◯「国主の艶妾」『好色一代女』巻一(井原西鶴作 貞享三年(1686)刊)
(跡継ぎも残さず奥方が亡くなってしまった。奥向きを取り締まる古参の老侍はこれを心配して、国主のお気に召すよ
うな女性を斡旋してもらおうと、京にのぼって周旋屋に相談を持ちかけた。主が言う、いかなる容姿をお望みかと。
すると老侍は持参してきた掛幅の女絵をひろげて、このような女をと、注文する)
〝当世顔はすこし丸く、色は薄花桜にして、面(おもて)道具の四つ(目鼻口耳)不足なく揃へて、目は細き
を好まず、眉あつく、鼻の間(あひ)せはしからず次第高に、口ちひさく、歯並あら/\として白く、耳
長みあつて縁あさく身をはなれて根まで見へ透き、額はわざとならずじねん(自然)の生えどまり、首筋
立のびて、をくれなしの後髪、手の指はたよはく長みあつて爪薄く、足は八文三分に定め、親指反つて
うらすきて(扁平でなく)、胴間つねの人よりながく、腰しまりて肉置(ししをき)たくましからず、尻付
ゆたかに、物越衣装つきよく、姿に位そなはり心立おとなしく、女に定まりし芸すぐれて万にくらから
ず、身にほくろひとつもなきをのぞみ〟
〈美人画(女絵)の容貌は、現実に存在する美女の写生ではない。たとえ実見したとしても、そこからあらまほしき、
すなわち当世で持て囃されそうな容貌を画き手が造形するのであろう〉
◯『江戸風俗総まくり』(著者・成立年未詳)〔『江戸叢書』巻の八 p28〕
(「絵双紙と作者」)
〝美人絵は、前後喜多川歌麿が筆にとゞめ、永子(ママ)も二の舞にて後世あれまさるものを今は英泉美女を
絵がけど歌麿が上にたゝんはかたし〟
〈永子は栄之の誤記であろう。「後世あれまさるもの」の意味が分からないが、歌麿には栄之も英泉も及ばないとい
うのである〉
◯『開板指針』(国立国会図書館蔵)所収
(書物の検閲に関する幕府側の幕末記録)
〝明和二年の此 唐の彩色ずりに習て 板木師金六と云(ふ)もの 板木へ目当(ママ)をつける事を工夫して
初て制出す 天保十三年壬寅年八月 錦絵遊女其外の絵・役者絵等 堅被制禁 同十五弘化元年と改元
の頃よりそろ/\女の絵はじまりし也〟
〈水野忠邦の老中罷免は天保14年(1843)閏9月、同15年12月改元、弘化2年頃から美人画が出回り始めたようである〉
◯『近世風俗史』(『守貞謾稿』)巻之二十八「遊戯」④307
(喜田川守貞著・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)
〝一枚画すなはち錦絵、あるひは江戸絵と云ふ物、伊予正(イヨマサ)と云ひ、紙半枚摺りなり。美人等十三五
編摺の物一枚、価三十二銭ばかり。役者肖像等、わづかに粗なるもの、一枚二十四銭なり〟
◯『傍廂』二篇〔大成Ⅲ〕①36(斎藤彦麻呂著・嘉永六年年(1853)序)
(似顔絵に関する記事)
〝当時は若き男女などの姿をかくに、肩をすくめ、肘を膚によせて、寒げに縮みたる姿にかけり。さる故
に、衣冠の官人も、甲冑の武士も、年若く容顔よきをば、皆さるさまにかけり。寒げに縮みあがりて、
身すぼらしく見ゆるがはやりものなり〟
〈「寒げに縮みたる姿」とは、英泉や国貞など幕末の浮世絵師によって盛んに描かれた猫背のような姿態を指すのだろう〉
◯『古代浮世絵買入必携』p21(酒井松之助編・明治二十六年(1893)刊)
〝錦絵、絵本、及び肉筆物とも、婦人の図最も高価にして、其の中にも半身又は一人立よりは数人にて遊
戯、或いは花見等をなし居る凡(スベ)て面白く賑やかなる図を良しとす。次は男女入り交じりの風俗画
なり。
美人其の他の風俗画にても人物の余り小さきものは却って廉価なり〟