☆ 享保初年(1716~)
◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)
◇「享保四年 己亥」(1719) p74
〝此頃より和泉屋権四郎紅彩色の絵を売り始む。即ち紅絵の始まりなり〟
◯『本朝世事談綺』〔大成Ⅱ〕⑫476(菊岡沾凉著・享保十九年刊)
〝紅絵
浅草御門同朋(ドウボウ)町和泉屋権四郎と云者、版行のうき世絵役者絵を、紅彩色(ベニザイシキ)にして、
享保のはじめごろよりこれを売(ウル)。幼童の翫(モテアソ)びとして、京師、大坂諸国にわたる。これ又江戸
一ッの産と成て江戸絵と云〟
〈文化十年、山東京伝は『骨董集』の中で、この記事中の「紅彩色(ベニザイシキ)」を「紅絵」と考証している(文化十年の
項参照)その『骨董集』が引く「臙脂絵売図」をみると、行商人の背負う箱には「風流紅彩色姿絵」の文字がある。
当時はこの「紅彩色」を「紅絵」と称していたようだ。次項『増訂武江年表』でも、享保十八年の江戸名物の記事とし
て「油町紅絵」とある。また『浮世絵大事典』「紅絵」の項によると、享保年間の和泉屋板商標に「べにゑこんげん」
ともあるから、この「紅彩色(ベニザイシキ)」を当時「べにゑ」と呼んでいたことは確かである。ところが、下出の『宴遊
日記』や「浮世絵考証」の記事では、あきらかに紅摺絵をも「紅絵」と呼んでいる。(南畝は『北斎漫画』の序の中で、
錦絵さえ紅絵と呼んでいる)そうすると、現代の我々がいう、墨摺に筆彩色の「紅絵」も、その後生まれた見当付の二
三色摺り「紅摺絵」も(南畝に至っては多色摺りの錦絵も)、文化期以前は「紅絵」と称して一括りしていたのではあ
るまいか〉
◯『江戸名物鹿子』中(豊嶋治左衞門 豊嶋弥右衞門撰・須原屋与兵衛板 享保十八年(1733)刊)
〝油町紅絵 物いはず笑ずとても梅の花 綉葉
(三幅対 中 江戸 新吉原 三浦)音雪画〟〈京・江戸・大坂 遊女三幅対の内、江戸新吉原の三浦屋遊女図〉
油町紅絵(早稲田大学古典籍総合データベース)
☆ 享保十七年(1732)
◯『近代百談』(大野静方著『浮世絵と版画』p70より)
〝富川吟雪房信といふ人、丹絵の彩色を紅にて始めたるを珍らしく鮮かなりとて評判云々〟
〈『近代百談』国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」には見えない〉
☆ 享保十八年(1733)
◯『増訂武江年表』1p221(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(享保十八年刊『江戸名物鹿子』より、同時代の名物)
〝塩瀬饅頭、本町色紙豆腐、味噌屋元結、本郷麹室、歌比丘尼鬢簓、油町紅絵、白木呉服、本町益田目薬
五霊香、破笠塗物、清水夏大根種、勧化僧、赤坂左たばこ、浅草茶筌、芝三官飴、横山町花蓙織、弥左
衛門町薄雪せんべい、浅草簑市、こん/\妨、吉原朝日のみだ、さん茶女郎、目黒飴、駒込富士団扇、
麹町助惣やき、てうし蝶、髭重兵衛が飴、赤坂鍔、長坂元結、松井源左衛門居合、佃島藤、吉原太神楽、
麹町獣、湯島唐人祭のねりもの、浅草柳屋挽伍倍子、両国の幾世餅〟
☆ 安永二年(1773)
◯『宴遊日記』(柳沢信鴻記)〈本HP「その他」を参照〉
◇安永二年
〝正月七日 本屋新助、懐暦・絵本・絵戸二色紅絵を進む〟
〈本屋新助は柳沢家出入りの本屋か。例年、年始に錦絵や絵草紙を持参してくる。懐暦は折り畳み式の懐中暦(約4.5㎝×
8.0㎝)「絵本絵戸二色紅絵」とは、弄籟子作・四方赤良序・北尾重政画の手遊び(玩具)絵本『江都二色』と「紅絵」
という意味であろうか。この「紅絵」時代的に言えば、墨摺に筆彩色の紅絵ではなく、板木に見当を付けた色摺版画の
紅摺絵であろう。次の寛政十二年の項「浮世絵考証」でも、大田南畝がやはり紅摺絵を紅絵と称しているから、当時は
