◯『増訂武江年表』2p238(斎藤月岑著・明治十一年成稿)
(明治四年・1871)
〝三月二十日より六十日の願にて、本所回向院に於いて相州関本最乗寺道了菩薩開帳あり。(中略)
境内に蹴鞠の曲まりの見せ物出る。又紅勘と呼ばれるゝ老夫音曲をなし、道化の所作をなす見せもの出
たり〟
◯『絵本風俗往来』下編 菊池貴一郎(四世広重)著 東陽堂 明治三十八年(1905)十二月刊
(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝紅かん(109/133コマ)
安政の頃より明治の初年に及ぶまで、向島・新よし原・三谷・浅草・下谷より日本橋付近に於いて、其
の名を恣(ほしいまゝ)にして貴賤の愛顧を受けたる紅かんは、生まれ付き音曲の技芸に長じける、され
ば市中路上に於いて演芸せしむるの惜しきを嘆ぜぬものあらざりし、而して江戸最終遊芸家名技の一人
なりける、紅かんの実名を未だ詳(つまびら)かにせずといへども、紅かんは起初(もと)浅草駒形辺なる
老舗の一子なりとかや、天稟(てんせい)鳴物を好み、三味線・太鼓・笛・手踊り・長唄を習ひて、長唄
三味線は実に其の妙を自得したり、故に祖先より伝来の業を受襲(うけつぐ)ことを肯(がへん)せず、父
より家産の一部を与へられるより、風流なる家居を営みたる、扨(さて)当時男の遊芸を好めるは十に八、
九は身を誤るの例(ため)し多きより、父母よりは固き戒めを受け、必ず遊芸は止めよと制せられしこと
節々なりしが、生得好める道にして色欲を離れて好めるものから、父母に親族のいふ所も用ゐざりける、
今度紅かん、己(おの)が家を構へしが妻を迎へず、さればにや、諸遊芸人の日夜当家出入りするに心ざ
はりは絶へてなく、主人好みの芸づくし、随つてまた飲食の奓(おご)りより衣類の流行、今日は芝居明
日は花見、また色里へ通ひける、本家へ隠れ双親(ふたおや)親族(みより)の目を忍びて遊べるうちに、
双親はなき世の人となりし後は、本家親族も持て余して、誰とて戒め諫むるものなきを、自分は却つて
打ち歓び禍神(まがつかみ)の去りし如く、益々遊蕩増長なし、無頼(ぶらい)の徒などに欺かれ、浪費
(ついへ)彌(いよ/\)夥しく、金山持てる富にもせよ、坐して喰へばつくるの道理(ことはり)、乍(た
ちま)ち其の日に不足を告げしも、従来貧(ひん)といふことの実地知らざるなれの果て、如何にせん金の
若旦那、昨日(きのふ)に変はる今日の瀬と、歌の文句は目前(まのあたり)、本家に帰るも面目(おもぶ
せ)なく、誰を怨みんやうもなく、秘蔵の琴や笛太鼓、売り食ひにする墓(はか)なさは、鼓の調べ緒切
れ果て締めくゝりなき光景(ふぜい)なり、是に於いて好みをつくせし住居、馴れたる家を売り、其の金
所持して転宅したるも、以前に変はる貧巣窟、近隣何れも困窮人、其の日暮らしの者として穢きことさ
へ限りなし、此所に暫くしのびごま、嗜(すく)三味線の撥よりも親の罰こそ当たりと自ら悔ゆるぞ、紅
かんの名の広まれる初根(もと)なるべし、紅かん熟(つくづ)く思へるやう、吾(われ)幸ひに不足なき家
に生まれ、身の不自由を覚えぬより、遊怠に耽りて此の始末、此の近隣に住む人とて根から貧にはあら
ざるべし、有為転変は浮世の常、不幸の祥(さが)の身の果と諦めて稼ぐより、細くも其の日を送るなり、
吾も今より改心して亡(なき)双親への申し訳、本家親族への詫(わび)のため、不幸重ねし罪亡(ほろぼ)
し、身を苦しめて働きなば、独身の世渡り出来えぬことやはあるべからず、亡双親(ふたおや)へ苦労を
かけ覚えし芸を種として辛くも其の日を過ごさんずと、又顧慮して思へるは本家の前あり、世間へ外聞、
放蕩者の果て見よと、口の端になる恥ずかしさ、さりとて斯くては果てぬなり、姿を変へて出でたらん
に容易に知らるゝものでもあるまじと、其の工夫なす拵(こしら)えは、人の脳袋(あたま)の数の外と、
蒙(かむ)つ頭巾は水浅黄、下に流れし心なり、人の見る眼の百眼(ひやくまなこ)、自らかけて忍ぶ身は、
恥辱(はぢ)を印しの看板にて、人に面を合せぬと、好みの褂子(うはぎ)出来(しゆつらい)て、手足働き
稼がんと袖脱ぎ返して背に翻へし、褌子(はかま)は膝にくゝり上げ、足に任せの脚絆拵へ、晴天にも大
黒傘を斜めに背負ふは、人には物を借りぬ覚悟、七輪の鉄網(かなあみ)を打ち鉦(かね)に代へ、小太鼓
と共に三味線の胴のあたりに結い付け、三味線と共に鳴るの仕掛けをなし、用ゆる所の三味線は一升枡
を胴に用ゐ、棹は竹を用ゐ、天神には科斗杓子(おたまじやくし)を用ゐたり、横笛取つて襟に指し、手
踊りに遣ふ所の仮面(めん)・鈴・扇などは袋に納めて腰に結い付け、一人にして数人の働きを兼ねる思
考なり、偖(さて)此の身支度とゝのへて、春は花見の場所、夏は涼しき涼みの所、秋冬季候に相応する
其の街衢(まち/\)を、笛・太鼓・三線を奏(ひき)つゝ、来れる音色を聞くや否、呼びてみよ招きてよ
と其の姿さへ、隅田川の乗り合ひ船にありもやすると、いと珍しく覚へしより、演ずる芸も非凡なるま
ゝ、再び廻り来れるを遅しと訝る愛顧を得て、誰いふとなく紅かんよと、其の名は頓に大江戸の八百八
丁、貴賤おしなべ四里四方に喧(かまびす)しかりける、紅かん、今は不足なく日を送れるより、残こり
金の金銭ある時は、近隣なる困窮人に贈りて遣はしけるとなり〟
〈国立国会図書館デジタルコレクションに紅勘の画像あり(106/133コマ)〉
△『実見画録』(長谷川渓石画・文 明治四十五年序 底本『江戸東京実見画録』岩波文庫本 2014年刊)
〝べにかんは、予の知りし頃は六十歳位にて、曲物胴竹製の三味線に、笛・太鼓・鉦の類を合せ、趣味あ
る小唄をうたいながら、面白おかしく踊り廻り、其三味線・太鼓といへども、同時に音を発する様工夫
をなし、三味線の音〆もよく、撥はめし杓子、腰には瓢を提げ、顔には百眼(ひゃくまなこ)と唱ふる紙
製の目かくしを掛け、衣類は木綿作りなるも、頗ぶる茶気ある風流なり。浅草駒形町にありし、紅かん
と称する化粧品を扱ふ商家の出なりおとか。果して其如くなれば、道楽の結果ならん。兎に角変り者と
いふべし。此人通過れば、如何なる人が芸を求むるも、応ぜずして行過るなり。就中(なかんずく)二ち
やう三味線は得意なりし〟〈幕末から明治初年にかけての見聞記〉