Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ べにずりえ 紅摺絵浮世絵事典
 ☆ 元文年間(1736~40)  ◯『虚実馬鹿物語』鱗形屋孫兵衞板 明和八年刊   (『此花』第十三号 大正二年十月刊)   〝元文の初め、卯時庵琳琳(ママけいりん)の社中より、春興の摺物出し時、初魔弓の画を吉田魚川はじめて    青黄赤の三遍摺となり、及び打出しの白きを工みて其頃世に鳴り、今普く俳集摺物の花とはなれり、そ    れを借りて近き頃もてはやせし略暦の色摺、亦夫をもとゝして錦絵とは成れり〟    〈元文(1736-40)。松木珪琳、別号蓮之。『五色墨』刊。「青黄赤の三遍摺」が紅摺絵〉  ◯「艶本年表」(〔白倉〕は『絵入春画艶本目録』〔国文研・艶本〕は「艶本資料データベース」)    元文二年(1737)頃刊『女酒呑童子枕言葉』奥村政信画 紅摺絵 口絵〔白倉〕    〈〔国文研・艶本〕は「口絵色摺」とする。『浮世絵大事典』の「紅摺絵」の項に「奥村政信の大小暦や、中島屋の清倍     (二代)や清信(二代)の役者絵に寛保二年の早い例がある」との記事があるが、それよりこちらの方が数年早い〉    元文三年(1738)頃刊『小野お通文文庫』 奥村政信画 墨摺    〔白倉〕    寛保二年(1742)頃刊『閨の雛形』    奥村政信画 漆絵  組物〔白倉〕    寛保三年(1743)頃刊『粟島雛形染』   奥村政信画 筆彩色 口絵〔白倉〕    延享三年(1746)頃刊『筒井筒京童子』  石川豊信画 紅摺絵 口絵〔白倉〕             『影法師十二段』  奥村政信画 墨摺    〔白倉〕    延享四年(1747)頃刊『善悪占仕形道成寺』奥村政信画 紅摺絵 口絵〔国文研・艶本〕  ☆ 寛保(1741~1743)~延享(1744~1747)年間   ◯『【寛保延享】江府風俗志』(『近世風俗見聞集』第三所収 )   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝錦絵享保十四年 象来りし時、長崎より象遣ひ権平次と云者、江戸土産とて長崎摺錦絵持参したるが、    紅あい黄の三色摺にて有し、夫より元文頃の至り、漸々江戸にて仕覚たる也 然共甚不手ぎわ成、、段    々と是も結構にはなりぬ〟  ☆ 延享元年(1744)  ◯『放歌集』〔南畝〕②188(大田南畝著・文化九年(1812)四月記)   〝江戸芝神明前に江見屋元右衛門と云草子やあり。三代目上村吉右衛門といふもの、延享元年甲子三月十    四日はじめて合形の色摺を工夫し、紅色を梅酢にてときそめ、また板木の左に見当といふものをなして    一二遍ずりの見当とす。今にいたるまで見当を名づけて上村といふ。はじめて市川団十郎の絵をすり、    又団扇に大文字屋□(ママ)の図を色ずりにして堀江町伊場屋勘左衞門といふものに贈りしより、今の五    代の吉右衛門文化九年壬申まで、六十九年に及べり。此像は三代目上村吉右衛門の肖像なり。今その流    れをくみて源をたづね、末をみて本をわすれざる人々にあたふるものならし      くれないの色に梅酢をときそめて色をもかをもする人ぞする〟  ◯『街談文々集要』p410(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)   (文化十二年(1815)「市松染起原」)   〝『筠庭雑考』巻五、喜多村翁随筆 市松染 紅絵漆絵    延享元年、本町二丁目ニ、寿字越後屋と云呉服店出きぬ、是が安売の引札せし事あり、中略 或老人の    