そういう認識が一般だったものとみえる〉
◇安永三年
〝正月八日 紋附をとる【お門ら江おりうより江戸名所紅絵はこ入つかハす】〟
〈「紋附」は紋付きカルタをめくる遊び。「江戸名所紅絵はこ入り」はその景品のようだが未詳〉
〝正月九日 お隆紅絵三冊物つかハす
〈「紅絵三冊物」は未詳〉
〝十一月八日 (浅草寺)風神黒門わきにて【左側】今度㒵見の紅絵十町(大谷広次)・仲車(中車・市
川八百蔵)を買ふ、(中略)並木町にて秀鶴(中村仲蔵)・門之助の絵を求め、谷・誠・八百・岑につ
かはす〟
〈「㒵見の紅絵」とは顔見世の役者絵のことをいうのであろうが、この頃の役者似顔絵は既に錦絵になっている。錦絵と
言わず、なぜ紅絵と称したのだろうか〉
〝十一月廿五日 (湯島天神)女阪下にて鸚鵡石・顔見世尽買ひ、中町にて小道具を見、又絵本やにて似
面紅絵買ひ(云々)
〈鸚鵡石は名台詞を集めた冊子。ここの「似面紅絵」は、翌年二月六日にいう「錦絵似面」とはどう違うのであろうか〉
〝十二月七日 並木にて中車(市川八百蔵)紅絵三ッ買、(略)八百へ中車の絵、住へ三升(市川団十郎)
の絵つかはす〟
◇安永四年
〝二月六日 (湯島天神参詣)錦絵似面を買ひ、坂下にてふくべ烟入を求む〟
〈ここでは「錦絵似面」と言っている〉
〝十月十二日 (浅草)紅絵みせにて団蔵・秀鶴(中村仲蔵)似面を買ひ、飴を土産に買しめ(云々)、
お隆へ遣ハす〟
◇安永七年
〝三月四日(湯島)女坂を下り絵双帋やにて訥子(沢村宗十郎)之紅絵二枚買ひ(云々)訥子絵を八百・
のへに遣す〟
◇天明元年(安永十年)
〝正月十六日 たかより錦絵貰ふ。お隆草双紙・紅絵貰ふ〟
〈ここでの錦絵と紅絵との使い方にどのような違いがあるのか、よく分からない〉
〈以下、日記には正月を中心に、紅絵・錦絵・絵草紙・役者絵・似面(にずら)等の言葉が頻出するが、省略。本HP「その他」参照〉
☆ 寛政十一年(1799)
◯『狂歌東遊』(浅草市人撰・画工北斎・蔦屋重三郎板・寛政十一年刊)
「絵草紙店」
(蔦屋重三郎(耕書堂)の店先の図、看板に「通油町 紅絵問屋 蔦屋重三郎」)
紅絵問屋『画本東都遊』所収(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)
〈『画本東都遊』は『狂歌東遊』の狂歌を抜いた改題本で享和二年刊。原本の『狂歌東遊』は墨摺。さて、この「紅絵問
屋」は絵草紙・一枚絵(錦絵)問屋と同義である。すると、寛政当時の「紅絵」の呼称は、享保年間の紅彩色版画をさ
す歴史的用語として使われていたわけでなく、どうやら色彩つき版画の総称として使われていたようなのである〉
☆ 寛政十二年(1800)以前
◯「浮世絵考証」〔南畝〕⑱443(大田南畝著)
〝石川豊信秀葩
宝暦のはじめ紅絵に多し。(以下略)〟
〈この「紅絵」は前条『本朝世事談綺』の「紅彩色」絵とは違って、紅摺絵のことをいうようだ。南畝はこのあたり無頓
着だったようで、文化十一年の『北斎漫画』の序でも、明らかに錦絵を紅絵と呼んでいる。南畝は、色付き板画を筆彩
であれ三色摺りであれ多色摺りであれ、「紅絵」と称した感じがする。〉
☆ 享和二年(1802)
◯「浮世絵類考追考」(神宮文庫本・山東京伝著・享和二年記)
〝享保のはじめ同朋町いづみや権四郎といふ者、紅彩色絵を売はじめ、是を紅絵といふ〟
〈山東京伝は前出『本朝世事談綺』をそのまま引いている〉
☆ 文化十年(1813)
◯『骨董集』〔大成Ⅰ〕⑮376(岩瀬醒(山東京伝)著・文化十年成)
〝臙脂絵売(べにゑうり)
紅絵と云は、享保のはじめ創意(シイダセシ)ものなり。墨に膠を引て光沢を出しけるゆゑに、漆絵ともい
へり。奥村政信もはらこれをゑがけり〔近代世事談〕【享保十九年板】云、「浅草御門同朋町何某とい
