて、その板面に糾(かこ?)を貼り付け ゑのぐをつけずに     摺る      以上で略(ほぼ)絵彫の御話しは尽きたようです〟  ◯「近世錦絵製作法(五)」石井研堂著(『錦絵』第廿六号所収 大正八年五月刊)    (国立国会図書館デジタルコレクション) ※(カナ)は本HPの読み   〝  彫刻の二 版稿の糊着     錦絵の版の彫刻は、骨がきだけの版稿(写本と称す)の画面を、版材面に糊着し、其の紙背より絵画    部を摺り上げるのである、これが基礎版たる墨(すみ)版となるもので、彫刻の第一着手である。(色版    のことは後に述べる)     糊着用の糊は、彫工の好き/\で、姫糊(米糊)を使ふ者と、生麩糊を使ふものとある。何れも、普    通経師屋のうら打糊よりは稍(ヤヤ)濃めの糊を、刷子(ハケ)を用ひず、手の腹にて板面に塗る人が多い、刷    子では、不同(むら)を生じ易く、時としては全く糊の付かない部分を生ずることがあるからである。手    の腹にて、軽くこまかく打つ様にすれば、糊は浮く気味で、不同なく厚く付かる、この糊付は、重に弟    子にさする仕事で、それに版稿を伏せるのが頭彫(かしらぼり)の仕事である。頭彫とは彫工中の師匠株    の称である。     糊を付け終つた板面上に、画面を下に向けた版稿(写本)を持ち、其の位置を鑑しつゝ、徐か(ママ)に板    面に落す、そして中央部より始め、左右上下四隅に向つて軽く撫で付け、紙にシワ、ツリなどを生ぜし    めぬやうに、全部を糊着(のりづけ)させる、写本は雁皮紙などが多い、故に若し一たび板面に落して、    糊に触れしめた後は、之を剥がす時は、其の長さに於いて一分伸びるのは常である、この紙の伸縮性は、    彫工摺師の不断忘れない所である。           彫刻の三 彫刻刀及び彫刻用雑具     彫工の用ひる要具は至つて簡単である、今之を全部収挙するも僅かに左記の数種に過ぎない。     錦絵の版は、概して、古代のは其の彫が深く、近古ほど浅い、殊に近年に至る程浅彫になつた、これ、    新聞挿絵の駒などは、其の印刷法の精緻なるが為めの、彫は浅くともケツ(版の浚(サライ)の不充分の為    め、摺本に色料の汚れを来すこと)の付く恐れが無くなつたので、木版は一体に浅彫に趨(オモム)き、終    に錦絵の版まで其の影響を及ぼしたのである、この故に、錦絵版の彫刻刀類などは、近年総て繊小にな    つて来た、刀鑿類の細小なるは、力の入ること弱く、彫の深浅は、刻刀の大小に比例すること云ふまで    も無い。     錦絵の彫刻刀類は、之を小刀、間すき、円鑿、鑿の四種に分けることが出来やう、先づ小刀にて板面    に深く切り込み、間すきと円鑿にて其の地間をすき取り、鑿にて白地をさらひ取り、版木はこゝに完成    するのである、尚断面図で之を詳説すれば、図中黒体を板材とし、其の上に白と黒とを表はせしは、版    稿と絵の一部である、今小刀を以て垂直に近く絵の左右に切り込み、次に間すきや円鑿にてすき取り、    次に鑿にて広い地をすき去つて、こゝに凸版を成すのである。    〔イ〕ほり小刀        巾三分位を大とし、最小なるは錐の尖(さき)ほどのものまで、四五種あり、柄(ツカ)の長さ三寸一二分位、真鍮な      どの縁金物をはめおく、刀身の柄より露はれ出て居る部分八九分有り、昔は、傘製造者の竹骨を削る傘屋切出しを      使つた人も有つた。       絵と地との間の垂直部を切りまはす第一の要具で、普通の切出し小刀より刃尖(ハサキ)を鋭くする為めに、みねを      少しく磨り込んで刃を付けおく、故に刃尖は剣の切尖の如き形をなせり、指のイノ一二これを示す。(図省略)       之を使ふるは、拇指(オヤユビ)の腹を柄頭に当て四指にて柄を握り、立てゝ左に右に使ひてあらゆる絵の形を成さし      める。    〔ロ〕あひすき       余白の空地(あひ)をすき取る鑿に近いもので、肉薄く刃さきを弧形にす、挿絵ロノ一二之を示す。       大なるは巾二分半位より、小なるは五厘位まで、大小七八種あり、柄の長三寸三分位、平地をさらひ取るに具合       が好い、之を使ふには、拇指と示指(ヒトサシユビ)の股に柄頭を当て、両指の腹を柄に当て、左の二指をも添え       て、四十五度以下に寝かし、適宜に進めながらさらふ。    〔ハ〕円のみ       円筒を二つ割りにし、其の半円の一端に刃を付けたやうな形の小鑿の一種で、坪錐の長いものと想像すればよい、       挿図のハ之を示す、巾二分位から、楊枝のさき程の細小のものさへ有る、昔は絶て使はなかつた品だが、近年に       至つて大に流行り出した、間すきの七分のみの三分の働きを助けると言ふが適当らしい。    〔ニ〕のみ       しのぎに似、普通大工用の鑿よりはずつと薄い、刃さき弧形を為す、巾一寸八分六分等各種有り、広い地を削り       去るを主とす。    