の説ニ、元文頃、あふぎや染などゝひとしく、市松染もはやれりといひしハ、いかゞあるべき、奥村丹    鳥斎が一枚絵に、佐野川市松が呉服物売に出立たる図あり、則寿の字越後屋が小者の体なり【次ニ縮図    あり】石畳【古名霰なり】是を市松ととなへしハ、此時初としらる、又江戸絵錦絵とて、美麗の彩色を    出来はじめハ、この紅絵なり【下略】     按ニ、寿の字越後屋、直安の引札を、町々へ配り、猶また当時若衆方のきゝもの佐の川市松、石畳の     模様を着せ、舞台にて市松模様披露し、錦絵ニまでものして弘メしハ、多く鬻の計策なるべし【今も     まゝあり】     (中略)    『役者年越草』宝暦十一巳年評判記ニ云、     (中略)     御ぞんじの寿越後屋市松染の儀、霜月顔見せより改売ひろめ申候、わけて御ひゐきに思召、御評判遊     シ、忝奉存候、市松染紅摺正名奥村文角政信御召可被下候。     (奥村政信画、佐野川市松の呉服物売りの図、賛と落款)     (賛) 顔見せや札で入こむ呉服店     (落款)正名芳月堂 奥村文角政信正筆 〔瓢簞に丹鳥斎の印〕〟    〈『筠庭雑考』の云う「紅絵」とは現在云うところの「紅摺絵」のこと。越後屋が佐野川市松を起用して市松染の呉服     を弘めたのは、筠庭の考証によると、延享元年(1744)。そして同時に、これを「紅絵」の一枚絵にして、宣伝に一役     買ったのが奥村政信ということのようだ。なおこの『筠庭雑考』の巻五「市松染 紅絵漆絵」は「日本随筆大成」第     二期八巻所収の『筠庭雑考』には見えない〉    ☆ 延享二~三年(1745~46)  ◯『後は昔物語』〔大成Ⅲ〕⑫278(てがらのおかもち(朋誠堂喜三二)著・享和三年序)   〝延享二丑か三寅かの顔見せかと覚ゆ。市村座へは(「延享二年」の朱の添え書あり)吉沢あやめ初下り、    【中村富十郎と吉沢崎之助が兄なり】大根漬の狂言をしたり。上手なれ共評判どつとなし。楠が妻菊水    の紋にて、大名題は女楠よそほひ鑑と、あやめを立たる名題也。其時中村座へは嵐小六初下り也。これ    は芸はあやめより劣たれども、美しく評判もよかりき。【上手雛助が父也。後嵐三右衛門といふ】され    ども見巧者はあやめは上手、ころくはお下手といひけり。これも下手にはあらず。下りの顔見せ、女に    てしばらく也。請は栢莚にて浅黄頭巾の上へ冠をのせたりとか聞えし。小六着付は鶴菱にて暫の着附と    見えたり。掛素袍計にて扇に栢莚が筋ぐまの角前髪の顔を画きたるを、顔にあててにらむと云趣向也。    其頃の能案じといふなるべし。我其一枚絵を貰て持たりしが、漸彩色摺の初りたる時也。され共墨と紅    と草の汁と、三枚板にて所々食ひ違もありき。小六が野郎帽子の所は、紅と草の汁と重ねてすりて、紫    にこぢ付たる物なりき。奥村文角政信が絵かと覚ゆ。画の上に発句に、かほ見せや鶴の巣ごもり小六染    とあり〟    〈「江戸時代 江戸歌舞伎興行年表」(立命館大学アート・リサーチセンターの公開アーカイブズ)によると、「女楠     よそほひ鑑」は延享二年の顔見世。嵐小六の「女しばらく」は延享三年の顔見世(外題は『天地太平記』)とある。     したがって、奥村政信の三色を使った紅摺の役者絵は延享三年十一月の売り出しである。墨線に紅と草と紫の三色、     このうち紫は紅と草との重ね摺り、見当がうまくいかなかったのか「所々食ひ違」いもあったとある〉    ☆ 寛延年間(1748~1750)  ◯「浮世絵類考追考」(山東京伝著)   〝寛延の頃より彩色を板刻にする事を仕はじめて、紅藍黄の三べん摺也〟    ☆ 宝暦年間(1751~1763)  ◯『反故籠』〔大成Ⅱ〕⑧252(万象亭(森島中良)著・文化初年成立)   (「江戸絵」の項)   〝(奥村政信や元祖鳥居清信の漆絵記事あり)    夫より後、清信色摺の紅絵を工夫し、紅藍紙黄汁の三色を板にし以て売出せし所、余り華美なる物なり    とて差留られしが、幾程なくゆるされぬ。