◯『北斎漫画』初編 文化十一年(1814)刊
〝伝神開手序
喜怒哀楽の面にあらはれ 形にあふるゝ者は更なり 山川草木おの/\其性あり 鳥獣蟲魚みな其神有
りて 見て喜ぶべく楽むべき者あまたなれど 境かわり時うつれば則(ち)ゆきぬ 若その喜ぶべく楽む
べきものの情形を多歳の後 千里の外に伝(へ)むと言せば 何を以かせんや 画は伝神の具也 然れど
も其画妙に入(る)にあらざれば 亦其神を伝ふる事あたはず 北斎翁の画におけるは世の知る所也 今
秋翁たまたま西遊して我府下に留(ま)り 月光亭墨仙と一見相得て驩(よろこび)はなはだし 頃(しば
らく)亭中に於て品物三百餘図をうつす 仙仏士女より初て鳥獣草木にいたるまてそなはらざることな
く 筆はふいて神なせり 先近世の画家真をうつす者は必(ず)風致に乏しく 意を画く者は或は検格な
し その図する所疎淡にして明整 式あり韻あり 物々御生動せむと欲す 喜ふべく楽むべし 嗚呼た
れかよくこれに加えむ 真に画を学ふものゝ開手となすべきかな 如夫題するに漫画を以ってせるは
翁のみつからいえるなり 文化壬申陽月尾府下 半洲散人題〟
〈文化壬申陽月は九年十月〉
◯『江戸参府紀行』(ジーボルト著 斎藤信訳 平凡社 東洋文庫87)
(p50 1826(文政9)年2月16日記事 大村宿のフキ(蕗)に関して)
〝後に友人のひとり、江戸の宇田川榕庵が大フキの葉を一枚わけてくれたが、それは直系一メートルあっ
た。出羽の国、秋田付近ではフキはもっと大きくなるということで、日本の画家北斎は彼の画集の中で、
農夫がフキの大きな葉の下で、雨宿りしている有様を描いている。(北斎漫画七編『出羽秋田の蕗』の
図をいう)〟
〈『北斎漫画』七編は文化14年(1817)刊〉
◯『絵本庭訓往来』前北斎為一老人画 初版文政十一年(1818)刊 永楽屋 巻末広告
(新日本古典藉総合データベース・本)
〝北斎漫画 為一老人筆 自初編至十五編 各一冊ツヽ
此書は宇宙(てんち)の間にあらゆる人物花鳥山水草木生(しやう)有物(あるもの)を始(はじめ)品物一ツ
として洩すことなし古今独歩の画手本(ゑでほん)なり〟
〈文政11年時点では十編(文政2年刊)まで。巻末広告には天保5年刊の『富嶽百景』などが出ているから、この『絵本庭
訓往来』はそれ以降の再版本。十二編が天保5年、十三編が嘉永2年、十五編が明治11年刊とされる。永楽屋はこの広
告で「自初編至十五編」としているから、この時点で十五編までの出版を予定していたものと思われる〉
◯『続・絵で見る幕末日本』(エメェ・アンベール著 講談社学術文庫本)
(「田舎」文久3・4年(1863・4)滞在記)
〝北斎の素描はひねくれているが、愉快で、米倉でもっとも恐るべき敵、鼠どもにもっとも貴重な穀物を
台なしにされているありさまを描いている。この傑作な場面に欠けているものは何もない。(中略)も
っとも細かい点までも、整然とした構図で、細心の心遣いで描かれている。こうしたおかしく、軽妙で、
かつ無邪気に、また、ある場合には英雄喜劇的に、日本人は非常な気楽さと独創性を発揮するのである〟
〈これは『北斎漫画』第十編「家久連里」図(文政十二年・1819刊)についての感想と思われる。線描と構図に高い評
価を与え、「おかしく、軽妙で、かつ無邪気」といった感興を、文化の違いを超えて異国の人にも喚起する北斎の力
量を高く評価しているのである。こうしてみると、浮世絵を美術的な観点から高く評価する機運が既に始まっており、
明治以降の西洋におけるジャポニスムの種はこれらの人々が蒔いていったと言うことも出来よう。文久年間、『北斎
漫画』は十四編まで出版。十五編は明治11年刊〉
◯『近世画史』巻二(細川潤次郎著・出版 明治二十四年(1891)刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝(葛飾北斎の項)北斎漫画若干巻、大いに世に售(う)れ、印板之の為漫滅するに至れり。余、米国華盛
頓(ワシントン)に在し時、一画士を訪(おとな)ふ。乃ち架上の漫画数巻を抽(ぬ)きて余に示し、嗟賞して輟
(や)まず。蓋し北斎の画、参に洋法を以てす。其の用筆縦逸にして拘わらざるに似たりと雖も、遠近向
背、定度を失はず。故に特に洋人の喜ぶ所と為るのみ〟
〈著者・細川潤次郎の訪米は明治4年(1871)。北斎の画は一見自由奔放に見えるが、遠近向背(前後)の表現は西洋画法の
基本通りだから、西洋人には好まれるというのである〉
◯『葛飾北斎伝』(飯島虚心著 蓬枢閣(小林文七) 明治二十六年(1893)刊)
(鈴木重三校注 岩波文庫本p129)
〝織田杏斎氏【名古屋の人、同所元重町に住す。画を善くし、陶器に画き、又七宝の下画を画く。予の名
古屋にある、一日同氏を訪ふ、同氏の年齢四十五六】曰く「『北斎漫画』の十四編十五編は、北斎翁の
遺墨をあつめたるものなれど、十五編に至り、丁数不足して、一冊となすこと能はず。永楽屋大(おお
い)に苦しみ、終に予をして他書にある北斎の画をあつめて、画かせ、一冊となしたり。十五編の中に、
桜の精霊および児島高徳などの画は、皆予が北斎にならひて、画きたるものなり」又曰く「北斎の門人
は、当地には、四五人もありし由なるが、今は皆死んで跡なし。かの『漫画』十五編のかきたしも、実
は其の画風の人に画かせたきことなれど、其の人あらざれば、終に予に依頼せしなり(以下略)」
◯『若樹随筆』林若樹著(明治三十~四十年代にかけての記事)
(『日本書誌学大系』29 影印本 青裳堂書店 昭和五八年刊)
※(原文に句読点なし、本HPは煩雑を避けるため一字スペースで区切った。【 】は割書き ◎は不明文字
全角カッコ(~)は原本のもの 半角カッコ(~)は本HPが施した補記
(北斎漫画)p14〈明治30年代後半記事〉
〝武田信望翁談 『北斎漫画』第十四第十五編は 尾州の人 瀧(ママ)田杏斎の絵くところ 現存の人〟
〈瀧田は織田の誤植。織田杏斎(弘化2(1845)年~大正1(1912)年)は名古屋の絵師。この杏斎の談は飯島虚心の『葛飾
北斎伝』(明治26年刊)上巻に載っている。武田翁はそこから引いたか。但し、虚心の同書では「十四編十五編は、
北斎翁の遺墨をあつめたるものなれど、十五編に至り、丁数不足して(云々)」とあり、十四編まで杏斎が画いたと
は言っていない。なお十五編の出版は明治11年である〉