☆ 享保八年(1723)
筆禍『百人女郎品定』
処分内容 絶板(伝聞)
◎画工 西川祐信(記載なし)
処分理由 宮廷内の隠し事を画き、枕絵にしたこと(「好色本」は禁制)
〈宮武外骨は絶板は否定しないが、馬場文耕の『近世江都著聞集』にいう処分理由、枕絵云々については否定している〉
◯「百人女臈品定」(宮武外骨著『筆禍史』p47)
〝宝暦七年、馬場文耕筆記『近世江都著聞集』英一蝶の項に曰く、
百人女臈の絵共を本として、其後洛陽西川祐信といへる浮世絵師、好色本枕絵の達人といはれしが、或
年百人女臈品定といふ大内の隠し事を画き、其後夫婦契ヶ岡といふ枕絵を板木にして、雲の上人の姿を
つがひ絵に図し、やんごとなき方々の枕席、密通の体を模様して、清涼殿の妻隠れ、梨壺のかくし妻、
萩の戸ぼそのわかれ路、夜のおとゞの妻むかへと、いろ/\の玉簾の中の、隠し事を画きしに因て、終
に公庁に達して、厳しき御咎にて、板を削られ絶板しけるとかや、是世人の多く知る所也云々
又渓斎英泉著『無名翁随筆』に曰く、
西川祐信、古今比類なき妙手なり、春画は此人より風俗大に開けたり、百人美女郎とて、雲上高位の尊
きより、賤のいやしき迄、各其時世の風俗を写し画き分たり、後又是を春画にかきしかば、罪せられし
と云、筆意骨法狩野土佐の二流をはなれず、委く画法にかなひし浮世絵師は此人に限れり、或人の蔵書
に、祐信、画の事にて罪せられし事を書きたるものを見たりしが、書名を忘れたり云々
此両記事によれば、西川祐信は始め『百人女臈品定』といふ普通の絵本を出版せしめ、後又其図を春画
に画きかへて出版せしめしが為め、罰せられたりと云ふにあり、
然れども、春画の『百人女臈品定』といふ版本あるを聞かず、其絶版となりしは享保八年正月出版のマ
ジメなる絵本『百人女臈品定』なるべし、同絵本は、上は女帝皇后より下は湯女鹿恋いの買女に至るま
での風俗を描出したるものなるが、河原者を小倉百人一首に擬したりとて、絶版となりし前例もあれば、
至尊高貴の方々を賤しき買女等と共に画き並べたるは上を畏敬せざる仕業なりとて、公家より絶版を命
ぜられたるならん。然るに之を春画のためと伝ふるに至りしは同人が春画の妙手なりと云ふに付会せし
説ならん乎、講釈師馬場文耕の記述は所謂見て来たやうな嘘なるべし。
〔頭注〕百人女郎品定
マジメの『百人女臈品定』女臈にあらずして女郎と書けり
禁庭に百官百寮の座をわかてり、百敷の大宮人とは訓つゞけり、美女に百の媚あり云々
といへる八文字舎自笑の序文ありて大和画師西川祐信と署せり、大本二冊にて版元は京麩屋町通誓願寺
下ル町の書肆八文字屋なり
其画様は茲に模出せるが如きものにして別に説明文附けり〟
『百人女郎品定』 西川祐信画 (早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)
〈『百人女郎品定』が絶板処分になったという噂の源は、どうやら馬場文耕の宝暦七年(1757)の著書『近世江都著聞
集』にあるらしい。宮武外骨は「講釈師馬場文耕の記述は所謂見て来たやうな嘘なるべし」とこれを否定するが、祐
信には「好色本枕絵の達人」という評判もあってか、渓斎英泉の『無名翁随筆』(天保四年(1833)成立)にもあるよ
うに、祐信が春画で罰せられたという噂は、別に常について回っていたようだ。『近世江都著聞集』のいう枕絵本
「夫婦契ヶ岡」とは「日本古典籍総合目録」のいう『夫婦双の岡』(正徳四年刊)か〉