宝暦の頃まで皆是なり。其比の画工は清信が子の清倍、門人    清広、石川秀信、富川房信などなり〟    〈本文「紅絵」となっているが「三色を板にし云々」とあるから紅摺絵であろう〉    ☆ 文化元年(1804)  ◯『摂陽奇観』巻四四(浜松歌国著)   「文化元年」   〝絵本太閤記 法橋山(ママ)画寛政九丁巳秋初編出板七篇ニ至ル江戸表より絶板仰せ付けらる、其趣意は右    の本江戸にても流行致し、往昔源平の武者を評せしごとく婦女小児迄夫々の名紋所など覚候様に相成、    一枚絵七つゞき或は三枚続きをここは何の戦ひなど申様に相成候ところ、浮世絵師歌麿と申すもの右時    代の武者に婦人の画をあしらひ紅摺にして出し候、    太閤御前へ石田児にて目見への図に、手を取り居給ふところ、長柄の侍女袖を覆ひゐるてい    清正酒えん甲冑の前に朝鮮の婦人三絃ひき舞ゐるてい、其外さま/\の戯画あり    右の錦絵 公聴に達し御咎にて、絵屋は板行御取り上げ絵師歌麿入牢仰せ付けられ、    其のうえ天正已来の武者絵紋所姓名など顕し候義相ならず趣、御触流し有り、猶亦大坂表にて出板の絵    本太閤記も童謡に絶板に相成候、初篇開板已来七編迄御許容有り候処、かゝる戯れたる紅摺絵もうつし    本書迄絶板に及ぶこと、憎き浮世絵師かなと諸人いひあへり〟    〈大坂の浜松歌国は玉山の『絵本太閤記』を絶板に追い込んだのは浮世絵師・歌麿だという。その歌麿画の絵柄は「太     閤御前へ石田児にて目見への図に、手を取り居給ふところ、長柄の侍女袖を覆ひゐるてい。清正酒えん甲冑の前に朝     鮮の婦人三絃ひき舞ゐるてい」である。     さて、享和三年の「一枚絵紅ずりに長篠武功七枚つづき」の記事がよく分からない。「紅ずり」という言い方が気に     なる。享和三年の一枚絵に対して、当時の江戸は「紅ずり」という呼び方をするであろうか。「浮世絵師歌麿と申す     もの右時代の武者に婦人の画をあしらひ紅摺にして出し候」とも「かゝる戯れたる紅摺絵もうつし本書迄絶板に及ぶ     こと、憎き浮世絵師かなと諸人いひあへり」ともある。この「紅摺絵」は歌麿に対して使っているのであるから、宝     暦頃の石川豊信たちの「紅摺絵」とは思えない。すると江戸でいう「錦絵」を大坂では「紅摺絵」と呼んでいたのだ     ろうか〉    ◯『浮世絵の諸派』上下(原栄 弘学館書店 大正五年(1916)刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇紅摺絵(上105/110コマ)   〝紅摺絵というても紅ばかり用ひたものでなく、藍・黄などもつかつて居る。画工は鳥居派・奥村派を始    め石川豊信・鈴木春信等に至る迄かいた。大判紅絵とて竪一尺三寸横九寸五分程のものもあり、大判長    紅絵とて竪二尺二寸横五寸位のものもある〟   ◇紅摺絵(下39/110コマ)    (「自建武至慶應風俗画及板画」京都博物館 明治39年(1906)刊)    〝寛延三年頃の奥村利信の版物には、紅と代赭とを混用し、宝暦四年頃の鳥居清満の版物には、四色を     巧みに配置し、色に色を重ねて、濃淡の変化を極めたり(中略)同宝暦九年鳥居清満の版物には、従     前の紅緑二板の外に黄色の一板を加へたり。又鳥居清重の版物には、緑色に代ふるに代赭を用ゐたる     ものあり。