◯『増訂武江年表』1p(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(宝暦年間・1751~1763)
〝婦女菅笠廃り、青き紙にて張りたる日傘行はる〟
◯『賤のをだ巻』〔燕石〕①238(森山孝盛著・享和二年(1802)序)
〝宝暦の始めより、誰人か青き紙にて張たる日傘をさし始めて後は、女の菅笠すたりて、今は女の笠をか
ぶると云ことは、絶てなし、近き頃のこどもらは、女の笠かぶりたる形はしるまじと思ふ位なり、元来
帽子もすたりて、今は帽子をかぶりて歩行女は一人もなし、櫛押へも又すたりて、誰もさすものはなし、
青傘は其頃ことの流行て、今はすたりたれど、猶残れり、女の髪もそこねず、扁身日を掩ふ故に、署を
避て甚よろし〟
◯『塵塚談』〔燕石〕①269(小川顕道著・文化十一年(1814)成立)
〝夏笠の事、同時頃までは、女笠とて、菅にて大く飛脚の三度様なるを用ひたり、ひもは後のかたを輪に
なし、髻の下へかけ、頷(アゴ)の下にて結ぶ也、これも浴衣と同様、今は被る者なし、近頃は、卑賤の
婦女も青紙にて張る傘になれり、又体様をつくり、婆々などは籐にて編し笠を用ひ、此笠は高価にして、
卑賤の婦は用ひ難し、又近年は、町医者、出家なども青傘を用る者多し、我等、明和年間、京、大坂遊
歴せしに、公家、侍、医師、出家等は皆青傘也き、近年、江戸も京都より移(一字欠)せしとみへたり〟
◯『世のすがた』〔未刊随筆〕⑥37(著者未詳・天保四年(1833)百拙老人序)
〝文政十年の夏頃より、武家町人共白張の日傘をさすもの多し、上方筋には昔よりあれども、江戸にては
医師出家の外は男子日傘を用ゆるものを見ざりしなり、翌年六月に至り御触ありて停止せらる〟
◯『【類聚】近世風俗史』(原名『守貞漫稿』)第二十七編「傘履」p386
(喜田川季荘編・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)
〝文政頃、京坂製小児日傘、芝居俳優肖像等の錦絵三枚を張り、其余は浅黄紙張として専ら女児の日傘と
す。長柄に非ず。小形也。男児は用ひず〟