〔ホ〕罫引       左刃の切出小刀である、一枚の絵をほり始めやうとする時、先づ曲尺に之を当てゝ線をほりつけ、わくの正角な       らぬをも正し、又小刀にて彫込むを助く。    〔へ〕打込       たがねに似た長さ二寸ばかりのもので、版面に訂正改刻の必要を生じた時、之を版面に打込みて孔を明け箸の様       に削つた木を挿し込むに便ず。    〔ト〕挿木切       極小さい鋸のことで、巾六七分に長三四寸のもの挿木(さしき)を版面のろくに切り離すもの。    〔チ〕木槌       大小三種ほど、鑿にて地をさらふ時鑿を打つに使ふ、浚ふ部分の多い色版の彫刻には特に多く之を使ふ。  ◯「近世錦絵製作法(六)」石井研堂著(『錦絵』第廿七号所収 大正八年六月刊)    (国立国会図書館デジタルコレクション) ※(カナ)は本HPの読み   〝  彫刻の三 刻法    〔イ〕原稿の筆画を明に見る法     版稿の張り着け終り、いよ刻刀を執つて彫り始めるに当り、文字彫ならば、稿紙を張り着けた版面の    上に、油類を引くことも有る、さうすれば、紙が透明になつて、文字の筆画が鮮明に見えるからである    が、錦絵の彫の方では之を為(し)ない、唯間鋤(あひすき)の際に、鋤くべき部分々々に油を与へること    は有る、これ油を与へる時は、木質がハネ易くなりて、鋤が楽に出来るからである。     版稿の用紙は、薄美濃紙を常としてあつた、(明治の中頃からは、雁皮紙を用ひるやうになつた)で。    版稿の絵は、紙の背から明に見え、彫刻にさしつかへる様なことは無い、若し又紙が厚過ぎたりして、    明に見えない時は、指の腹で紙うらを軽くこすり、撚りて剥ぎ取ることは有る。    〔ロ〕彫刻の時の版の位置     彫刻すべき版は、立絵横絵に拘はらず、木目を横にし――刻几の木目と一致する位置――立絵の時は、    其の上部を右の方へ据えおきて彫るを常とする、毛わりの時の外は、手勝手の為めに、版木を廻して位    置を変へて彫るを、彫工の恥としたものであつた、が、今日では、版木を廻さないで彫る者とては無い    位である。    〔ハ〕輪郭の切り廻し     絵の四囲に、枠(輪廓)のある錦絵の時は、絵を彫刻する前に、先づ枠を正し、之を切り込んで形を定    めることになつて居る、其の法、曲尺を当てゝ定木となし、罫引(けびき)にて枠線の両側に切りめを入    るゝのである、罫引の事は、已に彫具の部に説いた通りで、此の預工は、画いた枠の正角を失つて居る    のを正し、且つ又枠を彫り起こす導(ミチビキ)となすのである    〔ニ〕執刀法     絵の彫刻法は、小刀を握り、左手の平を版面に当て、中指のさきを刀に添へて、ぐらつくを防ぎ、比    較的刀を立て、線の右に左に切り込むのである。線の剛柔曲直緩急疾舒、意のまゝに彫り成すこと、絵    師が筆にて書く自由さと少しも違はない、運刀の語は当にこれで、其の意のまゝに刀の進むは即ち彫工    の生命で、唯驚嘆すべき熟練である。     すべて、絵を彫るには、絵の中心に向つた内側を先きに切り廻し、地の方に向いた外側を後に切廻す    を法とする、たとへば、左を向いた人物の鼻や頬を彫るに、鼻筋の線の右なる内側を先にして、外側を    後にし、頬も衣裳も、皆この法に従ふを常とする。     切り廻しゝて後、広い余白の地を鋤き取り、次に絵に近い地を鋤き、段々こまかい間を鋤き取つて、    彫り上りとなるのである。    〔ホ〕彫工の最も苦心の点     彫工の最も苦心するのは、人物画の顔面部である、再び鼻に就て之を例しやうが、其眉間に一刀を下    すや、慢身の精神を集注し、一気に彫り進んで、小鼻まで下らなければならない、若し、この途中で刀    を停めたならば、再び刀を継ぐことはもう不可能である、殊に頬などは、絵師の版稿は其の線太くて、    其のまゝ彫り成したのでは、到底絵になるものでない(絵師は、面相筆のさきを、一寸焼き切つたのを    使ひよしとし、線香などで焼いて用ゐるので、精密に言ふ時は、筆さきは真の秋毫でなく、至つて太い    ものである、それで画く所の版稿の思の外に太いことは勿論である)この時、其の太い画稿の一線を、    三分の一の太さに彫り上げやうとするに、左側を存して右側を棄て去るべきか、或いは中央部を存して    左右部を棄つべきやなどは、専ら彫工の胸中のあることで、それを心の中で修正しつゝ彫り上げるので    ある。     大首絵の頭の毛の生え際の、カツラならば羽二重といふべき部分などは、版稿には毛筋一本有るわけ    では無い、それを一筋づゝ彫り分けるのが所謂毛わりで、彫工の腕である、眉の末を引伸ばした見当の    処なる鬢に、先づ一髪を彫り出し、それに準じて、上方へも下方へも、或いは平行線、或いは放射線状    に、髪の形の応じて、割りながら彫り上げるのである。