同十年鳥居清満の版物には、緑色を用ゐず、故意に青色を用ゐ、一層黄色を調和せしめた     り。古代画家、三原色即ち赤・青・黄を巧みに用ゐ、鳥居清里の版には、青色は温雅なる鼠色となり、     黄色は青茶色殆ど褐色に類する程濃k、赤色は稍々紅を減じ、青色の上に摺り合せたる黄色は青茶色     の如く見ゆ。石川豊信版物には、青色を始めて重畳して紫色を出せり。明和元年頃、鳥居清満の版物     には、三原色赤・青・黄の色版を用ゐ、赤青を重版して紫色を出し、青黄の重版より緑色を得たり〟     〈著者・原栄はこの部分は 『国華』に掲載された自建武至慶應風俗画及板画」の「孫引」という〉  ◯「淡島屋のかるやき袋」p122(『梵雲庵雑記』淡島寒月著 岩波文庫 昭和八年(1933)刊)   〝何故昔はかるやき屋が多かったかというに、疱瘡(ホウソウ)、痲疹(ハシカ)の見舞には必ずこの軽焼(カルヤキ)と達    磨(ダルマ)と紅摺画(ベニズリエ)を持って行ったものである。このかるやきを入れる袋がやはり紅摺、疱瘡神    を退治る鎮西八郎為朝(チンゼイハチロウタメトモ)や、達磨、木菟(ミミズク)等を英泉や国芳(クニヨシ)等が画いているが、    袋へ署名したのはあまり見かけない。他の家では一遍摺(イッペンズリ)であったが、私の家だけは、紅、藍(ア    イ)、黄、草など七、八遍摺で、紙も、柾(マサ)の佳(ヨ)いのを使用してある。図柄も為朝に金太郎に熊がい    たのや、だるまに風車(カザグルマ)、木菟等の御手遊(オモチヤ)絵式のものや、五版ばかり出来ている〟  △『増訂浮世絵』(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝紅摺絵の顔料は、紅、黄、草色、藍などであるが、何れも原色のまゝであつて、複雑な色彩を出しては    ゐない。紅も藍も今では褪色して一見黄色と思はれるものが、往々あるが、委細に見れば、その原色が    紅であるか藍であるかは知り得る。(中略)    紅を主として、黄、緑を用ひたので、二色三色を常とすれども、後にはやや進んで、四色五色を用ふる    やうになつた。然し大体、紅が主であるから、これらをも、やはり紅摺の名で呼んでゐる。(中略)    二色又は三色摺の簡単なる紅摺絵前期の作者は、鳥居の二代清信と二代清倍、その外に奧村政信、西村    重長、石川豊信などであり、後期の四色又五色摺の時期では鳥居流清満、清広、清経などである。なほ    鈴木春信、北尾重政などの初期には紅摺絵を作つてゐる〟(p86)   〝漆絵から紅摺絵に進むのに、奧村政信の力は、與つて多かつたのであるが、この時代に、西村重長、石    川豊信の如きも、亦注目すべきものである。なほ漆絵の作者に広瀬重信がある。西村、石川は本氏であ    るが、西村を名乗るものに、重信あり、重長あり、石川を称するものに、豊信、昔信、豊雅などがあつ    て、一流をなして居る。共に漆絵紅摺絵の両期に跨つて居るが、西村重長の門下には、後に有名なもの    が、可なり多く輩出して、紅摺絵及錦絵の初期を飾つて居るので、紅摺絵の方に入れて考へるのが、系    統上に都合がよい。また豊信も始めは、漆絵であるが、色々工夫して、二三色摺の優秀なるものを作つ    たのであるから、この人も茲に入れるのが相当である。また鳥居流の人々では、二代清信、清倍の後を    うけた清満が、紅摺絵に優麗な態を以て役者並に美人画を作つて、版画界を賑はした。その外には鳥居    を名乗るものに、清広、清重、清里、清経、清久などがあつて、何れも紅摺絵を作り、清信、清倍の余    勢をうけ、鳥居流に一大勢力をなして居る〟(p95)