◯『江戸名物百題狂歌集』文々舎蟹子丸撰 岳亭画(江戸後期刊)
(ARC古典籍ポータルデータベース画像)〈選者葛飾蟹子丸は天保八年(1837)没〉
〝牡丹
花ひらのいやしからぬは天ねんと株も大きく咲く富貴草
名にたかき木場の庵に来てみれば牡丹は実にも花の親玉
花の王あるひは富貴と呼るゝもうらやましけれ能名とり草
貴妃が紅粉(べに)さしゝ牡丹にかたつぶり角のかざしも花に似合し
春夏をへたての垣のとなり草我宿顔にぬる蝶はなぞ
つくりなす木場は盛りと成田屋の牡丹も春の花の親たま
時宗は家の株なる木場の庭にさかおもだかの鎧草さく
貴妃が名の牡丹のはなの紅(くれない)は小町紅粉(べに)さへ及ばざりけり
成田やの家の株おって花びらのさても大きく咲富貴草
まれものと人のほめたる富貴草三升にむすぶ庭の袖がき
春十日夏を十日花さかりはつかの内とめづるぼうたん
富貴艸ひらく庵にとふ人はまづしからざる三升連中
弓矢神ます奥庭の園生ふは鎧草てふ花を見るかな
〈牡丹といえば花そのものよりも、木場の親玉・五代目市川団十郎を連想するらしい。三升は定紋、牡丹は替紋。小町紅は高級ブランドの口紅〉
◯『増訂武江年表』2p19(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(寛政年間・1789~1800)
〝いつの頃より始まりしか、西が原に湯島の牡丹屋太右衛門の別荘ありて、花壇に紅白の牡丹英(エイ)を
あらさふ。盛りの頃貴賤群集せり(文化の始めに絶えたり)〟
◯『増訂武江年表』2p58(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(文化年間・1804~1817)
〝尾久村深山玄琳といへる人の園中に、牡丹数株を栽へ、開化の頃見物多かりしが、文化中より絶えたり〟
◯『絵本風俗往来』中編 菊池貴一郎(四世広重)著 東陽堂 明治三十八年(1905)十二月刊
(国立国会図書館デジタルコレクション)(25/133コマ)
〝(四月)深川八幡宮別当永代寺の牡丹
江戸の頃は牡丹を培養するもの至つて少なし、諸侯方に於ても牡丹を園中に栽培し給ふことを聞かず、
鉢物に仕立てたるもの一二鉢あるを珍らしとしたり、其の以前、旗本の士にて牡丹花を数種培養せるよ
り、牡丹屋敷の名を後までも伝へたり、東台上野寛永寺山中にある律院の牡丹は、紅白の大輪にて二株、
幹の丈(たけ)家上に高く出て、珍らしくいとも古株なりき、又深川なる富ヶ岡八幡宮の別当永代寺庭園
は牡丹の培養よくとゞき、花時の頃は乞ふて見物するもの絶へず、然るに種類多からず、又麻布広尾辺
にも、植木屋園中に牡丹を仕立て、人に見せしめしも十株くらゐに過ぎず、又西が原にも牡丹の園あり
たり、何れも立夏より三日目頃、花の盛りなり〟