Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ ベンケー (浮世絵仲買商)浮世絵事典
 ☆ 明治二十一年(1888)  ◯『読売新聞』(明治21年8月30日)   〝錦絵の買入 横浜居留地の米国人ヘンケー氏は 文化文政頃迄の我国の錦絵一万枚を 本国の依頼にて    買い集めんとて 昨今頻りに奔走し 其道の者をして 買ひ入るゝ由なるが その価(あたひ)は一枚五    十銭より一円五十銭位にて 歌麿・豊国等の風俗絵を好むといふ〟  ◯「浮世絵商の今と昔」竹田泰次郎談・昭和九年(1934)   (『紙魚の昔がたり明治大正編』反町茂雄編・八木書店・1990年刊より)   (明治十年の西南戦争が終わって不景気が続く時分、明治中期の浮世絵商の草分けの一人である元禄堂吉田金兵衛(通称    吉金(よしきん))が、人形町に古錦絵や草双紙を扱う夜店を出した。すると毎晩毎晩横浜から店をひやかしに通ってく    のベンクリー(通称ベンケイ)なる異国人が現れた。以下はこの吉田金兵衛の甥にあたる竹田泰次郎氏が直接叔父から    聞いた談話である)   〝(竹田談)ブリンクリーという人は、非常に日本贔屓の人で、日本の必要とするいろいろな物貨を、外国の物貨を日本    に輸入し、日本の生糸等を外国へ持って行くという輸出入商、いいわゆる貿易商でしたが、その人がひやかしに来て、    初めて版画類即ち錦絵類をひっくり返しオックリ返してひやかしました。ところが、私の叔父は根が職人ですから、夜    店を出しているようなもののお客様にお話なぞは出来ません。(本HP注、夜店は人形町にあった)ましてや英語などは    一言半句もシャべル事は出来ません。一方はまた片言交じりの日本語で、「コレ一枚イクラデスカ」というのです。然    し、いくらという事が口でしゃべれない、仕方がない、そこで「レコです」といって一本の指を出した。「いや百です」    といった、百というと一銭です。    何しろまだ明治十二,三年頃といえば大抵の者が夜店で百文という正札が掛かっていました。今なら何銭というところ    です。その時代は徳川時代の習慣がずっと残っていて、円といわず両といった。また十銭とか二十銭とかいわず一貫と    か二貫とかいいうような事で、一銭とか二銭とか言わなかった。百というのは一銭なん十枚一銭ずつというのを、百宛    (つぱ)と言ったんです。明冶初年の気分というものは徳川時代の遺風が言葉の上、品物の上に残っていたようです。    それで今の一本の指を出して、「百宛、百宛」、つまり一枚一銭ずつとやりましたところが、それがどうしても判らな    い。多分十銭、その時代の一貫位だと思ったんでしょう。自分でそれらの品物をひっくり返し、五十枚ばかり選り抜い    たそうです。錦絵を勿論ござの上に雑然と列べてあるのですから、今日の夜店のように整然として正札なんかつけてあ    るわけでない。勿論ヨリ取り一枚百文などとも書いてなけれぱ、一貫とも書いてない。それでも五十枚ばかり出して、    昔の五円札、今の百円札より大きな札を出した。    五円札なんかその当時大したものですから、此方はおつりをやるのに弱った。一枚一銭で漸く五十銭なんですから、四    円五十銭という大きなおつりは勿論ない。    ところが、先方の異人は、その絵をぐるぐると巻いておつりも取らずに表の方へとスタスタ行ってしまう。もしもしと    呼んだって判るはずがないから返事もない。どうにも仕様がない。自分も何だか薄気気昧悪くなった。けれどもズンズ    ン行ってしまうのですから。……金が大きいもんですから、誰か隣りの人に借りて来ようかと思って尋ねて見たが、こ    まかいものばかりで、換えようもない。マゴマゴしているうちにどこかへいっちゃった。    そこで、コイツは有難い五円なんという大金が入ったのだから、……マゴマゴしていると、こいつを返そうとでもいっ    てやって来ると大変だというので、早く店を終(しま)って、カンテラを片付け、僅かの品物は風呂敷に包んで、ござと    共に車に積んで人形町の夜店から大急ぎで豊島町の家へ帰って来ました。    家へ帰ると家内が「大変今夜は早いじゃありませんか、お腹でも痛いのですか」「何、痛くない、今日は妙な事が出来    たのだ」「妙な事て一体何ですか」--そこで今の話をしました。    その時分、五両といえぱとても大金で、その時分一日の売上げは多くて一両位でした。大がいの日は二分から六貫位し    か商売がないというような時代です。今の人が考えれば嘘のようなものなのです。    