又、頭の毛筋の、長く通るを通し毛といふ、同    じ通し毛でも、水にぬれた毛、幽霊の毛、振り乱した毛など各其の特性を現はさなければならない、又    毛わりの一種で、数本毎に太い毛の有るものがある、櫛目を現はしたもので、之を八重毛といふ、とも    に、全く原稿に無い所の毛筋を彫り成すのである。     以上、顔面部、及び手足の指、毛わり等は、彫工中の良工で無ければ彫れず、胴体衣裳付立等は、第    二三流の庸工で間に合ふ、所謂かしら彫、胴ぼりの別を生ずる因由で、其の六ヶしい少部分だけを頭ほ    りが彫り、他の全部を胴ぼりが彫ることになつて居る、源氏絵などのやうに、衣裳その他に手の込んだ    のは別だが、大首の芝居絵などになると、頭ぼりが全刻費の三分一、胴ほりが三分の二を得る位のもの    である。    〔ヘ〕続き錦絵の重ね方の不自然     一体本邦人の習慣として、紙を二枚つぎ合せる時は、見る人の右の方を上前にし、左の方を下前にす    ること、手紙用の巻紙の如くするのが常である、然るに、錦絵の三枚続きなどは、常に左方が上前にな    り、邦人すべて習俗と相反して居るのはどういふ訳であらう、この左前に重ねる習慣は、余程古くから    のものらしく、これまでに、右前の例はまだ見たことが無い、多年錦絵の売買を業務として居る二三の    人にも尋ねて見たが、此の様なことには案外サツパリした人々ばかりで、余の言によつて始めて其の左    前なるに気付く位で、未だ首肯すべき程の明答を与へてくれた人が無い、邦人の習俗を犠牲にしてまで、    左前に摺る錦絵は、何が然るべき原因が無くてはならぬことゝ思はれる。     この変体の続き方は、彫工が立位置の絵の上部(人物画ならば頭部)を右方に据ゑて彫る習慣と、手    勝手の為めに、彫方に不均衡を生ずるより来るのであるまいか。     彫工の、版に対して刀を操に、一線の両側ともに、其の刀を入るゝ角度は、均等なるを望むのである    が、手腕の働きの都合よりして、彫者自身に向ふ側は急峻に、反対の側は緩になり易い、故に版の一線    を堤の形状とすれば、自ら其の登りの傾斜に緩急の差を生じて来る、そして、版の見当(見当は、摺る    べき紙をおく足定線を示すもの、後に述べる)は、「向ふ見当」とて、彫者より言ふて版の向ふ側に付    けることになつて居る。     又、摺工が錦絵を摺るには、彫工と反対に、版の上部を左方に据ゑ、見当を膝に近づけおく、そして、    色刷子を版面左右前後に動かして、全部に色料をぬり、次にむら取りの為め、刷子を手前より先きへ向    けて、木目を横断するやうに払ひ、然る後に始めて紙をのせ、バレンを当てるのである、この、むら取    の刷子を、木目なりに払つたのでは、色料を殆ど拭き尽して、極端に言へば紙に着くべき料を留めない、    木目を横断するやうに払つて、始めて必要の色料を保有せしめることを得るのである、然るに、前いふ    た如く、線の向ふ側と手前の側と、其の登りに緩急陰陽ありとすれば、其の陰の方より陽の方へ刷子を    払ふ時は、色料モタレて摺るに便ならず、是非陽の緩なる方より反対の側に刷子を払ひ、むらを取らな    ければならない、かう考へて見ると、四辺有る版木ながら、見当を付ける適所は唯彫者の向ふ側であつ    た一辺にかぎるのである、版木に見当のある一辺は、紙の一辺に正しく平行させて摺ること出来るが、    その反対の位一辺はさうはいかないので、行きなりにまかせるを便とする、で、重ねて下前になるべき    紙の余白は、見当の側の反対に作らなければならない、して見れば、見当の向ふ側が続き絵の下前にな    るべきは、摺仕事の上の結果である、故に予は、錦絵の続きの左前なるは、彫刻に陰陽有ると、頭部を    右方に据えて彫るとに起ることで、若し彫刻の時に、版の上部を左方におく、習はしに改むる時は、続    き目の右が上前になること勿論で、早晩は、是非斯う改めたいと思つて居る〟  ◯「近世錦絵製作法(七)」石井研堂著(『錦絵』第廿九号所収 大正八年八月刊)    (国立国会図書館デジタルコレクション) ※(カナ)は本HPの読み   〝  彫刻の四 色版     イ 色わけ     錦絵は、墨色版と多くの色版とを摺重ねて成ること、既に説いた通りで、上文は、主に其墨版を説く    に過ぎなかつた。     最初、絵師が版稿を作る、先づ其の墨摺部を描くのである、墨摺部は、骨がきとも異称する程で、全    画の骨子となるものである、この墨版成つて後、始めて色版の原稿も出来、彫刻も成るのである。     其の法、墨版が刻成する次第、之を上等美濃紙数枚に摺り、之を色つけ用として絵師の方に廻す、其    の数、手遊絵などのやうな安絵ならば六七枚、普通絵錦ならば十四五枚乃至(ナイシ)二十枚以上を常とす    る。     