ふ者、板行の浮世絵役者絵を紅彩色にて、享保のはじめ比よりこれを売。幼童の翫びとして、京師、大
坂諸国にいたる。これ又江戸一ッの産となりて江戸絵といふ」とあれば、左に摸(ウツ)し出すは、享保の
比の紅絵売の図なるべし。【板行の一枚絵のはじまり延宝、天和と決れば、今文化十年にいたりて、お
よそ百三十余年を経たり。ふるきをしるべし】〟
(「瞭雲斎蔵」の「臙脂絵売図(べにゑうりのづ)」あり。【これは享保のころの一枚摺の板行絵なり】
の割り書きあり。図柄は、「吉原」「風流紅彩色姿絵」の文字がある箱を背負い、女の姿絵を棒に吊
り下げて売り歩く若衆。「吉原」とあるから遊女の姿絵である)
臙脂絵売(べにゑうり)『骨董集』所収
〈京伝の考証によって「紅絵」は、享保年間生まれの筆彩色の版画という、歴史的用語となった。しかしこれが当時どの
程度定着したのかはよく分からない〉
◯『近世風俗史』(『守貞謾稿』)巻之二十八「遊戯」④311
(喜田川守貞著・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)
〝享保初め、同朋町(ドウボウチヨウ)和泉屋権四郎と云ふもの、紅彩色絵を売り初む。号けて紅絵と云ふ。
『骨董集』にも、紅絵売りの図を出せり〟
☆ 文化十一年(1814)
◯『六々集抄』〔南畝〕②234(蜀山人稿・文化十一年三月記)
〝北斎漫画後編序
(前略)
こゝに葛飾の北斎翁、目に見心に思ふところ、筆を下して形をなさゞる事なく、筆の至るところかたち
と心をつくさゞる事なし。これ人々の日用にして、いっはりをいるゝ事あたはざるもの、目前にあらは
れ意気にうかぶ。しかれば馬遠・郭照が山水ものぞそきからくりの三景に肝をけし、千枝つねのりが源
氏絵も吾妻錦の紅絵に閉口せり〟
〈この紅絵はあきらかに錦絵と同じ〉
☆ 明治十年(1877)
◯『明治十年内国勧業博覧会出品解説』山本五郎纂輯 内国勧業博覧会事務局 明治十一年六月刊
(『明治前期産業発達史資料」第七集)※(カタカナ)は本文のルビ。(ひらがな)の読みは本HPのもの
〝紅絵及ビ漆絵ハ鳥居清信ノ門人奥村政信・西村重長・近藤清春ノ徒、多ク之ヲ描ケリ。就中政信ハ巧ミ
ニ鍾馗ンヲ写シ、常ニ其眼ニ金泥ヲ抹ス。但紅絵ハ浅草同朋町ニ於テ、和泉屋権四郎ガ出売シタルモノ
ヲ以テ最古トス〟
☆ 昭和二十一年(1946)
△『増訂浮世絵』p43(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年刊)
〝紅絵
筆彩版画としての丹絵は、丹を主色として、藍や黄などの筆彩色であるが、更に紅や黄や藍、緑などを
用ひ、或は銅粉を以て金色を出した筆彩色の絵が作られた。これを紅絵と称した。それ等の顔料には、
相当に多量の膠が、使用されてゐるので、一種の光沢をもつてゐる。丹絵よりは、遙かに手数のかゝつ
た筆彩版画である。
紅絵といふ名称に就いて、一言したいことがある。それは次の時期に、版画が発達して、筆彩色から、
色板を重ね摺して、色摺版画が作られた。紅が主色で、黄や藍が用ひられたのであるが、これをも当時
は紅絵と呼んでゐたのである。それ故紅絵と呼ばれたものゝ内には、筆彩版画と初期の色摺版画とが含
まれてゐるのである。色摺版画が更に進歩して、錦絵となるに及んで、紅絵と呼ばれたものがなくなつ
たのである。従つて単に紅絵といへば、筆彩版画であるか、色摺版画であるかの区別が明かでない。色
々研究上混雑も起り易いので、現時では、筆彩版画の方を紅絵といひ、色摺版画の方を紅摺絵といふて
ゐる。(中略)
紅絵漆絵の作家として、重なるものは、鳥居流で、清信、清倍には遺作が最も多い。なほこの流に属す
るものでは、清忠、清朝などがあり、その他近藤勝信、勝川輝重、岸川勝政、清水光信などは皆漆絵の
作家である〟