勿論その当時、明治十五年頃巡査の月給が五両二分とか、六両とかいう状態でした。だから、今の人々には到底考えら    れない。それでまあ翌る日は休んじまいました。異人に見つかるとあぶないから。(一同大笑)    それから二、三日経って恐る恐る場所を変えて夜店を出してみました。そうするとまた例の異人がやって来た。こいつ    は何か返しに来たかと思って見ると、なんにも持っていない。ステッキを持っているだけだ。今になにか言うだろうと、    おっかなびっくりながら腹をすえて下を向いていました。非常に内気な人でしたから、あんまり私のようにはしゃいで    いない。そういう性格でしたからジット下を向いていた。    そうするとまた錦絵の積んであるのを選り出した。何枚もひっくり返してまた二、三十枚選って、イクラ、イクラとや    っている。それで相変わらず一本の人差指を出したのです。    今度は、自分で勘定しながら、ポケットから五十銭銀貨を六つばかり出して買つ行った。そこで初めて「これは一枚一    貫ずつに買ってくれるんだな」と気がつきましたから、次に来た時には自分から落ち着いて品物を見せてやりました。    選んで買った品物を見るとみんな歌麿と書いてある。初めて歌麿の錦絵は、一枚一貫ずっに買ってくれるという事が自    分で判った。錦絵屋の営業というものの始まりはこれからでした。    「これは私いくらでも買います。私この絵買います」というので、こちらも「これから毎日来て沢山買って下さい」と    頼みました。    こつは有難い。当時は山になってある古錦絵類、それがツブシみたいに買えるのです。なんでも一貫目いくらとして買    えたそうです。屑屋の建場と申して、屑物が集まる所です。それはもう下谷にも浅草にも神田にも、恐らくは五町か十    町位の間の所に必ず一軒位はあつたものです。紙屑類の問屋ですね。紙屑類の仕切場です。そこへ行けば古錦絵なんて    いうものは、皆千住の紙漉(かみすき)場へ持って行って釜うでにしてしまうので、束になって縄でふんじばってある。    錦絵の古いのなんか買う人はどこにもない。ただ物好きの一部の人がやっと買った位のものです〟    〈明治二年の交換レート 金1両=1円=100銭 金1両=銭10貫文=10000文 1貫=10銭=1000文 1銭=100文=100宛(ツバ)、1銭     =10厘 1厘=10毛。明治十年の西南戦争後に流行した歌の歌詞に次のようなものがあったという「西郷隆盛や枕はいらぬ、いらぬは     づだよ首がない オヤマカチヤンリン、蕎麦やのふうりん盛かけ八厘」(注1)盛り蕎麦が8厘の由。無理な比較だが、2017年の盛そば     600円で比較してみると、1厘は75円で1銭が750円、ベンケイ氏は歌麿の古錦絵を一枚1貫(10銭)で買い上げたというから、換算すると     7500円ということになる。吉金さんはというと、一枚1銭のつもりで指一本を立てたわけだから、当時の江戸人の感覚からすると、歌     麿の錦絵に10銭(7500円)も出すとは何とも気が知れないということになろう。(注1)は「【明治初年より/二十年間】図書と雑誌」    (朝野叉三郎著・昭和12年刊)より(『明治前期の本屋覚書き』p025所収)〉  ◯「【明治初年より/二十年間】図書と雑誌」朝野叉三郎著・昭和12年刊   (『明治前期の本屋覚書き』p081所収・磯部敦編・金沢文圃閣・2012年刊)   (上掲ベンケイさんに関する朝野氏の記事)   〝【古絵本と錦絵】日清戦後の不景気で、生活難の吉田金兵衛(渾名トンカチ)が人形町へ古本と錦絵の露店張をした。    毎夜の様に冷かしに来る外人が或夜錦絵五十枚をより出しコレイクラと云ふ。異人さんに接した事が無い故言語が通じ    ないと思ひ、指一本出した。然るに異人は五円札を出し当方は一枚一銭だから五十銭になる、釣銭が無くまご/\して    居る内帰つて了ふ、遂に夫れ成りけりにして店を仕舞つて、翌日から二三日休み場所を変て店出しをし異人に逢ふては    大変と顔をかくす様にして居たが叉来た、三十枚を選り出して五十銭銀貨六枚を出し立去つた、一枚十銭宛と合点して    安心し、段々お馴染となり、ワタシ歌麿好き何枚でも買升と其人は横浜商館のブリクリン(綽名ベンケイ)其後直接商    館へ持込み他に絵も輸出する様になり大成功、其当時は錦絵なぞは一貫目十銭か十二銭で浅草紙に漉返しもので幾らで    もあり今日の様に珍重されず、現今は貴重品である〟    〈こちらは日清戦争後のエピソードになっているが、すでに神話の領域に入っているような話ぶりである〉