絵師は、最初墨版の原稿を作る時に、一切の彩色は、唯之を胸中に運(メグ)らすのみであつた、是に    至つて、全画中、同色に摺上ぐべき部分々々を、紙を別にしてこの墨の校正摺に施彩する、故に二十遍    摺になるものならば二十枚、七八遍で済むものならば七八枚の色分けが出来る、施彩といふても、望み    の色を以て、一々丁寧に染めるのでは無くて、薄朱などで大体を染め潰し、只其の紙の余白へ、紅なら    ば紅、浅黄ならば浅黄など、色の指定を文字で記入するに過ぎない。     又、色潰しなどは、其の潰すべき画面全部を塗り潰さず、粗く数線を引くに止る、或いは薄鼠色の空    に白ぬきの雨を出し、青地に白の雪を出す時など、其の雨や雪を白ぬきにぬり潰すのは手数なので、其    の白ぬきにすべき雨や雪だけを濃墨にて画き、地を薄朱薄墨などで塗り潰す、こまかい鹿の子麻の葉の    絞り模様などを白ぬきにする時も亦同しい、が、彫工が万事呑み込んで居るので、斯く一種の符号同様    の指定で、色版を起すには差仕へない、丁字、一文字、ふきぼかしなど、摺り方を文字で指定するのも、    亦色がきの一である、月の近くに村雲を出さうとすれば、色がきの鼠色の部の月の位置に、文字であて    なし、又はあてなしぼかしと記入するの類である。     ロ 彫刻     校合摺(キョウゴウズリ)に、色がきの済んだ版稿は、又彫工の手に戻る、彫工之を板面に糊着(ノリヅケ)し、    其の色をさゝれたる部分だけを彫り起す、此の版稿は、たとひ少しでも伸縮すれば、色のすり合せ且吾    (そご)するので、其の糊着に十分の注意を要することは、前既に述べた通りである。     色版の彫刻は、最初小刀にて切り込むを切廻しといふ、次に総間(そうあひ)を浚ふこと、墨版の彫刻    に異なる所は無い。     其の色の部分が極めて少ない時は、その為めに一枚の板を費やさず、他の色版の明き地を利用して之    を彫ることもある、之を彫りぬきといふ、又、色合によりて、安絵或いは安絵でなくとも、少しばかり    の色で版一枚になるものは、其の色版を省き、甲乙二色をすり重ねて間に合すことのあるのは勿論であ    る。     版木一枚――墨版と色版を合せ、一枚の錦絵を摺り成すに足るだけのもの――を一番といふ、錦絵の    三枚一組のものを三番ものといひ、五十五枚続きのものを五十五番続絵といふの類これである、想ふに、    番は版の同音仮借であらう、又古来、出板、板元、何々堂板などゝ書く時の板も、同じく版の仮借と想    はれる。     ハ 色わけの古今の相違     色わけの主要部は、絵師自ら之を作すこと勿論であるが、衣裳のさや形、屏風の模様など、さして重    要でない部分は、一切之を門人ともに作さしめるのが常である。     此の絵師の色かけ法は、錦絵の出来上りなる五彩爛然たる絵が、明々白々頭の中に浮んで居ればこそ、    之を分解して、左程の色落ちもなく、出来るなれ、如何に熟練とは云へ、其の心匠意識、驚くべき技術    である、が、この色分け法は、明治期の芳年時代頃までを限り、それ以降は全然廃れて仕舞つた、即ち    近頃の版画絵師は、石版法などの如く、最初一枚の成画(無論彩色あるもの)を作つて之を授けるか、    或いは墨摺一枚に各色を施して与へ、色分けは全部版工まかせにして顧みない、従つて、絵師に製版上    の酌量無く、遍数の如何に構はず書手に描き成し、これと分毫も違はないやうに仕上げよと注文するの    が常である、為めに、終に五十遍八十遍などいふ手数を掛けなければならず、そして其の割には見栄の    無い摺物を得るに過ぎないやうになつて仕舞つた、摺の数遍少くて、そして配色の美を全ふするものが、    錦絵の長所得意であつたのが、今日では、唯肉筆まがひの繊弱にして生気のない摺物に堕して仕舞つた。     ニ 見当     錦絵の、一糸乱れず巧みに施彩さるゝは、各色の版ごとに、只これ見当を力にして摺り、各色を正し    き位置に摺り成すことを得るからである、見当とは、西式石版の色摺ものに言ふ所の摺合せ十字に同じ    く、摺るべき紙を版上に下す時の位置を示す足定線のことである、墨版彫刻の時に、向ふ見当とて、刻    者の反対の側に、絵の枠に平行して二個を付刻す、一は曲尺(かねじゃく)状で一は一文字状、曲尺状な    るは右方に在りてカギといひ、一文字状なるは左方に在りて引付(ヒキツケ)といふ、カギは紙の一角を受く    べき直角、引付は、紙の一辺の線に平行す。     色わけ用の校合摺には、皆この二ヶの見当を摺込みおき、又之を各色版の見当とするから、色版は幾    枚に別れても、絵と見当との距離は比較的同一に出来上り、しつくり合ふ所の摺り合せを得るのである。    (始めて摺る時、見当を修正することは摺工の條に述べる)    『燕石雑志』に、明和二年の頃、唐山の彩色摺にならひて、版木師金六といふ者、版摺某甲と相語(か    たらひ)、版木へ見当を付ることを工夫して、はじめて四五遍の彩色摺を製し出せしが云々と書いてあ    るが、見当の発明は、色摺界の新紀元ともいふべく、この見当を、今日までの状態に進歩さするに就い    ては、金六始め多くの彫工及び摺師の頭を痛めたことは、一通りでなかつたらう。     