☆ 貞享四年(1687)
◯『男色大鑑』巻五・五 井原西鶴作・貞享四年(1687)
〝玉村吉弥が情にて、命捨し人数をしらず、江戸中寺社の絵馬に、吉弥面影を乗掛に、坊主小兵衛が馬子
の所、是を見てさへ恋にしづみ、今に世がたりとはなりぬ〟
〈小学館の『日本古典文学全集』の『井原西鶴集(2)』の巻末「『男色大鑑』登場役者一覧」によると、玉村吉弥は万治
~寛文年間(1658-73)の役者で、晩年江戸に移って女役から立役になったと伝えられ、延宝初年には姿を消していると
ある〉
☆ 文化元年(1803)
◯『近世奇跡考』〔大成Ⅱ〕⑥293(山東京伝著・文化元年(1803)十二月刊)
(「小兵衛(コヘイ)人形」の項)
〝江戸に名高く聞えし、坊主小兵衛と云俳優(ヤクシヤ)は、延宝、天和、貞享の頃を盛に経たる道外形なり。
かしら糸鬂(イトビン)にて、かりそめに見れば、坊主のごとくなればしかいふめり。同時に坊主百兵衛、
坊主段九、小坊主などいふ俳優あり。皆小兵術なまねびたり。其頃小兵衛が姿を、五月の兜人形に作り
はじめて、これを小衛人形といふ。其後段十郎、小太夫などをも、兜人形に作りしとぞ。【以上元禄六
年板本、四場居(シバヰ)百人一首)に見ゆ】其角が小兵衛人形の句、左の如し。
『五元集』 此友や年をかくさず白鬚二毛の身をわすれて、松どの太郎どのなりけりとのゝしれば、
今の人形の風俗、ことさらに小兵衛などいふ人形はなし。
我むかし坊主太夫や花菖 其 角
『五元集』 坊主小兵衛道心して、人々、小兵衛坊主と申ければ、
坊主小兵衛小兵衛坊主とかへり花 同
【案るに、小兵衛長き羽おりを好みて着たり。其頃の小唄に、ぼんさまの長羽おり、このゑいつべしに
はりひぢしやと、うたひしよし、写本『洞房語園』に見ゆ。二朱判吉兵衛が、『大尽舞』に小兵衛の
坊さの長羽おりと作りしも是なり。『本朝文鑑』に、支考が狂名を、坊主仁平といひしも、小兵衛に
なずらへたる名なり。いづれ世にめでられたる者とおぼふ〟
〈『近世奇跡考』は談洲楼焉馬所蔵本『四場居百人一首』所収の「坊主小兵衛」画像を模写して収める。『四場居百人一
首』は童戯堂四囀・恋雀亭四染著、鳥居清信画、元禄六年(1693)刊。二朱判吉兵衛著『新吉原大尽舞』は正徳年間(1711
~15)の成立。各務支考の『本朝文鑑』は享保三年(1718)の跋をもつ。庄司勝富著『洞房語園』は享保五年の序。『五元
集』は其角の自選句集で延享四年(1747)刊だが、其角は宝永四年(1707)の歿である。坊主小兵衛はこれら諸本より前の
時代、元禄以前、延宝、天和、貞享の道外役者。『燕石十種』第五巻所収の「大臣舞考証」(山東京伝著・享和四年序)
に同じ記事あり〉
「坊主小兵衛」 鳥居清信画『古今四場居色競百人一首』所収(東京大学附属図書館・電子版霞亭文庫)