併し、見当の利用は、忽ち其の精密の域に達したらしく。歌麿の筆に成る両面摺の絵の如く、一枚の    錦絵の表裏に、一婦人の前姿と後姿とを摺り、之を日光に翳(カザ)して見て、些(イササカ)の見当の狂ひの    無いものを得るまで精巧を極むるに至つた。     ホ 特殊の色版    〔い〕ぼかし 錦絵の施彩の一種に、ボカシといふものが有る、濃い色より漸く薄く、終に無色に至ら     むるの法のことである。     ボカシに、掛けボカシ、板ボカシなどの数種あるが、就中色版に因て施彩する板ボカシだけをこゝに    述べ、其の他は摺の條下に述べやう。     板ボカシの彫刻法は、絵師の画いたボカシの積よりも、周囲二三分づゝ大きくダメを付けて彫りおき、    其の周辺を木賊(トクサ)にて磨りおろし、次に椋(ムク)の葉にて研ぎ、ボカシめの界(サカイ)を有るが如く無き    が如くに磨り去るのである、之を約言すれば、板ぼかしの版は、其の色と地との界に、線を留めぬやう    に彫り成すのである。    〔ろ〕むだぼり 色板の見当を正確ならしむる為めに、墨版にむだぼりを存しおき、色版の刻成るを持    つて、之を削り去ることがある、たとへば、こゝに桜花満開の図を刻し、桜樹の幹や枝や小枝を墨摺に    し、花の雲を薄紅色に仕上げるものとしやう、この時、花の雲なる薄紅は、其の適処を得て、中空に懸    らなければならず、画師は最初墨版の画稿中に、其の大体の当りをつけておくのが常である、彫工は、    墨版上に、其の花の雲のあたりを、大略ながら彫り成して存しおく、やがて色わけの時に、薄紅の版上    に、其の花の雲の当りを其のまゝ生かして彫り成せば、即ち枝や小枝や幹に親着した花を成すこと容易    で、見当の外れる恐れが無い、この薄紅の版さへ出来上れば、墨版上のむだぼりを削り去るのである。    〔は〕布目の版 錦絵面に、から摺の布目つぶしの有るのは、屡(シバ)見る所である、これは、色版に、    布目にすべき形を彫刻すること、他のものと同じくし、其の形と同じ大きさに、絽又は紗を切りぬき、    之を版面に糊差して版とするのである。    〔に〕欅(けやき)の如輪木目(じよりんもくめ) 又欅の如輪木目で、地つぶしをすることがある、これ    は、色板に欅板を象箝(ゾウガン)し、其の自然木理を応用して版とするので、如輪木目に似せて彫つたも    のでは無い。    〔ほ〕細密の格子目 初代歌麿筆の「六玉川月眉墨」や、泊りの蚊帳、北斎筆の百富士中の四手網など    は、極めて細密な格子目の版で、蚊帳や網を摺つてある、一寸見たのでは、彼の格子目を彫り成すには、    非常な精力を費やしたものゝ様に思はれるが、実はさうで無い、彼の網目蚊帳目は、何れも経(タテ)は経    緯(ヨコ)は緯、二版にほり分け、之を摺り合せて始めて網目を成さしめたものである。    〔へ〕洋画の印影 洋画模倣の浮世絵の錦絵には、洋画の陰影を現はすに、可なり苦心した跡が歴々見    える、唯、淡彩を施して陰影としたるもあり、密なる平行線で現はしたものもある、前者は北寿や国芳    の画中に求むべく、後者は貞秀の画中に其の例少なくない、明治元年に、横浜で発行した新聞紙の一種    に、交叉したる斜線で陰影を現はした画のこまの入つて有るのを見たことが有る、が之を諦視すれば、    矢張二度ずりで、横斜線を摺り重ねたのであつた、明治十一年に出した清親筆の木戸孝允公の肖像は、    陰影を現はすに大小の点の集合を以てし、後年会田氏の仏国から輸入した小口木版の先駆をなして居る。          ヘ 彫工     彫工と摺師とは、錦絵の完成に就て、どんなにか隠れたる苦心史が有ることゝ察せられる、で其の功    績は、絵師と殆ど同等の位置に据ゑても好からうと思ふが、不幸にして、これまでの世間は、絵師の功    績程に、彫工と摺師の功績を認めて居なかつた、従つて名工の伝記や研究の事柄等は案外伝はらず、探    るべき道の絶無なのは残念である。    (い)錦絵面に署名の前例、錦絵の衰頽期に向いた嘉永以後の錦絵面には、往々彫工の名を署する事が    行はれたが、それ以前の錦絵には(絵本類を除いて)彫工の名を明にすることは殆ど無かつた、たまに    これ有るは、寧ろ異例と見ても好い位である。     錦絵面に、彫工の名の明なのでは、鳥居清忠筆大判錦絵 劇場の図(鶴かめ貢太平記 四番続 一く    わんじん太鼓の狂言)に、      絵師 鳥居清忠  彫工 鶴見嘉七郎    と絵師と相並べて出した例がある、これ等が古い分であらうか、又、鳥居清信筆大判丹絵の美人画に、    「根元画所板木屋七郎兵衛」の名壺有るものがある、板木屋即ち発行者であつたらしい。     板木屋即ち錦絵の発行店の例は、この外にも有る、嘉永後に、湯島四丁目に居て錦絵を出した彫多吉、    又住所は明でないが、同じく錦絵を出した彫正、共に彫工から転業した錦絵屋であつた。     彫工の転業といふに因み、絵師の子で彫工や摺師になつた例をも挙げておかう、初代豊国の実子は、彫工になつたる     が、放蕩にして住所不定なりと、馬琴の『後の為の記』に見えて居る、又、明治まで生存した芳藤の実子も、錦絵の     彫師であつた。    (ろ)彫工の記名、鳥居清信、清忠の年代よりは、ずつと下つて、天保五年の序文有る広重の横画「東    海道五十三次の内、御油」の宿屋の宿札に、彫工治郎兵衛 摺師平兵衛とあるのは、誰も知つて居る例    だが、この二人は、彼の大画集の刻と摺の責任者であつたのだらう。     年代は明ではないが、一陽斎豊国の「奉納御宝前(ママ)」三枚(西村板)に、刻工小泉新八 摺師□□    屋長義の記名あり、嘉永年中 国芳筆大石良雄肖像(海老林板)に、摺工幸之助 彫房次郎と記名有り、    明治二年四月芳年筆 三村治郎左衛門の肖像に、刻師登龍斎勝俊 助刻安岡常次といかめしい記識が有    る、そしてこれ等が何れも念入りの彫や摺の錦絵なるより推せば、彫工や摺師の姓名を、紙面に明記す    るものは、普通よりは一段念入りの作品に限つて居つたやうに思はれる。    (は)嘉永後の彫工、嘉永後の錦絵面に、彫工の名を署する時は、頭名の一字を、左の数例の誰の字の    位置におくのが常であつた、即ち       彫工誰  雕誰  ホリ誰  刻師誰  誰刻刀  誰刻     そして、其の名がはりを挙げて見ると、     嘉永年間 柳太、乃げん 廉吉     安政年間 竹、駒、佐七、庄治、安、宗二、友     万延年間 安、巳の、竹、長、小泉彫兼、小兼九オ、松島彫政      小兼は、木宗版の菅原伝授手習等に見えて居る、幾らか胴ぼりでもやらせた自分の伜を、世間へ紹介したのであつ      たらう     文久年間 竹、政、小兼、朝倉彫長、千之助、二代竹、小金、駒改雕多七、秀勝    (に)彫己(ママ)の 彫駒曾ていふ、私は午年生れなので駒といふ名なのだが、己のは己生んだから、私    よりは一つ兄きな筈だ 役者東海道五十三次(豊国画)の白須賀の猫婆を彫つたのは己のゝ十八の時だ    つた、あの白髪婆の長い髪の毛がちやんと毛筋通り、本はこまかで末広がり、しかもフラリとして一本    も乱れてゐない手際、あの百枚あまりの続きものゝ中、第一等の出来で、当時大に評判されたものだつ    たと。此の白須賀の一枚は、今日之を見るも、西洋小口版にも勝る出来なることが知られる。     万延元年四月 若与版、豊国筆 立(ママ)合「端唄尽」などにも彫己のゝ名が見える、この時代の名工    であつたらしい。    東海道五十三次之内 白須賀 猫塚 歌川豊国(三世)画「彫巳の」住吉屋政五郎板 嘉永五年(1852)刊    (東京都立図書館蔵)  ◯『錦絵の彫と摺』石井研堂 芸艸堂 昭和四年(1929)刊   (第四章 原画 甲、画工と版下)p19   〝原画即ち版下の第一稿は、白描の粗画である、全図の位置結構大小を、稿本上に活殺取捨し、稿定つて    後に浄写して原画(はんした)とするのである、明治以前の稿本を見るに、多くは墨一色であるが、明治    後のものにあつては、先づ鉛筆で当りを付け、次に薄朱で其活線だけを描き、更に墨筆で稿を定めるの    が多い、(中略)画稿定つて後、之を薄紙に浄写したものが、原画となるので、所謂版下である、即ち    版下画の略である。    版下は、其画面を木板に糊着し、紙背より彫るものなので、紙背を透かして画が見えなければならない、    故に、古来の版下画は、紙質強靱で且つ薄美濃紙、又は良質天具帖などを使ひ、明治に入つて後は、多    く薄葉雁皮紙の類を用ひた。    版下画は、型の一定した或る部分は、彫師の巧みに任せ、之を細写密描しない、たとへば(中略)娼婦    の顔面部などは(中略)之を繊細にほるのが、彫師の自由であつて、又其の髪の生際や毛筋などは、唯    大体の当りを描くだけである、障子の骨の交叉部なども亦然りで、彫師の彫分けにまかせて、始めて絵    となるのである〟   (第十一章 彫師と摺師 甲、彫師)p104   〝一番の板を彫るに、各部分業、顔面と頭髪など精巧を要する至要部は頭彫がほり、櫛笄や衣裳其他の部    分は、一切胴ぼりの彫る所であつた〟    〈「一番」とは錦絵一枚分の(墨と色板を合せ一枚の錦絵を成すに足るだけのもの)板木をいう 〉   〝近世錦絵の彫工は、板木屋又は板木師と通称して、多く下(した)町に住み襟付の半天に平ぐけの帯をし    め、純然たる職人肌の、宵越の銭を持たぬを名誉と心得る気質を常とした。    錦絵に関係ないが、彫師の中に、字彫、俗に筆耕彫といふ一種が有つた、書物の板彫である(中略)徳    川末葉の江戸の字彫は、多くは御家人の内職で、山ノ手に住み、多少気高く、士人に近い者が多かつた〟   (第十一章 彫師と摺師 甲、彫師)p106   〝最も六ヶしいのは髪の毛である。其の生え際の、鬘ならば羽二重といふべき部分などは、版下には、毛    筋一本有る訳ではなく、只大体のあたりが有るだけである。それを一筋づつほり分け、刀の順序を正し    て完全に彫り上ぐるのが、所謂毛割りで、彫師の専有する妙技である。    更に之を委しく言へば、毛髪の生え際を、先づ生え際形に切り廻し、富士額の中心から始めて、左右へ    一本々々割り出し、或は眉の末を引伸ばした辺の見当なる鬢に、先づ一髪を彫り出して中心となし、そ    れに準じて上方へも下方へも、或は並行線、或は放射線状に、髪の形に応じて割り出しながらほり上げ    るのである。又頭の毛筋の、長く通るを通し毛といふ、同じ通し毛でも、水にぬれた毛、幽霊の毛、振    り乱した毛など、各其特性を現わさなければならない、又毛割の一種で、数本おきに太い毛のあるもの    がある、これ櫛目を現わしたもので、之を八重毛といふ、ともに、全く版下に無い所のものを彫り成す    のである、人物画の胴体や衣裳や付立等は第二三流の庸工で彫り成せるが、上記顔面部及び毛わり手足    の指さき等は、彫師中の良工でなければほれない。所謂頭彫胴彫の別を生ずる因由で、甚六ヶしい小部    分だけを、親方株の頭彫がほり、他の全部は弟子や職人中の得意々々を察知し、指図をして之をほらせ    る、即ち手足を一番弟子がほるとすれば、其衣紋や模様や背景の各部は、二番弟子三番弟子乃至それ以    下の弟子に分担してほらせる類で、其順序は、頭彫の仕事を最後として、一枚の板が彫り上りとなるの    である。源氏絵などのやうに、衣裳其他手の込んである版は例外として、大首の芝居絵などは、頭彫が    全工賃の三分一、胴彫が三分二を得る位のものである。    彫師の仕事にも、自ら寿命の有るは已を得ないことで、達者な者で四十歳までゞある。それ以上老いて    は、先づ目があがる、腕が鈍くなる、どうしても、血気盛りの時のやうな仕事は出来ない〟   ◯『浮世絵と版画』p96(大野静方著・昭和十七年(1942)刊)   〝版画製作には第一着手として画家のかいた絵「板下画」を彫刻すべき板木へ貼り附ける。之を「張込」    といふ。容易なことのやうであるが最も大切な仕事の一つで、相当の熟練を要するものである。現今で    は板下画は自由に各種の紙を使用するが、従前は多く薄美濃紙を用ひ、礬水引のものは使用しなかつた    ので、水分に堪へる力が弱く、一度貼り損じたる場合張直しに困難を極むることが多いのである。古代    は引写しものには薄用を使用したやうであるが、近世には無ドーサの薄美濃を多く用ひたのである。明    治時代には雁皮紙を用ひたが、之は彫刻には好適なるも、紙質極めて薄く、張込困難のため彫刻家に嫌    悪された。礬水引雁皮紙美濃紙等の使用さるゝやうになつたのは明治廿四五年以後と思ふ、江戸時代に    は礬水引薄美濃は存したのであるが、多くは画家等の彩色模写などの場合に用ひられ、多量を要する板    下画には使用されなかったといふことである。「張込」は板面に糊をひき、板下画を裏返しに貼るので    あるが、糊をひくに刷毛を以てせず、手の掌、指の腹、爪先等を使用するのである。糊は姫糊に限り糊    の塗方、板下画の張込方等に多くの経験を要するので、老熟した経験に富んだ者でないと満足には出来    ないといふことである。彫工の中には生涯張込を手掛ない者さへあつたといふ。板下の張込は兎角厄介    視されて成るべく之を避ける者が多いので、大錦の板下画の張込を苦もなくなし得る職人は少数であつ    たと云はれる。絵本読本の板下画は大錦より小版ではあるが、画が緻密なので一層の注意を要したので    ある。極めて大切な下絵は一旦裏打をなし厚味を加へ置きて然る後張込を行ふのであるが、かやうなこ    とは普通には行はぬのである。    「張込」は彫工が最初に行ふ重要な仕事なので、少しく其方法を説明すれば、先づ適量の糊を板木の中    央に置き、指の腹を以て充分に練り、少量の水を加へつゝ適度の濃度になし置き、爪を以て糊を一面に    搔き拡ぐる。かくすれば板面の糊は爪によつて幾筋もの線状を現はすが、之を手の掌を以て平均して後、    又手の掌で軽く叩けば、板面の糊は粟粒の如き粒状を呈す。かくの如くなし置いて草稿を張込むことゝ    なるが、之には自然の熟練を要すといふ。     板下画を貼るには画の下方両端を摘み上げ、板木と見当をつけ置き、垂れ下り居る板下画を息を以て    前方へ吹やると同時に、板面に当がひ、素早く手の掌にて撫で貼るので、皺歪み等出来ぬやる張込を終    るには相当の手練と経験を要するのである〟       〝彫刻に当り第一番に刀を下すのは見当である。見当といふは摺に際し紙の一端を当て色数を重ね摺るも    滑らぬ為のもので、右端下方に鍵形を彫り、左端下方二三寸内部へ横に一線を入れるのである。右方の    鍵形を「鍵」と称し、左方の一線を「引附」といふ。引附の横線は鍵に当て線の方へ引附るやうにして    摺るのでこの名がある。竪絵ではこの見当のことを「尻見当」と呼んでゐる〟     〝人物画彫刻の樹序としては、頭彫から銅彫へと移るのが定法である(中略)頭彫は顔面と毛割である。    「毛割」とは髪の生際形に富士額を中心に左右に割出すのをいふので、この生際の細毛は画家が版画に    見る如く画くのではなく、頭髪の毛筋と共に単に当りだけかき置くもので、彫工に鉄筆によつて美事に    彫上げられるのである。現代の版画は画家の描線を其通りに彫るのであるが、当時の板刻の様式は下絵    の肉筆を其侭に現はすものではなく、彫工がそれ/\に画家の筆意を会得して、肉体の線、衣裳描線の    筆の走り、止めハネ等の工合を刀を以て彫り整へて行くのであつて、画家の板下絵は版画に示されてゐ    るやうな完全なるものではないのである。下絵に描かれてある太い線を左右或は一方より彫り細めて完    全なる線にすうのであつて、彫工にとりては板下画は一種の当りに過ぎぬのである。これを「コキ彫」    と云ふ。されば有名画家の多くは殆ど自個専属ともいふべき彫工を有する。初代豊国に於ける彫房、三    代豊国の彫竹、国芳には須川簾吉といふが如きである〟     〝頭彫は顔面、生際等を彫り、頭の装飾の櫛笄釵等の如きものは頭彫の責任でないので、遠慮なく残して    銅彫へ廻すのである。又頭髪の毛筋「通し毛」は彩色摺の場合には、墨板では彫らず、黒潰しのまゝ残    し置きて、彩色摺の色板で彫るのである。これは毛筋を光らして現はすため艶墨板へ彫る「ツヤズミ」    といふ。この艶墨のかゝらぬ頭髪のものは地墨即ち墨摺板へ彫る。彩色のない墨一色の絵では通毛も同    時に墨摺板に彫るのはいふ迄もない。頭彫の手を放れて銅彫へ渡されると、顔面毛髪を除く全部を引受    くるのであつて、人物の胴体は勿論、衣裳の模様、屋台引、背景、道具類より、頭彫の通毛を艶墨板を    除く全部の色板を彫るので、最も多くの労力を要するのである。それゆゑ銅彫の中で更に衣紋の線、模    様、背景、屋台引の線等、各専門の彫工があり、又「浚ひ」と云つて彫刻のない部分を鑿を以て浚ひ取    る専門工がある。此外、絵の標題の文字や解説、人物の名前など簡単なる部分は胴彫の手にて彫る場合    もあるが、多数の文字は文字彫へ廻して彫刻させるのであるから、一枚の大錦が世に出づる迄には容易    ならぬ手数を要すのである〟     〝錦絵にしても絵本類にしても人物本位のものは、画家彫刻摺師共その制作に当り風景物に比して、多く    の労力を要し、殊に彫刻と色摺物とは技工難易の差が大きいのである。人物画の彫刻には頭彫胴彫等の    分業が有つて多くの人手を要するが、風景画には彫工にそれ/\の得意はあつても、分業にはなつてゐ    ない。風景物には人物の顔彫の如く彫工の技倆を示すべき場所がない。従つて一流の彫工を煩はす必要    がないのである。風景物には第一流の彫工は決して刀を耕さない。頭彫など風景画に鉄筆を下す者はな    いのである。工賃の上にも著しい差が生ずるわけで、摺工に於ても意の用ひ方が違ふのである。其様な    関係から地本問屋に於ける取扱ひも人物と風景物とは大分違つて、美人・役者ゑ・武者絵類より一段軽    視されて居たのである。風景絵が盛んに出版されるやうになつたのは、天保十三年の改革に当り錦絵画    本類の出版範囲、彩色摺等の上に殆ど禁止的制限が加へられ、従来の美人絵・役者絵等の出版が不可能    となり、これに代ふるに風景名所を主題とせるものを以てせざるを得なくなつたからで、それ以来、風    景画の興隆を見るに至つたのである。     絵本類は地本問屋の手を経ず書籍商から直接出版するものが多くあるので、彫刻なども多く文字彫兼    業のものが直接請け負つて刀を揮ふので、一般に錦絵より彫刻が優れてゐて、高級の画本等は錦絵の彫    摺とは雲泥の相違のあることは版画愛好家の熟知する処であらう。殊に北斎の絵本類の彫刻は際立つて    よいやうである。一般に地本問屋の仕事は工賃が安く書籍商は報酬がよいといふことである。錦絵の方    は多く専門工の手に成り、地本問屋の仕事に属するので、絵本に比して劣るので殊に風景物は広重の    「東海道五十三次」北斎の「富嶽三十六景」の如き代表的作物にしても、仔細に穿鑿すれば筆意の崩壊    されてゐる点を発見し得て、精巧を極めた人物版画に比較して一段見劣りせらるゝのである。(中略)〟     〝風景物は画家の報酬も安く、彫工、摺工も之に準ずるのであるから、二流三流の職人の手で作られてゐ    るのであるが、風景絵の隆盛期に至つてからは昔日の比ではなくなつたやうで、広重の「江戸」名所百    景」などは摺潰しなどに美事な手腕を見せてゐる〟